序文ー1 金英順レポーター
黄色いレンギョウ、赤いツツジ、四方ははっきりとした春である。太陽は明るくて良く、日差しより月の光はひっそりとして情愛を交わすことができてさらに良かった。
一体この奥妙な自然の調和は、どこから始まり、どこまでで終わるのだろうか? 到底解明できない神秘的な世界を私たちに下さった父母であられる神! ただありがたく思う。
この文をリポートしながら、イエス様の温かな愛、お釈迦様の慈悲、孔子様の礼節の意識、マホメット様の絶対信仰、ソクラテス様の知性、聖アウグスティヌス様の神に対する熱情と野望。この方々のすべての思想と真理を一つにまとめ、神に親として仕えて生きようという誓いを立てることは、肉身を持った地上人として大変感動的である。教派を超越し、互いに愛し、他宗教の真理を謙虚に受け入れて一つになろうと努力する天上の四大聖人と聖賢のように、私たち地上人もそうであれば…。
金英順(キム ヨンスン) リポーター
2001.4.11
序文ー2 李相軒先生
アポロ宇宙船が月に行き、数多くの科学者たちの知性を総動員するとしても、彼らの知性では神が造られた天地万物の調和を変化させることも、分析することもできないだろう。このような神の神聖と無限なる能力を人間の理性で知ろうとするならば、それは無知な人であろう。信じられなくても、そのまま信じるほうが賢明である。
地上人は、自然の変化と神秘だけでも神の神聖に対して感嘆することが多いはずである。ところが、天上で発見した神は、肉身を持った人間には到底理解させることができない。したがって、このような神の摂理を直接目撃した天上の四大聖人と聖賢たちは一つになるしかなかった。各自の居所で各宗教を守るときより、一か所に集まったセミナー式場では、神の華麗な姿を何度か体験して感じたゆえに、皆が互いに努力して変わるしかなかった。
これらの方々は、誰が何と言っても宗教の創始者であり、最高の代表者であったが、神の根本摂理を知ってからは、自身の宗教の特色を消し、相手方の宗教の真理に耳を傾ける姿勢はあまりにも感動的であった。そして、神がきらびやかな宝石で私たちを取り囲んでくださるたびに、私たちは皆、互いに非常に慈愛深く、平穏な顔を向かい合わせて微笑むようになる。
私は、この集まりを主導しながら、限りなく胸が痛いのであった。「地上人もこの現場を目撃して体験するならば、神の摂理と真の御父母様の摂理が一日も早く復帰できるはずなのに…」と考えた。
このような感動と感激の時間が流れるたびに、この方々は皆、速い速度で発展するようになり、神の摂理の方向がどこであるかを確実に悟るようになった。そして、時間があれば自分の宗派の信徒ではない他の宗派の友に会いに行く姿はあまりにも美しかった。そして、彼らの一様な所感は「地上で人類平和のためにご苦労なさる文鮮明先生の父母の心情を理解するようだ」というのである。
これから四大聖人と聖賢たちの方向は一つだけである。ただ神と真の御父母様の摂理の方向だけである。各宗派の特色を見せまいと努力し、皆が一つの方向に向かって決意し、努力している。そして彼らは皆、地上の方向も一つになることを切に願いながら祈祷している。
李相軒(イーサンホン) -2001.4.11.—
李相軒氏 プロフィール
年月 | 事項 |
---|---|
1914年 9月5日 | 生 |
1940年 | セプランス医大卒業 |
1940~1962年 | セプランス医大病院、元山・永同救世射院など勤務、李成内科医院院長 |
1961年 | 36家庭祝福 |
1975~1997年 | 国際勝共連合2代、4代、6代理事長 |
1985~1997年 | 科学の統一に関する国際会議の統一思想分科会名誉議長 |
1991~1997年 | 世界日報副会長、主節、社長 |
1972~1997年 | 統一思想研究院院長 |
1997年3月23日 | 昇華 |
【主要著書】
・ 共産主義の終焉
・ 統一思想要綱(頭翼思想)
・ 進化論から新創造論へ
・ 頭翼思想時代の到来
・ 金日成主体思想の批判
・ 民族主体史観の定立など22巻
天上の秘密
天使の相対
神は天地万物を創造されるとき、すべてを二性として創造された。最も代表的なものとして、人間アダムを創造されたが、独りでいるのを嫌われ、その対象としてエバを創造され、その後に神が喜ばれた。人間をはじめとする万物は、二性性相であられる神の性稟に似るよう創られたのである。それゆえ、天地万物のうち単独で存在するものは何一つないのである。
神は、愛する人間を創造された後、どうすれば子女を保護でき、貴い立場に立てることができるか考えられた。神は、何よりも天使を立て、彼らに人間を保護させて、貴く侍るように、人間を天地万物の最高の長として据えられたのである。それゆえ、こうした天使たちは、常に人間の周辺から離れられない人間の垣根となり、人間とともに生活するようにされた。
すべての天地万物は、神の二性性相の似姿としてペアになっていないものは一つもないが、それなら男性天使の対象は果たして誰か?これは私たちが最も疑問に感じた内容であろう。
神はアダムを創造された後に、エバを創造された。そして前述のとおり、すべての天使たちが男性ならば、男性天使を創造された後、一方で女性天使を創造されたのかという疑問が生じるであろう。神は元来、天使を人間の使者の格位に立てられた。男性天使は創造されたが、女性天使は創造されなかった。
天使は、人間の成長過程において、人間を保護するために創造された。神の子女がまだ相対を成していないのに、天使世界で先に相対を成して暮らすようになれば、人間を保護する情緒と精誠が集中しないからである。神は、何よりも愛する子女であるアダムとエバを創造し、四位基台を成して美しく生きていくようにされた。それなのに人間が完成する前に天使、つまり使うべき立場の使者に、先に対象を結ばれるようにされるだろうか?端的に言えば、神は男性天使の対象を創造されなかったのである。
それでは、天使は常に男性の姿をして独りで生きていくのか?そうではない。人間の相対の決定が終わるとき、すなわち神の願う人間の成熟の基準が決定されるとき、人間の祝福式の後に天使も対象と結ばれるようにしてくださる。そうであるなら、その時がいつであり、男性天使の対象は誰か?
神は、今日まで罪人であらざる罪人の姿でお過ごしになり、創造主でありながら創造主としての完全なる光を放てず、光の大王でありながら、その光彩を自在に発揮できないまま、自らを遮り暗黒のうちに耐えてこられた。ところが、このような神は、解放の一日が来るまでは、心の平和を自ら現せず、完全なる光を発揮することもできなかった。
神の解放の一日は、ルーシェルの滅亡とともに神が天地の創造主たる王の立場に登られてこそ、初めて迎えることができたのである。今やルーシェルがその本然の立場に戻り、神も王の立場に登られた。それが2001年1月13日の王権即位式である。これにより神が天宙の最上の高貴なる位置に登られた。
今や全人類は、真なる新時代を迎えたのであり、真に高貴な主人を迎えたのである。それゆえ全人類において、去る1月13日とその後の姿は、見た目には著しい変化はなくとも、全く違うのである。それ以後の人類の姿は、歴史的なすべての罪悪の垣根から完全に抜け出して、解放されたのであった。大部分の地上人は、こうした天宙史的な意義について全く知らずにいるであろう。彼らはこのように途方もない天宙の開闘が始まっているという事実に気づきさえもしないであろう。
今や罪悪の世代は、私たち人類から完全に退いた。この途方もない暗黒の歴史を、地上におられる文鮮明先生(天地父母様)が清算されたのである。神は、長い人類歴史の裏通りで解放の一日、文鮮明先生の成就されたこの一日を待って来られたのである。
今まで数多くの歴史的な人物がいたが、誰も神を王位に登らせたり、神を暗黒の歴史から解放させたりすることを、想像することさえできなかった。人類歴史の背後にこのように途方もない天の秘密が隠されていたことを、メシヤを置いて誰が知りえようか?
この日、神がどれほど喜ばれたか皆さんは想像すらできないであろう。目で見られない地上人たちよ!それが単なる空想であるとしても、どれほど嬉しい日であろうか!人類の終末に日と月が光を失い、星が落ちて、火で審判する云々とあるのは、私たち人類にどのような教訓を与えているのか?
新時代とは、神が完全なる解放圏を迎える時代を指し、一方それは私たち人類において他と比べようのない最も高貴なる贈り物である。新時代とは、私たち人類の真の父母として神に仕え、喜び、楽しく生きていく時代であり、神本然の創造理想世界が始まる時代である。私たち人類にとって、これよりも嬉しい日がどこにあるだろうか?
2001年1月13日は、人類を代表して、メシヤが初めて神に人類の真の父母の立場として仕えた日である。
では、ここにおいて神は長い摂理歴史を導いてこられる中で、嬉しい日も悲しい日も人間を保護し、人間とともに運命を共にして蘇らしてきた天使をどのようにすべきか?神は、彼らを手厚く待遇されながら、天使の本然の姿となるようにされなければならないのである。男性天使の対象は誰であろうか?
人間は天使を動かすようになっていた。つまり天使は人間の主管の対象であった。神は人間を創造なさり、天使を仕える霊として創造されたため、男性天使の対象は神が定めるのではなく、人間が結んでやるようになっている。今や神の解放とともに神が王位に登られたため、天使の祝福式が成されなければならない。
数多くの天使たちは、地上の真の御父母様がたどられる摂理とともにその一時を待っていた。彼らの対象たちも、地上での数多くの霊人たちとともにその時を待っていた。こうした霊人のうちには、善なる霊人たちもおり、悪なる霊人たちもいる。また、天使世界も善なる天使と悪なる天使に分かれているため、こうした祝福式は地上の摂理に合わせ、真の御父母様が行わなければならない。
そして、真の御父母様である文鮮明先生だけが、このすべてを決定することができる。今や全人類は、ルーシェルが蒔いた罪悪の種を清算する人類のメシヤの摂理により、悪なる血筋を整理し、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」という聖書の一節を成就する成約時代に本格的に入った。それゆえ、皆さんはすべてこのような成約時代の意義を深く心に刻み、新旧約の様々な文脈を今一度思い起こしてみて、皆さん自身の生涯の方向を正すよう願うものである。
今は成約時代である。これをもう一度考え、皆さん自身の位相を確認してみるがよい。永遠なる世界は、皆さんとどのような関係があり、地上の生活とどのように関係を結んで生きなければならないか、もう一度考えてみるがよい。
- 2001.2.2.—
霊界からの孔子のメッセージ
人間の興亡盛衰
人間が地上で一つの世を生きて他界すれば、地上生活はまばたきする間に過ぎ去った歳月として流れてしまう。私たち人間が地上で生活するとき、自分がどれほど窮屈に生きたか、幸福に生きたか、その姿は様々であろう。しかし、どこの誰がどのように生きようが、その一世代は過ぎ去った生に過ぎない。
一人の人間がこの世に生まれるときから、興り、亡び、栄え、衰えるのは、彼自身とは関係ないようだが、決してそうではない。そして天地万物の調和と人間とは、切っても切れない密接で高貴な関係だったのである。したがって、孔子も地上で一つの世を生きた瞬間、瞬間、身の回りのすべての存在に少なからず世話になって生きてきたようである。
人間は母親のお腹の中からたった独りで生まれる。それなのに、なぜ人間は生まれた瞬間から人の力に依存して生きなければならないのか、なぜ独りで生きていけないのか、そして人間という存在がどこからどのように来たか、事細かに考える必要がある。今日、大部分の人間はこうした自分の本来の姿を考えもしないまま、何の考えもなく、やみくもに生きているのである。地上にはこのように力なく生きている人間が少なくないであろう。
この世の人々は、孔子をいわゆる「聖人」と呼んでいる。孔子は地上生活で人生について、様々な次元で思案してみた。とりわけ人間の倫理道徳に関わる問題に心血を注いで考えてみた。けれども人間というのは、実に無力で限られた存在であることを悟った。孔子の考えでは到底、手の届かない様々な次元の限界が多く存在した。人間としてそれ以上、考えられない領域があることを悟り、それを実地に体恤してみようと努力した。何より見えない神の存在についてそうであった。
このメッセージを伝える孔子は、数千年前に地上で肉身をまとって生きた人である。ところが、肉身を持った者が生きられないこの無形世界で、孔子は、あれほどまで渇望してきた「神」に出会った。その後、孔子は神からとてつもない新しい真理を発見し、体験するようになった。そのとき、孔子は地上で聖人という称号を受けたことがあまりにも申し訳なく感じられ、孔子という自らの正体をことごとく否定したい心境だった。
神は人間の興亡盛衰の主人であられる。孔子は神から、何を教え、何を学び、何を守らなければならないか、新たに悟るようになった。孔子は、地上の生活で数多くの規範を守りながら、規範という垣根の中でぐるぐる回りながら生きた。言うなれば、そうした垣根に縛られて生きていたのである。そうした生活の中でも、孔子にはそれ以上解決できない限界があることを明確に感じた。
しかし、この無形世界で孔子が出会った神は、すべての規範の垣根から自由を与えてくださった。地上の生活で、あれほどまで孔子自身を縛った規範も、この霊界の神の傍らでは重要ではなく、そうした垣根も必要ではなかった。いかなる限界状況も感じることなく、誰の干渉も受けなかった。あたかも磁石のN極とS極の作用のように、そのまま一定の法度に従い、自由で平和な生活を営むことができた。事実、孔子は地上で生活するとき、数多くの規範の中に閉じ込められて生き、そして、聖人という名前で、人間たちを鉄格子の窓のない監獄のような囲いに閉じ込めておいたと考える。
人間の興亡盛衰は神と深く関わっているわけである。神の根本の属性を知り、神が共にある者には、厳格な規範も恐ろしい垣根も必要ないと考える。神は、興り、亡び、栄え、衰える方法を一度も孔子にお教えにならなかった。それにもかかわらず、神の傍らにさえ行けば、興り、亡び、栄え、衰える方法として、自然にその法度に従い生活するようになる。
このような真理は、肉身を持った地上の人間たちに説明するのがとても難しく、説明したとしてもそれを正しく理解できないであろう。しかし、孔子はこのような真理の内容を地上の人間に伝えるしかない。聖人という称号を受けた孔子であるが、無形世界で発見した新しい大真理の前に絶対順応するしかない。
神とは誰か?このように途方もない大真理を抱いた神の前に、人間の姿は無力で脆弱なばかりである。しかし、神を知らなければならない。神を研究しなければならない。神は天地万物の主人であり、創造主であり、とりわけ人間の前には父母様であることを知り、研究しなければならない。人間が自らの父母様である神を知らずに、どうして大真理を悟ったと言えるだろうか!神は人間の父母様であるという事実をはっきり知らなければならない。人間が自らの創造主であり、父母様である神に仕えるのは、あまりにも自明の理ではなかろうか。
それゆえ人間は、自身の父母たる神にかしずく瞬間から心の自由を得ることができる。そして堅固で窮屈な規範の枠から解放されうるのである。私たち人間にとって最も急がれ、切実で、最終的なものがあるならば、それは神が何者であるかをはっきり究明することであろう。
- 2001.2.3.
神と人間
私、孔子が地上で肉身をまとって生きていたとき、生半可に、いい加減に扱ったものは何一つなかった。すべてのことを順理に従い、組織的に治めて徹頭徹尾、計画を立てて生活した。そのような生活を営むことは容易ではなかった。何よりも事物の道理を悟り、自らを整え、治めて、点検することを怠らなかった。そして、計画したことは必ず成就しながら生活したため、他人に遅れを取ることもなかった。そして、人間として備えるべき人格と徳望を啓発するために、常に私自身を厳格に治めることに重点を置いた。それで世の人々は、孔子を聖人の班列に入れているのかもしれない。
しかし、孔子はここで、神の前に恥ずかしく、申し訳ない気持ちを禁じえない。孔子が自ら地上の生活を顧みるとき、虚しいことこの上ない。孔子が地上で生活するとき、神をよく知って父母様として仕え、無形世界に来たとすれば、神の前に堂々たる子女の姿として現れることができただろう。また、父子の関係に少しのぎこちなさも感じなかっただろう。
しかし、肉身をまとって生活するとき、周りに見える物質世界と現実が神よりもっと大きく見えたため、孔子は見えない神に父母様として仕えられなかったようである。厳冬雪寒に吹雪が吹き荒れ、身を切るような寒さが私たち人間を不意に襲うとき、その寒さは肉身にとって苦痛を与えるので、私たち人間は肉身の寒さから逃れるために、可能なかぎり急いで、肉身の救済手段を探すほかないであろう。しかし、そのときに私たち人間は、肉身が寒さに凍えて倒れても、霊魂を治めることを優先して考えなければならない。
大部分の人間は、自らの霊魂を見つめることをおろそかにして生きている。人間の肉身は、凍えて生理的作用が中断すれば、物質に還元されてしまう。しかし、肉身を取り巻いている霊魂は、永遠なる世界で永遠に生活するという事実を、私たちは悟らなければならない。それゆえ、吹雪に震える私たちの肉身よりは、私たちの霊魂を急いで救済し、治療するのが当然のことであろう。今まで私たち人間は、自らの霊魂の生活については一様に軽んじて生きてきたようである。
なぜ、世の人々は孔子を聖人と呼んだのだろうか?ある日、神が孔子に次のように質問なさったことがある。「孔子は地上で肉身をまとって生きたとき、『神に父母様』として仕えて生きたか?」と質問され、「神が孔子ならば、聖人という呼称は辞退したであろう」とおっしゃられた。孔子は神の前に本当に恥ずかしかった。
孔子がいくら人間に正しく教育して生きたとしても、宇宙の根本的な原理を教えることができなかった。孔子は宇宙の原因者である神については、実に曖昧模糊に紹介してしまった。神について教え、神と人間のはっきりした関係を明らかにした後、神は人間の父母ゆえに、人間は神に仕え侍って生きなければならないという原理を正しく教えなければならなかった。にもかかわらず、それを知らないまま、人間と人間の規範にだけ重きを置いていたのである。
ある家庭で長男が弟や妹たちに、様々な生活の方式と礼節をきちんと教え、彼らを将来、立派な人格と徳性を備えた人物に成長させたとしても、彼らの父母をないがしろにし、彼らに父母に仕える礼節を教えなかったと仮定してみなさい。この場合、長男はその父母から孝行息子としての称号を受けるのは難しいであろう。彼は長男ではなく、偽りの父母の働きをした立場に立つようになるので、このことは、彼が父母の前に大変大きな親不孝をしたことでなくして何であろうか。地上の皆さんは、この点についてどのように考えるだろうか?
神と人間は何か?「神は神であり、人間は人間である」という考え方と生活様式は、神の前に大きな親不孝をすることであり、神の心をこの上なく悲しませることでなくして何であろうか。神は天地万物の主人であり、人間の創造主であり、人間の父母であられる。
それでは人間とは何か?「私」という存在は何か?「私」という個体は、神の前に子女の位置としてつくられた存在である。神と人間の関係は「父子の関係」である。父子の関係は、切っても切れない宿命的で天倫的に密接した関係を持っているのである。地上生活においても、皆さんの父母が美男美女でも不細工でも、金持ちでも貧乏人でも、学識が豊かでも乏しくても、自らの父母として仕えるのが普遍化された生活の様相ではないか。父母に仕えるのが、どんなに煩わしくて大変でも、それは必ずなすべきことであり、子女はその父母を父母の立場に立てなければならないのである。それが子女たるべき道理であろう。これは古今東西を問わず、地上の人間の普遍的な生活様式に違いない。
肉身の父母に侍る生活もそうなのに、まして天地万物の創造主であり、主人であられる神に父母として仕えるのは、これ以上、論じる余地がないであろう!孔子は地上で生活したとき、人々に、「君為臣綱」、「父為子綱」、また「父子有親」や「君臣有義」などを教えたが、神と人間の父子の関係をはっきりと解明できなかった。人類が神に父母様として仕えることが、どうして難しく大変だと言えるだろうか!これはいかなる規範より優先すべき最も重要な規範であり、徳目である。人間は決して神に仕えることを疎かにしてはならない。
今や私たちは、私たちの永遠なる父母様、神を見いだした。私たちは生活の中で神に仕えて生きなければならない。冬が来れば暖かい所で、夏が来れば涼しい所で、春が来れば青々とした新芽の上で、そして秋が来れば五穀の熟した野原の上で、私たちは皆、豊かで幸福に、私たちの父母様であられる神に、精誠を尽くして仕えるのだという堅い覚悟ができていなければならない。そのような姿勢で生きていく人が、成約時代の真の主人公であろう。皆さんがこのように地上で誠の限りを尽くし、神に仕えて生きていけば、永遠なる無形世界で神にまみえるとき、神は皆さんに、「愛する我が子よ、ついに来たか?」と喜んで迎えてくださるであろう。
神は人類の父母様であり、人類は神の子女という事実は、いくら強調しても強調し過ぎることはないであろう。私、孔子は、地上生活において神の前に取り返しのつかない親不孝をしたことを率直に自白しながら、赦しを乞う心でこのメッセージを地上に送っている。
- 2001.2.4. –
孔子よりましな地上人
人間は、この世に生まれるとき、その時期をうまく選んで生まれなければならない。これを知るということは、人生の大きな幸運と考える。私の父母は、私孔子を生むために多くの精誠を尽くしたという。
しかし、孔子の父母がそのように精誠の限りを尽くしたものの、孔子は家門の恩恵も、国家的な恩恵も受け難い環境に生まれた。孔子の父親は、孔子が完全に成長する前に世を去り、母親は、家勢が傾いて、あまりにも貧しく厳しい生活をしたという。ここで私孔子が、家門について語り、当時の魯の国の時代的状況について語るのは、地上の人間が心に留める必要があるからである。
孔子が地上で生活した当時の家庭的背景と時代的環境は、一方では今日の孔子に導いた良い契機になったと考えることもできる。言い換えれば、当時の時代的環境によって、孔子は神と私たち人間の関係をより近く、そして深く感じるようになったと考えることもできる。早く父親が亡くなったことで、孔子は成長の過程でどんな困難にぶつかってもへこたれず、人間の基本的、根本的な生活を徹底して固守するようになったのである。そうして、卑屈にならず不義に対応しうる習慣を身につけ、天理に合った規範を確立し、それに従った生活をするため、少なからず修養したのである。
しかし、孔子は人間の根本的な生の方向をはっきり知らなかったため、小さな規範の中に人間を閉じ込め、その中から抜け出せないようにしたのである。今、数多くの人間共同体があり、様々な形の宗教団体が整然として存在するが、その中をのぞき見ると、大部分「あることをしてはならない。あることをしなければならない。」という戒律でぎっしり詰まっている。こうした戒律が、人間の生活をかちかちに縛ってしまったようだ。こうした大部分の戒律は、神、あるいは他の神々の存在を設定し、人間生活のために設けられたものである。しかし、こうした限られた戒律の中で人間が生き残るためにもがく過程で、人間の本性がさらに蹂躙されたようである。
無限で永遠なる神の世界には、そのように恐ろしくて厳格な戒律は必要ではない。神は恐ろしい垣根や囲いのような戒律で人間を縛っておかなかった。それは、神が何よりも愛の存在であるからである。言い換えれば、人間は、規範的な存在である前に愛の存在だからである。人間は神の子女であるから、神の懐の中で共に楽しく過ごしさえすれば、そのまま自由で、嬉しく、楽しく幸福になるのである。人間は、このように心の自由天地を感じながら生活するようになっていた。
にもかかわらず、人間は地上生活で様々な形態の戒律や規範に縛られ生きている。それが今、こちらではどれほど虚しく感じられるか…。孔子には、聖人という呼称があまりにも重く感じられる。ただそのまま神の子女という呼称が、どれほど美しく高貴で崇高な名であろうか!
いくら良い環境に巡り会えたとしても、何をするのか?肉身のための豊かさは、地上で生活するときだけ重要なことであり、永遠なる無形世界、神がおられるここでは、それがむしろ害となり、荷物となりうるのである。ここでの「良い環境」とは、物質的な繁栄と豊かさを享受する状況を意味するのではなく、神が私たち人類の父母様であることを悟らせる時代的状況を意味するのである。
孔子は今から約2500年前、地上に「少しの間」とどまって、ここに来た人である。地上で70年余り生きたが、孔子が少しの間と表現するのを、皆さんはよく理解できないであろう。しかし、永遠なる世界から見れば、その期間というのは少しの間、経由したのと違いない。地上で少しの間とどまって、この最終目的地に到達したのである。このように地上生活は、しばし通り過ぎる期間である。
孔子は、地上生活で神に父母として仕えることができず、この無形世界に来た。今や皆さんは、地上にとどまりながら、神に皆さんの父母様として仕え、神の教えを受けながら生活できるようになった。これは天宙史的な意味を持つ、途方もない幸運なのである。皆さんが地上生活で神に父母様として仕え、生きて行けば、それがほかでもない「聖人」になるのである。大部分の地上の人間たちは、この事実を知らずにいる。実に惜しく、気の毒であらざるを得ない。
今や地上の皆さん、とりわけ儒教徒は、孔子の聖人という呼称を羨んで生きる必要がないのである。地上のいかなる人間も、孔子より幸福に生きることのできる時代的な環境が到来しているからである。
数多くの地上人たちよ、皆さんは肉身を持った者として、地上の恵まれた時代を迎えられるという事実に感謝しなさい!儒教の経書の中で、神に皆さんの父母様として仕えて生きよという教えは、いくら探しても見つからないであろう。
皆さんの真の御父母様とともに永生できる真に美しい世界であるこの無形世界が、皆さんを待っている。限られた空間である地上生活とは到底比較することのできない、美しくも幸福な世界が皆さんを待っている。このように美しく洸惚として華麗なる世界は、皆さんの宮殿であり、生活の巣である。皆さんは一人残らず、ここに来て、皆さんの父母様であられる神に仕えて生きることを切に願うものである。
事実、私たち人間の父母様として神に仕えて生きるのは、戒律ではなく、拘束的な規範でも、囲いでもない。地上生活で父母と子女が一緒に暮らさなければならないように、神と人類も一つの家庭で一緒に話し、寝て、食事しながら生きなければならない。今日、人類がそのようにするならば、美しい園で神の瞳の色だけ眺めても、永遠に幸福に生きていけるであろう。
今日の地上の人間は、孔子よりはるかに良い環境の中で、時代的な恩恵を享受して、幸福かつ自由に生きていける。このように貴重で充ち足りた地上生活に感謝しながら、皆さんは永遠なる父母様として神に仕えることに最善を尽くすよう、孔子は切に願うものである。
- 2001.2.7. –
本郷人と堕落人
神が人間を創造されるとき、今日、私たち人間が生きているこのような現実的な姿としては創造されなかった。今、私たち人間は、生きていく方向も目的も、そして復帰されるべき基準も知らずに生きている。そして、私たちはどこから来て、なぜ生きるのかも知らないので、おおむね肉身の安息と豊かさだけを熱心に追求し、一生涯を生きるのみである。
この「堕落人」とは何か? 人間は罪を犯さずに一生懸命に生きているのに、なぜ堕落という術語が出てきたのか? 大部分の人間は、これを知らずに生きている。一般的に「堕落」とは、平凡な生活をする人間が、酒を飲んで放蕩して、自分勝手に生きていくことを意味する。そういう先入観を持っている人が少なくないはずである。
しかし、ここで言う堕落は、それとは別の意味を持つ。簡単に言えば、人間は神が構想された本然の人間の姿として完成する前に、人間の成長過程で愛の原理的軌道から離脱した。これが人間の堕落である。
これにより私たち人類は、堕落の子孫となり、原罪を持って生まれるようになったのである。いくら善良で、正しく、義に徹して生きた聖人君子だとしても、彼らの血統の中には一様に原罪が流れている。私たち人類は、誰もが例外なく、堕落の血筋と原罪を持って今日まで生きてきたのである。それゆえ、この原罪の清算、すなわち血統転換の問題が、人類の厳然たる現実的課題として残るようになった。これは、現代の儒教徒には、あまりにも荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、はっきりとした歴史的事実である。儒教徒は、これを深く研究しなければならない。孔子も、この無形世界で、初めてこのような事実を悟った。
それでは、どうすれば堕落の血統を神の血統に転換し、原罪を清算することができるのか? これが不可能ならば、人類の救いも全くもって不可能である。そして、私たち人間は、永遠に神と共に楽しく暮らすことができず、神と父子の関係も定まらず、したがって、人間と神の悲しみと苦痛の歴史が継続するであろう。
それで、長い歳月をかけて、神はこうした問題を解決するために、各時代に摂理的な中心人物を立て、罪悪人間を救う摂理を導いてこられたのである。そのような待ちに待った歴史が、6千年の人類歴史であった。各時代に中心人物を遣わし、血統転換を準備したが、人間たちはその事実を知らなかったのである。神は、そのような一日、人類の血統を転換しうる一日を待ち焦がれ、今日まで復帰摂理を導かれながら、数多くの涙と、肉を切り、骨を削る痛みに耐えてこられたのである。
今日まで流れてきた長い歴史の中で、神は一瞬にして片付けてしまいたい罪悪人間を数えきれないほど眺めて待たれ、血統的な聖別の基盤を探してこられたのである。そのような血統的な基台の上に、中心人物を立て、そのお方を通じて人類を原罪のない血統に転換させるために導いてこられたのが神の復帰摂理歴史だったのである。
皆さんは、聖書を通してイエス様の降臨の際、イエス様を迎えるために数多くの血統を転換した事実(これは儒教徒にはなじみが薄いだろうが)を伺うことができるのである。神は人類歴史の背後で、数多くの迂余曲折を経ながら、メシヤを迎えるための摂理を導いてこられた。
そうした摂理的な勝利の基台の上で、旧約時代に人類がイエス様を迎えることができたのである。このように、罪悪人間を救うための神の摂理的な総結実体として、イエス様が旧約時代に降臨なされたが、イエス様は哀れなことに十字架に亡くなられてしまった。これで、人類はイエス様の十字架の代贖により、部分的な救い(霊的救い)しか受けられなかったので、人類の救いのための新しい摂理的中心人物を待つほかなかった。
それで、イエス様以降、人類は再臨のメシヤを願うようになったのである。人類が願ってきたメシヤは、ほかならぬ文鮮明先生であられる。そのお方は、神が長い歳月をかけて、血統を分別し、聖別して準備した後、私たち人間の救世主として遣わされた方である。それゆえ、私たち人間が原罪を清算し、血統を転換するためには、神が遣わされたメシヤを通さなければならない。そうしてこそ、初めて本然の人間の姿に回復することができるのである。
そして、人間は生まれるときから受け継いだ原罪を清算しなくては、本然の人間の立場に立つことができない。人類がこうした原罪を清算するには、メシヤたる文鮮明先生を通して重生、すなわち生まれ変わらなければならない。重生の条件は、メシヤ(救世主)を主礼として迎え、再び祝福(結婚)を受けることである。それが原罪を清算する最終的な方法である。人類にはこうした原罪清算という歴史的な課題が残っていたのである。このような過程をたどるとき、初めて人類は神の前に直接進み出ることができ、本然の人間の姿として完成することができるのである。
地上の人間には、これが大変おかしな詭弁に聞こえるであろう。しかし、神と共に生きるこの無形世界の四大聖人と聖賢たちも、この真理の前に絶対従順、絶対服従の道を歩んでいる。これは、決して詭弁ではなく、真理の中の真理であるため、皆さんは深く考えてみなければならないのである。これをないがしろにし、無視したまま地上の生涯を終えて、この無形世界に来て後悔することが決してないように願う。
新しい真理は、伝統的な視覚で判断すれば詭弁に聞こえる場合がしばしばあるではないか。そうであっても真理は永遠であるから、地上の人間たちはこれを肝に銘じて、地上生活を通してメシヤを迎える姿勢を確立するよう、孔子は切に願うものである。
- 2001.2.7.—
驚くべき大真理
孔子が生まれた時代と今の時代は、様々な次元で確然と区別されるほど変化した。国ごとに大統領がいて、国王がいて、首相がいて、民をうまく導いて生きているが、彼らの大部分は外的に民をうまく治めて和合するための体制上の指導者に過ぎず、人間の内面世界まで導く精神的な指導者ではないのである。孔子が生まれた時代と環境も同様であった。国運の流れによって、大部分の民はもっぱら衣食住の生活、すなわち肉身が生きていくための生活を追求するほかなかった。
しかし、人間は生まれながらにして、外的な生理現象に依存したり、衣食住だけ追求したりして生きるように創造されなかったため、我知らず常に内的、精神的、潜在意識を呼び覚ます真の指導者を渇望しながら生きてきたのである。孔子が生まれた時代も、貧困と戦わなければならない苦痛の時代であった。それで当時、大部分の人たちは肉身の空腹と貧困を解決するための生活が主流をなした。人間において、こうした外的な問題が解決すれば、平和で幸福に生きられるかのように思えるが、そうではなかった。人間の内面世界に潜在する無限なる原動力が表出されないまま、うねっていることを孔子は悟った。
人間は、それが人間生活の前面に現実化されることを願っていたが、そうできずに生きた。孔子は、空腹を克服することよりも、内面世界の原動力を現実化することが、甲斐のある、価値ある生活であり、それが真理の生であると考えた。人間において、豊かな衣食住の生活よりは、道徳的、倫理的な生活がより重要で切実であると考えた。こうした道徳的、倫理的な生活は、造物主が人間に与えられた人間本然の崇高な生活であり、それが他の動物の生活と区別されるものであろう。
人間がこれを感じられず、生理的な欲求によって生きるなら、動物と何ら変わるところがない。それゆえ、私たち人間は、人間にこのように高貴で崇高な本性を賦与された造物主に、常に感謝して生きるべきである。人間世界で倫理と道徳の生活が軽視されれば、四つ足の獣や家畜、その他の動物と何ら変わる所がないであろう。人間が規範的な生活を営みながら、衣食住の問題を克服するならば、徳のある人の姿として完成するであろう。外的な国運の流れによって、衣食住を追求する生活よりは、人間の内面世界の原動力を追求する生活が、人間本然の姿であり、そうした人たちの瞳の輝きからは、強烈な生動感を発見することができるであろう。
こうした前提のもとに、孔子は見えない神の力に依存して、神を探し始め、それが動機となって儒教という新しい教えを人間に教示したのである。人間は神がいかなる存在であるか知らないが、生まれながらにして神を求めようとする本性を持っているのである。本然の人間は、神と共に生活しながら、神の指導を受けるようになっていた。しかし、孔子は神の姿をはっきり見いだせないまま、いくつかの次元の規範だけを人間に教えてきたのである。そうした規範が、どのような存在の力によって啓示されたものか、孔子は知らなかった。
ここに来て真に高貴なる真理の前に、孔子は粛然となるほかなかった。ある日、神の光彩がきらびやかに照らしてきた。周りにいる人たちはすべて、その光彩の中で、誰も教えないのに、静かに起きて、とても謙遜で明るく澄んだ表情で、神に敬拝を捧げていた。このようなことが幾度か続いた。そのたびに、彼らの姿態がいかに美しく崇高であるか、その姿を言葉で表現することができなかった。
ところが、孔子は地上で生活するとき、このような法度を一般人に逐一教えてあげたのである。しかし、こちらでは誰も彼らにそうした法度を教えることもなく、彼らのうち誰も儒教の教えを受けた人はいなかった。それにもかかわらず、彼らは一様に美しい姿をしていた。むしろ地上で孔子が教えた姿より、はるかに美しく、高潔で、品位ある姿態を表わした。それが可能だということなのか!孔子は彼らの挙動と生活の態度を見て、あまりにも羨ましかった。
孔子は人間に内在する人間本性の原因者を解明できないまま、もっぱら人間生活の規範だけを教えてきたため、神の前に驕慢な姿を自らさらしたのである。ここで神の姿にまみえてみると、孔子が教えた人間の規範などなんでもなかった。ただ神の大真理の前に一つになって生きていきさえすれば、人間のすべての姿態は本然の姿へと戻ることができるのである。私たち人間の本性の中に潜在している崇高な性稟は、神が人間を創造なさるとき、人間に与えてくださったものである。
しかし、神と人間の愛の関係が断絶することにより、それが人間生活の前面に現実化できなかったのである。神と共に生きるようになれば、厳格で恐ろしい規範の垣根に拘束されなくても、平和で幸福に生きることができるため、皆さんは地上の規範の奴隷にならないよう願うものである。
- 2001.2.12. –
生死禍福
人が生きていく上で、生死禍福は誰もが体験するものである。ところが「生」と「死」と「禍」と「福」の根源が問題なのである。ある人は禍に遭っても、とても前向きにうまく越えていくかと思えば、ある人は常に大変幸せであるにもかかわらず、常に悩みと心配の中から抜け出せないこともある。
ならば、私たち人間は、地上で生きていく間、生死禍福から解放されえないのか?人間は創造の当初から福を受けることもでき、禍を被ることもでき、生まれたからには死ぬこともあるのである。これが人間の地上生活である。こうした岐路に立っている人間の生をたどってみよう。
人間が生きる目的は何か?大部分の人々は生まれたがゆえに、結果として肉身の欲望に従って生きていくのだと考えるであろう。肉身を失えば霊魂が、どこで、どのように生活するかを考えて生きる人は、それほど多くないはずである。
ここで孔子は、地上で生きていたときのことを考えてみる。孔子は、貧困と疾病の苦痛は、肉身を持ったがゆえに、やむを得ず受けなければならないと考えたが、地上生活を終えた後、どこで何をどのようにするかについては、考えることさえできなかった。孔子は、肉身が老衰して地上生活を終え、無形世界に来たとき、自分が生きているのか、死んでいるのか、そしてなぜ孔子の見だしなみがこうも変わったのかなど、到底知るすべがなかった。
こちらの他の人たちは、一様に熱心に活動して生きているが、孔子は身の周りが整理されておらず、とてもうろたえた。そうかと言って、あちこち尋ねてみるわけにもいかなかった。それは事実、孔子のもの静かな体面を取り繕うためだった。孔子は、数日、数週間、道をずっと歩いて行き、おかしなものを発見した。地上生活では、めったに経験できないほど華麗できらびやかな身なりをした人が、孔子の前に現れて「こちらへ行きなさい。あちらへ行きなさい」と命令するのである。
ところで、彼らはあたかも水車がくるくる回るかのように、とても容易にどこにも妨げなく、平坦な大道に孔子を導いていた。不思議なことに、行けと言うところに行くたびに、瞬時に自動的に扉が順番にサッサッと開き、いくつかの関門を容易に通過することができた。孔子はその後、ある高台に立っていた。ここの数多くの人々は、周りの状況に少しも関心を払わず、自分たちの仕事に忠実に取り組んでいた。
ここで孔子は、ならず者のように、あちこち見て回っていたが、足にぐにゃぐにゃしたものが引っ掛かるので、たじろいで立ち止まった。それは大きな綿の塊のようなもので、「これは何か?」と触ってみようとした瞬間、その綿の塊が空にさっと上がっていってしまった。それがあまりに珍しく、ずっとそれについて行くと、実に奇妙なことが起こった。その綿の塊のような物体が、はらりと膨らんだかと思うと、辺りがまるで霧に包まれたかのように変わってしまった。孔子は、生まれてこのかた、一度も経験したことのない奇妙な現象の前に、気を確かに持つことができず、呆然としているほかなかった。
孔子は、すべての威信と体面を無視して、道行く人々を捕まえて聞き始めた。ここはどこで、ここはどこの国か、そして私は、70を過ぎて死んだものと記憶しているのに、なぜここに来ているのかと聞いて回った。周りにいる人々に何度も聞いてみたが、誰も答えてくれなかった。私は、いらいらして、気になって耐えられなかった。時間が経つにつれ、精神が次第に朦朧としてきて混迷状態になった。なぜこのように不思議なことばかりなのか、知りたくて狂いそうだった。
何日か経つ間に、様々な側面から孔子自らをじっくり考えてみた。「もしかして、ここは死んで再び暮らすという所ではないか?」と考えてみた。いろいろ考えているうち、華麗な身なりの人物が現れた。彼の身なりを見ると、多少裕福で不自由なく過ごしている人に見えた。孔子は、彼に向かって、ここは地上か、それとも死んだ者が来る所か聞いてみた。ところが、その人の返答がおもしろかった。「あなたは生きていますか、死んでいますか?」と聞くので、「よく分からない」と答えた。彼が自分について来いと言うので、ついて行くと、そこは実に神秘的な所であった。
様々な人々が食堂にぎっしり座っており、主人はいなかった。食堂の中のいくつかの食卓には、様々な美味しい食べ物が豪華に盛ってあった。どこか一つの席に座ろうと考えると、椅子が突然、孔子の前に現れた。そしてスプーンを考えると、スプーンがすっと現れた。何でも考えれば、それが直ちに現れたのである。そこは、あたかも妖術映画館のように感じられた。孔子は、こちらの様々な現象があまりにも異常で、耐えることができなかった。孔子は、こうした環境に適応するのに本当に何日もかかった。
今日「生死禍福」という主題にしたのは、人間は地上に生きるとき誰でも例外なしに様々な困難を経験することもあり、時には禍を、時には福を経験しながら生きるようになっているからである。私たちが、はっきり知るべきことは、人間は大部分の場合、平安な立場では、自らの人格と修養と徳を積むことができないという点である。人間は、自らが困難に直面したとき、自らを振り返るのであり、その困難を克服するとき、真なる人格と徳を積むことができるのである。
そして自分では絶え難い禍に遭うとき、原因の分からない福が訪れるとき、自分自身の本来の姿を発見するよう努力しなさい。そうした中で人間は完成されるのである。禍に遭ったとき、卑屈に対応しないで、福が訪れたときにそれを謙遜に受け、一人で享受しないように。これが地上生活の実になるであろう。人間が、そうした実を持って、入って来る所がまさに無形世界なのである。孔子が無形世界に入って来ても、孔子自身を発見できないのは、地上生活で無形世界の生活のために準備せずに生きたためであり、無形世界についての知識が十分でなかったためである。
人間は自らの固有の来世を持っている。それゆえ、生死禍福の根源地は無形世界であり、地上生活をするとき、生死禍福をうまく治めて、しっかり受け入れなさい。そうして、永遠なる居所に入るとき、すべての関門を容易に通過するよう願う。
孔子は、卑屈な人生を送ることのないよう、とても努力したが、来世について深く関心を持つことができず、来世のために十分に準備することができず、来世の生活を経験することができずに生きた。地上の皆さんは、皆さんの来世が明らかにあることを肝に銘じて、永遠なるこの無形世界で、孔子のようにさまようことがないことを願う。
- 2001.2.13.—
天国という所
この世の人々が言う天国という所は、一体どんな所か? 天国は誰が創った所なのか? 誰も行ったことがないにもかかわらず、なぜすべての人々はそこを願って生きるのか?
孔子が地上で生活していたとき、豊かに暮らせば天国に行けるということを聞いたことはなかったが、「天国のような所があるはず」という予感が、孔子の胸の中で常にこだましていた。孔子の生活において、誤った行き方をすれば心が平安ではなかった。また、誤った道を行ってはならないという心の声と指示が常に聞こえてきた。孔子は神に仕えた経験もなく、神に対して崇め奉る一抹の意識もなかった。ところが心の声、心の指示が孔子を自分勝手に生きるのを許さなかった。
これはどういう意味か? 人間は生まれながらにして、神から普遍的真理を悟ることのできる理性を与えられた。それが大切なのである。人間は神を信じようが、全然信じまいが、神からこのような理性を公平に与えられたのである。それが自分のもらったタラントである。これはどれほどありがたいことか! 人間を創造された造物主、すなわち創造主が、貧富の差も、学閥の違いも、人種の差別もせず、私たちすべてに何の偏見もなく、一様に分け与えられたのが人間の本性である。人間の理性は、利己的な性向を帯びる傾向にあるが、人間の本性は全的に利他的な性向を帯びる。人間は本性によって生きるように創造されたのである。
ところが、人間は自身の生活環境によって、創造主が与えられた高貴で崇高なるその本性を曇らせることが少なくない。しかし、人間の内面の根底に敷かれた本性は、常にその場で変わらずにいる。あたかも純金が、火の中で赤々と燃えても、取り出してみればその原色が変わらないように、創造主が与えられた人間の本然の色合いは、変わりえないのである。なぜそうなのか? 人間本性の基地は、まさに天国であるからである。人間は本性の声、本性の指示、本性の方向に従って、地上で生きた後、本性の終着地、すなわち本郷なる天国に来るようになっているのである。
大部分の地上の人間は、肉身の奴隷となって生きているが、そういう生活の中でも、内面から聞こえてくる本性の声とこだまとのゆえに、すなわち、肉身の足かせによってどうにもならず、じだんだを踏みながらも、罪を犯さないで、生きようとするこだまの怒号のゆえに、もう少し善良で義に徹して生きてみようと努力するのである。もし私たち人間にこうした心の揺らぎさえ無ければ、地上生活は今よりはるかに邪悪で恐ろしい地獄の天地になったであろう。しかし、現実の人間にいまだ希望があり、願いがあるのは、神が与えられた本性が人間の心の中に厳然として存在するからである。
宗教とは何か? それは肉身の安逸より、来世の霊魂の慰安を準備するものであり、自身の徳性を練って、ついには天国の基地に安着するものである。私たち人間は、生まれながらにして、誤った血統を受けて神から遠い所にいた。しかし、神は私たち人間とは離れられない、辛抱強く、粘り強い情を抱いておられる。それが本性の声であり、本性の指示なのである。
それゆえ、神は「あなたは私から離れてもむやみに生きるな。罪を犯さず生きなければならない」と言われたのである。神が私たちに下さった神の根本属性と創造の本性は不変である。現実の人間において、神の創造の本性が変わり、神の属性まで消えてしまうならば、私たち人間は決して永遠なる天国基地に到達できないであろう。
それでは、天国とはいったい何か? どんな所か? 天国とは文字どおり天の国である。ここは神が、私たち人間に下さった根本的な属性と本性をそのまま発現し、神の指示と方向とみ言に従い、生きていく所である。人間が、本性の声に従って生きれば、常に幸福と平和を感じるはずである。神の本性、それはひたすら為に生きようとする精神であるため、どこであれ常に平和と幸福が宿るようになるのである。
人間は、誰しも天国を所有しうる本性を持っている。それゆえ、神の本性のとおり生きていく人は、誰でも天国を所有することができるのであり、自らの欲望から抜け出せない人は、天国から遠くにとどまるようになっているのである。人間は自身の利己的な欲望から、自らを解放しなければならず、神の本性により利己的な欲望を主管しなければならない。人間は本来、神が与えられた本性をよく育み整えて、本郷の地、天国で神と共に生きるようになっていた。
それゆえ、地上の皆さんは本性に従った生活を営んだ後、この神の園で永遠なる平和と幸福を享受し、神と共に楽しく暮らすよう願う。そして、そうした神のみ旨、創造主のみ旨を忘れる地上人が一人もいないように切に願うものである。これが孔子の切実な願いである。
ー2001.2. 14.—
救いとは
救いとは、簡単に言えば「救ってあげること」である。私たちがある困難に瀕したとき、しばしば「救ってくれ、助けてくれ」と言うであろう。救いとは、宗教人、非宗教人を問わず、誰にでも必要なものである。なぜ救いという言葉が出てきたのか?孔子は地上で生活していたとき、信仰を持たなかった。そうかと言って救いの観が無かったわけでもない。
人間は宗教人でも非宗教人でも、常に不足した状態、何か満たされない状態、不完全な状態、すなわち未完成の存在であることを常に感じて生きている。人間には不完全な状態から、より完全になることを願う心が、常に存在している。自身の生活の中で何かが自分の思いどおりにいかなかったとき、限られた未熟な自身の姿から抜け出そうとする心があるのである。人間は自身の完全な価値が何か知らないが、それを常に追求して期待し、願いながら生きている。そうした欲望が、私たち人間の心の中に常に潜在しているのである。
それでは、困難にあるとき、自分を助けてほしいという一般的な意味の救いを離れて、根本的な側面から考えてみよう。人間において、何かがこれ以上満たせないほど詰まっているので、自分には何も必要ないと満足する人は、ほとんどいないであろう。何かがいくらぎっしり詰まっていても、私たち人間はもっと願い、熱望する心を常に抱いて生きているのである。ただ、外的にそうでないように振る舞い、生きているだけである。
しかし、人間は危機に直面すれば、常に自らの限られた姿のほかに、他の存在に依存して崇め奉ろうとする本性があることを知る。なぜ、人間は自分独りで生きられず、他の存在に依存しようとする本性を持っているのか?人間ならば誰でも、このような本性を基本的に所有しているようである。
神が人間を創造されるとき「なぜ、人間の姿(心)をこのように創造されたのか?」という疑問も皆さんの間で生じるはずである。ここで私たちは考えてみることがある。入院患者は、入院している間、医師の手が必要である。しかし、その病気が完治して退院した後には、医師の助けなしに、健康に生きていける。
それではなぜ、私たち人間に救いという用語が必要なのか? これが問題の要因である。人間はある助けが必要なように創造されたのである。現実的な人間の属性を分析してみると、そこには救いの要素が潜在している。それが絶対者を求める本能である。このように絶対者を追求する本性を、すべての人間が一様に持っているにもかかわらず、なぜ私たちはそのように生きられず、そのようにできないのか? それは人間の祖先が創造された後、その成長過程で神が許諾されない非原理圏に堕落したからである。
これにより、その子孫は人間先祖の原罪を清算する前に、創造主、神の前に直接進み出られない罪人になってしまった。人間先祖の原罪は、血統と関わっているので、これを解決するためのすべての条件を、人間自ら立てることができない。神が定められた特定の人物が現れて、人間の先祖の原罪を清算しなければならない。神はいくつかの世代を通して、人間の血統を分別して特定の人物を選択なさる。その特定の人物の選定は、神の固有の権限である。
そして、神によって特別に選ばれた人物は、人間の先祖の堕落した状態を本然の状態に再び戻すための様々な蕩減条件を立てなければならない。その後、その方は神の前に原罪のなかった人間の先祖アダムの立場で、すべての人類に神の血統を伝授するための様々な条件を立てる。そうして、その方は人類を罪悪から救い、神の国を建設し、神を天宙の王として即位させ、人類の永遠なる父母として私たちが神に仕えて生きていけるようになさる。
したがって、世界人類は神を迎えた中で、神の主礼による結婚式(祝福式)を挙げるとき、初めて永遠なる神の血統を伝授することができるのである。言い換えれば、人間の先祖の堕落により汚れた偽りの血統が、神の血統に転換されるとき、人類が救われるのである。これがまさに祝福を通した人類の救いである。それでは、このように人類を救える、神が定められた特定の人物とは誰か? その方がまさに文鮮明先生であり、人間のメシア、救世主、再臨主なのである。
- 2001.2.16.—
メシヤと救世主
メシヤと救世主という用語は、現代人には聞き慣れた言葉である。人間は地上生活をしながら、常に完成の姿に向けて前進している。しかし、人間が発展するためには、自分より優れた指導者がいなくては、前進も発展もすることはできないであろう。そして、人間の真なる発展は、人間の外的姿の発展よりは、内的姿の発展を意味する。そして、内的発展の基準は、神が願う人間完成の基準がその前提となっている。すなわち、神の人間創造理想の完成を意味するのである。
周知の通り、人間は生まれながらにして原罪を持っていた。そして、神の願う人間の基準は、罪なき本来の姿として進んで行くためのものである。ここで私たちは、私たち自らの現実的な姿を正確に把握しなければならない。
私孔子は罪を犯さないで、常に善良で義に徹して生きるよう努力した。孔子の父母は、一生をかけて精誠を尽くして、人のために献身と奉仕の生活を送ってきた。孔子はそういう父母の子女として生まれたが、なぜ原罪を持っているのか? これは人間の悔しい事情ではあるが、人間に共通した現実である。これはある一人の個人の罪ではなく、人間先祖の血統の罪である。簡単に言えば、人類の先祖アダムとエバの血統的な罪なので、その後孫は無念にも原罪を持った存在となってしまったのである。
この部分は、統一教会の『原理講論』の堕落論「罪の根」に詳しくはっきりと説明されているので、参考にするよう願う。人類の直系先祖たるアダムとエバが犯した罪は、当然ながらその後孫がその罪を血統的に蕩減しなければならない。それなら、誤った血統を正すためには、人間には突破口が必要であろう。数千年の歴史が流れて、人類は罪悪の種を清算できないまま、罪悪の血統だけを引き続き繁殖したのである。そうした人間が、今日も地上に並ぶように生きているのである。
では、神はこのような人間の現実を見ておられるだけだったか? 長い歳月の間、神は何をなさっておられたのか? ここで私たちは、神の心情を推し量ってみるべきである。一世代が過ぎ去り、また一世代が到来するたびに、神は新しい中心人物を立て、その中心人物を通して神の創造理想世界の夢を展開しようと、復帰摂理を導いてこられた。
このような摂理的導きの過程で、新約時代に至り、中心人物としてイエス様が顕現なさった。しかし、当時のユダヤの民がイエス様を不信し続けたことで、イエス様は十字架の道を選択するほかなかった。その他の大部分の復帰摂理の人物たちも、各時代に神の願う基準でみ旨を成せないまま、今日まで歳月が流れてきたのである。神はご自身の子女たちが、凄絶な死の道に至るたびに、長い溜め息と悲しみの歳月に耐え、克服してこられた。神は、人類がご自身の愛する子女であるが、ご自身の子女と呼ぶこともできない現実に直面された。人類歴史を通じて、ずっと罪悪の種が日々繁殖してきたのである。それが今日の現実的な罪悪歴史である。
人間に対する神の創造本然の理想は、いくら長い歳月が流れたとしても変わりえないので、新しい中心人物を立て、新しい摂理を導いてこられたのである。そして、罪悪歴史は必ず終息すべきなのである。それゆえ、人類には神と救世主・メシヤの存在が絶対に必要なのである。神と人間は、このような関係があるために、人類の頭の中では無意識のうちに救世主とメシヤを求めるようになるのである。
今や救世主とメシヤは、人類の普遍的な存在となった。神が遣わしたメシヤが、この地に来て罪悪歴史を終結し、人類を罪悪の血統から原罪のない姿に生まれ変わらせなければならないのである。
それでは、この時代のメシヤ、救世主たるその方とは誰か? その方こそ文鮮明先生である。この霊界、地上の人間が見られない無形世界で、イエス様、お釈迦様、マホメット様、ソクラテス様たちと共に毎日セミナーを開き、文鮮明先生が明かされた『原理講論』を綿密に詳しく精読し、時には多読、音読、速読などをしている。
私たちは皆、統一原理を通じて途方もない天の秘密を勉強して感嘆しながら、こうした真理を明かしてくださった神と文鮮明先生にもっぱら感謝している。地上の人間は、ただ静かに座っていては、原罪を清算し、救世主に出会うことはできない。
儒教徒の皆さん! 統一原理を精読してみなさい。そして、文鮮明先生が明かされたその他の様々な次元のみ言、そして関連書籍も多いので、それらを常に研究してみなさい。宗教人であれ、非宗教人であれ、すべての者が統一原理を研究すべきであろう。とりわけ統一原理には、儒者が容易に受け入れられない、なじみの薄い部分があるはずである。
儒教徒の皆さんが、そうした部分を発見すれば、それについて、家にこもって研究してみなさい。文鮮明先生とは誰か? そのようにしないで、流れ去る短い歳月を待っていたら、人生の最後の道で、どうしようもない悲しみと後悔が皆さんを取り巻くであろう。どうすることもできない。これが原理の道であり、真理の道である。固執した信仰の殻の中から目覚めることができなければ、誰も皆さんに責任を持ってくれることはできない。皆さんの虚しい考えをすべて捨て、神お一人を考えてみなさい。
神は、数多くの宗教と宗派をお作りにはならなかった。人類は一様に皆、同一の血統であり、神の子女たちである。黒人も白人も黄色人種も、神の一つの血族であり、キリスト教、カトリック、儒教、回教、その他の宗教も神の一つの宗教である。
したがって、人類は一つの血族と一つの宗教として、神に人類の父母として仕え、一つの垣根の中で生きなければならない。それが神の真のみ旨である。それゆえ、地上に来られたメシヤ、救世主たる文鮮明先生は、人種と宗派を超越して、汎世界的な次元で神に主礼者として仕える中で、祝福式、つまり結婚式を進めていくのである。
地上の皆さんは、美しい祝福の隊列の野次馬にならず、その主人公になって、原罪なき子女の位相を確立し、神の理想郷にゴールインするよう切に願うものである。
- 2001.2.20.—
李相軒先生の質疑事項と孔子の答え
孔子様が統一原理をお聞きになった全般的な所感は?
①統一原理を精読して
②原理講義を聴講して
原理講義を最初に聞き始めるとき、私、孔子は心の変化が特別に起こらず、勧める人に礼儀を守るために原理を聴講しました。しかし、講義を続けて聴講した後から、私は講師たちの熱情的で真摯な態度とマナーに大変感動しました。一旦講義内容よりも講師の人格を信じ、信頼できたゆえに、聞いてみようという気持ちの決断ができました。概して、李相軒先生と劉孝元先生の講義をたくさん聴き、少し前に来られた厳日墜先生の講義も少し聞きました。そして、それ以外に何人かの方の講義もさらに聴講しました。
講義は、創造原理から孔子の心に大変な驚異を感じさせました。森羅万象の自然の道理を誰がこのように組織的に体系化させたのだろうかという驚きと、人間先祖の堕落の問題は信じられないほどに衝撃的でした。一つの講座が終わるたびに、〇△X印で心の葛藤を表しました。実に不思議で奥妙な原理でした。一つの単元が終わるたびに、前の講義の質問事項が明確に〇印で解明されました。時にはこの原理が、何か魔術師のような威力があるのかと注意しながら聴講するようになりましたが、時間がだんだん流れるほど、講義の内容は孔子の胸中に熱く迫り始め、「メシヤ降臨とその再臨の目的」においては本当に切なさを禁じ得ませんでした。
人間の無知によってこのように摂理歴史が遅れたということを悟るとき、神の前に正しく頭を上げられない罪人がまさに人間であるのだなということを考えました。これが孔子の心を非常に痛めました。どうしてそれだけであろうか? 復帰摂理をなさる神の悲痛な心情を感じるようになるとき、あまりにも恥ずかしく、神の前から隠れてしまいたい心情でした。
劉孝元先生の講義と李相軒先生の講義をかわるがわる聞きました。ところが、実に驚くべき事実と現実の前に、私、孔子は「ジーン」とする感じとともに、脳裏をたたきつけるような体験をするようになりました。講師の方々は、年代別にいろいろな摂理的同時性の時代を説明していきながら、この時代に一人の方が来るべきであることを強調し、私たちに自らその方を捜し出すことを願いながら、問答式講義も何度か続けました。
しかし、誰もむやみに口を開くことができませんでした。摂理的に、人間の前には誰かが訪ねてきて人間を新しく救うことができる一人の方が現れるべきであるという事実に、私たちは皆驚くばかりでしたが、「その方が誰であるか?」に対する質問に、沈黙の静寂が流れる中で大変深刻で恐ろしい雰囲気が醸し出されるしかありませんでした。
そのとき、イエス様がまず口を開かれました。「その方はまさに文鮮明先生しかいらっしゃいません。その方はまさに私たち人類のメシヤであり救世主です」と静かで深刻に答えられました。そして次の講義から劉先生は、ご自身の不自然な時期の地上の生について話しました。彼はこの原理講義を初めて聞いた後、彼のすべての生活は、ただ文鮮明先生のために生きようと決心しながら、地上生活で骨の髄まで深く刻み込んだ講義をした時期について証し、こちらに来て最も胸痛いことは、文鮮明先生の前に孝行できないことだと述べました。彼が空腹なとき、文鮮明先生も共に空腹にさせ、彼が困難なとき、文鮮明先生も共に困難にさせたが、これが最も胸が痛いと述べました。
彼は自分の親に一度も親として仕えることができないまま、親不孝だけをした痛みがこちらでなかなか消えないと言い、非常に多くの涙を流しながら自分に一回でも孝行できる機会が与えられるなら、限りない栄光であると述べました。その方の講義時間には、深刻な雰囲気が醸し出される場合がたくさんありました。李相軒先生は講義の途中に「お父様に初めて会ったとき、文鮮明先生に初めて会ったとき…」と言いながら、お父様の称号と文鮮明先生の称号を変えていきながら、お父様に対して大変申し訳ないと言いながら、また「お父様、お父様…」と言われながら講義を継続することができない場合がたくさんありましたが、孔子は我知らず胸中で涙と号泣がこみ上げてきました。これを抑えようと非常に努力しましたが、結局涙と号泣を爆発させてしまいました。孔子は大声で泣いてしまいました。このような孔子の行動によって講義の雰囲気がめちゃくちゃになり、非常に深刻となりました。
孔子は「お父様」の呼称が身についているあの方たちは、地上でどのように生きたのだろうかという疑問が限りなく生じ、一方で「あのように愛する指導者を育てた文鮮明先生は、果たしてどんな方なのだろうか?」と非常に気になり、知りたかった。
原理講義を初めて聴講した孔子の全般的な所感を一言で率直に表現するならば、それは孔子も文鮮明先生を自分自身のお父様、父母様として仕えるという覚悟とともに、統一原理を深く研究分析しようと決心したということです。まだ、劉先生や李先生のように、骨の髄まで深く刻み込まれるように「お父様」を呼ぶことはできなくても、孔子もそのような境地に至るように積極的に努力しようと思います。それが遅かったとしても、末っ子が父母の愛をより多く受けるという話もあるではないか。孔子も神に天地父母様として仕えることを決して怠らないでしょう。
統一原理は、世の中でしばしば経験することができる内 容ではなく、様々な術語の中で一部は特別な意味が隠されているために、孔子には非常に新鮮で生硬に受け入れられた。実に感動的で衝撃的な内容がたくさんあった。その中 で最も感動的な部分(記録に残したいこと)は、神が人類 の父母であるという事実であり、特に復帰摂理を導いてこ られた神の事情である。
神の本然のみ旨から離脱した人間ゆえに、人間と社会環 境を復帰なさらなければならない神の事情は、あまりも胸 痛いのである。人間の成長過程で神の下を離れた子女を再 び本然の状態に復帰するまで、時代ごとに摂理的中心人物 たちが変わるとき、神の超緊張の瞬間が数千年間続いてき たが、神のその事情を誰も知らなかったという事実、そし てこのような復帰摂理の中で数多くの生命が神のみ旨と関 係なく生きていったという事実は、孔子の胸をあまりも詰 まらせた。このような心境をどのように表現すべきか分か らない。罪悪の人間も、善なる人間も、一様に神の子女である。
このような子女を限りなく待ってこられた神様の心情は、 さぞかし大変なことだったろう! そして天使長の堕落以 後、罪悪の子女の繁殖は幾何級数的に増えたが、神は一度 もそれに干渉できず、眺めるばかりであられた。原理の主 人の神が、非原理圏に落ちた世界を干渉できずに眺めてい るしかないとき、その無念さと怒りと孤独をどのように抑 えて耐えておられたのだろうか? そのとき神の苦しみが 孔子の胸を限りなく切り刻んだ。
しかし、今や人類の偽りの歴史が終末を告げる成約時代 が宣布され、天使長も本然の位置に戻り、復帰摂理の総指 揮官はひとえに神となった。今や人類は過去の誤った生活 を総整理し、神に親として仕えて生きていくための全般的 な生涯のプログラムを作成することだけが残ったのであ る。
これから人類歴史は、復帰ではない正道の位置、正しい軌 道に立つようになった。地上の皆さんは、正道の軌道から選 択されたという事実がどれほど幸福か! どれほど良い環境 を迎えているだろうか! 今や私たちは過去の誤ったすべて 譴性を消してしまおう。そうして、無念さと怒りと孤独の 中に低を抱いた神に、私たちの親として仕え、喜ばせてさし あげながら、すべてを親と相談して生きなければならない。 私たちの日常生活の中で、神は私たちの父母であるという観念が完全に染まるようにしなければならない。
神の唯一の宿願は、神は人類の父母であり、人類はその 方の子女という父子の関係を維持することである。神は常 に子女と苦楽を共にすることを願われる。子女たちがご飯 を食べるとき、父母も共にご飯を食べ、子女がお粥を食べ るとき、父母も共にお粥を食べ、子女の具合の悪いときや 悲しいとき、父母と共に相談しながら生活することが、父 母と子女の生活ではないか。
神は、私たち人間が心情の対象となることを願われる。心情と心清が一つにつながるとき、それがまさに父子の関 係である。父母が家庭を離れているとき、その父母が家庭 に帰ってくるのを待っ子女、子女が出勤して帰宅する時間 を待っ父母、これは平凡な生活のようだが、このような心 情関係は大変重要で大切なのである。このような関係を維 持することは、まさに断絶された心情関係を再びつなげる のである。
今や儒教徒の皆さんは、本当に固く決心をしてこのような 心情関係を守らなければならない。しかし、ここで私たちが 銘記しなければならない事項がある。このような心情関係を 回復できるとしても、数千年間流れきた罪悪の歴史を通じ て、数多くの罪悪の人種、分派、そして天使長の残党たちが 未だに私たちの生活の周辺に散在しているという点である。
私たちはこの点に留意しなければならない。虫の食った草花や野菜は、薬をまいて虫を捕まえ、腐った部分は切り 出さなければならない。そのように育ててこそ良い草花を 見ることができ、新鮮な野菜を食べることができる。この 作業は私たちがすべきである。どのようにすべきか? ま ず明らかな根拠(原理的根拠)をもって、薬をまくべき部 分と、切り出すべき部分と、そのままうまく結びつけるべ き部分などを熟知することが重要である。その後、状況に合った正しい治療法を使用しなければならない。
皆さんは、雑草に交ざって雑草の群にもなってはならず、虫に食われて再び死ぬ者にもなってはならず、腐っていく部分に陥没して共に腐敗する者にもなってはなら ない。必ずや皆さんは、自分の姿を正しく立てなければ ならない。そうして、いかなる環境でも神は私たちの父 母であるという姿勢が、少しも乱れてはならない。その ような姿がいつどこでも見えてはならない。これが今日 まで儒教の教えを通じて守ってきた皆さんの姿勢ではな いか;過去の儒教の教えが、今日真の父母の時代、成約 時代につながりうるということが、どれほど驚くぺきこ とか!
そうすることによって、宗派も、人種も天使長の残党た ちも、歴史の終末を告げるはずであり、皆さん各自の姿の 前に、永遠な神が私たちの親の位置を占めるようになるは ずである。そのとき初めて、人類の平和が実現されるはずであり、神の世界が実現されるはずである。
地上人よ、できるだろうか? 数多くの儒教人よ、でき るだろうか? 私たちは互いに皆決意して習おう。皆さん は神の国建設に率先して「永遠なる人類の父母、神様万歳! 万万歳!」の暇声を高々と叫ぶべきである。そのとき悪のすべての残党たちが退くことを、私たちの勝利の戚 声で称賛しよう。「神は私たちの父母、神は私たちのお父 様、神は私たちのお母様、万歳! 万歳! 万歳!」とい う声で力強く呼びながら、すべての悪の残党に対抗しよ う。神様、孔子のこだまを聞いてください! アーメン。 アーメン。アーメン。
- 2001.2.24. –
統一原理の中で理解し難い部分や、少し問題点があると考えられる部分は?
統一原理を全般的に見ると、概して難しいほうだと考えます。初めて接するとき、難解な部分が多かった。しかし、統一原理に数回接すると、心の扉が開いて疑問が減りながら理解が速くなり、数学の公式のように解けていった。統一原理には神秘的な原理的力があるようで、多少難解な部分はあっても問題点はないようです。
孔子に理解し難い部分があるとすれば、第一に、神は天地万物の創造主であり、万物世界の主人であられるにもかかわらず、神の思い通りにならないことがあるという点です。人類の先祖アダムとエバが脱線して危機に処するとき、なぜ神はもう少し厳しく叱りつけたり、よく干渉したりしてそれを防ぐことができなかったのだろうか? そうであったならば、人類の先祖の過ちで今日の人間がこれほどまでに苦労したり、神の胸を痛めたりすることはなかったのではないか。
第二に、「メシヤ降臨とその再臨の目的」で、イエス様の十字架の死による苦しみの3時間があったというが、その3時間は、神の心を大変痛めた時間であるならば、天使たちや神の聖なる力で十字架に対するみ旨を成し遂げたとすれば、再臨のイエス様が来られる必要がなく、神の胸も痛まなかったのではないか。そのとき他の方法はなかったのかという疑問が生じました。
第三に、後編の同時性摂理時代を見れば、神は実に奇異な同時性の摂理をしてこられた。なぜ神は、多くの摂理的人物たちが責任を果たすことができずにみ旨を成し遂げることができなかったその道を、他の人物を立てて再び歩ませたのか?孔子は人間的な立場で見るとき、それがよく分からなかった。同時性の摂理を導きながら、人間の責任を促しても中心人物が責任を果たせないとき、それをそのままにしておかず、強く陣頭指揮できなかったのか? 神は全知全能のお方であるのに、なぜ数千年の歴史を通して耐えて待ってきたのか等々の疑問が生じました。
このような疑問は、孔子だけでなく四大聖人皆に共通したものでした。ある日、セミナーの時間に、お釈迦様がイエス様に質問しました。「イエス様が十字架にかかるまで12弟子は何をしていたのか?」と質問すると、イエス様は「12弟子が、イエスをメシヤとして完全に100パーセント信じていたなら、そのようにバラバラにならなかっただろう。イエスの奇跡を見て、いくつかの行跡の前についてきたが、当時の環境から見るとき、彼らはイエスを人間的な立場で考えたからであった」と言われました。イエス様のこのような答えに孔子は、神の摂理が遅れたのは、ただ人間の過ちのためであったということを悟りました。
しかし、なぜ人間の考えがそこまでしか達し得なかったのかもどかしく、気がかりでした。神が人間を創造するとき、完成した人間の姿として創造せず、人間が成長過程を通して自ら完成できる責任分担を下さったということがよく分かりませんでした。神の子女の特権がそこまでしか達し得なかったのかという疑問が生じました。
それにもかかわらず、私たちのセミナーの時間は非常に面白く、真摯でありました。数千年間の神の摂理が延長された根本要因は、人間にあったという無念さを悟るとき、肉身を持った地上の人間がどれほど大切な立場にあるのかということを再び考えるようになりました。この点は地上人が深く考慮しなければならない部分です。
イエス様をメシヤとして送られた方が神ならば、イエス様をメシヤとして迎えなければならない人間も、やはり神の子女として父子の関係であるが、なぜこのような関係が順調に解かれていかずに糸の切れ端のようにもつれにもつれて、復帰摂理の延長という名詞が生まれたのか?この歴史の決着を解くことができる者はただ地上の人間だけであると考えます。したがって、地上の人間が自分の生の方向を誤って設定すれば、再び神の前に石を投げるようなものです。神は私たちの父母、永遠なる私たちの父であられます。皆さんは、神の胸を再び痛めないように願います。
- 2001.2.25. –
再臨論に対する所感は?
再臨論という題目自体にまず胸が痛みます。私たち人間に、なぜ再び来られるべき主が必要であったのか? 神の根本の愛がまさに真の愛であったなら、堕落した人間の愛は偽りの愛であると表現するしかありません。私たち人間は、誰でも真の愛を願っています。しかし、真の愛と偽りの愛をどのように解釈すべきなのかよく分からずにいます。
真の愛と偽りの愛とは何か? 人間は先祖から原罪を持った姿で生まれました。どんなによく信じる聖徒の子女であるとしても、その子孫は生来原罪を持った姿で生まれます。したがって、人間はまず原罪を清算しなければなりません。では、原罪の清算はどのようにするのか?原罪は偽りの愛を中心とした血統によってもたらされたものであるため、原罪の清算は真の愛を中心とした血統を通じて解決しなければなりません。
ところが、このような血統的な問題は、人間が解決したいと思ってできるのではなく、神だけができることです。神が真の愛の源泉であるからです。神が許された特定の人物が、様々な次元の蕩減条件を勝利した後に、神に認められた者だけが人間の原罪を清算することができるのです。その特定の人物が、まさに文鮮明先生です。神は文鮮明先生を選択されるまで、血統的に準備しました。そして文鮮明先生は、再臨主として登場するまで、推し量ることのできない獄中の苦しみを経験しながら、人類の救いのための新しい真理を求めてさまよわれました。文先生は、聖書の新・旧約のほかに、統一原理を明らかにしつつ、成約時代を開門しました。
統一原理のうち『原理講論』は、成約時代の福音書であり、私たち人間の必読書であり、人間の公式を知らせてくれた珠玉のような福音の教科書です。誰でも精読してみるがよい。必ず肉身を持った地上の人間が経なければならない課題がその中に内在しています。『原理講論』は、ある著者が考えて勉強した内容で綴った本ではありません。文鮮明先生が霊界をくまなく調べて、神と議論し、サタンと戦い、血の海を歩きながら捜し出した福音であり、血闘から勝利して成し遂げた成約時代を啓示した記録書です。そのような内容をどうして人間の力だけで作り出すことができるでしょうか!
地上の皆さんは、特に儒教徒はそれを何度も精読してみるがよい。耳があり賢い者は、悟りがあるはずです。文鮮明先生は、名状しがたい蕩減路程を歩まれ、再臨主として、あるいはメシヤとしてこの地に来られ、千辛万苦の十字架路程を克服して勝利した後、人類の救世主として偽りの愛を中心とした偽りの血統を清算し、今日人類を神の願う本然の姿に導いていらっしゃいます。
恐らく地上人は人間の姿を判断することができないでしょう。偽りの人間の姿と真の人間の姿は、人間の外形上何ら変化がないからです。皆さん、イエス様と私たち人間は外的にどこが違うでしょうか? 同じ人間の姿でしたが、イエス様は神が送られたメシヤでした。しかし、人間の過ちでイエス様はメシヤとして扱われず、故郷の地でもメシヤとしての役割を果たすことができませんでした。成約時代に来られたメシヤの文鮮明先生は、イエス様が果たせなかった使命を成し遂げるために、再び来られた再臨主・メシヤであり、救世主です。
皆さんは、人類歴史をたどってみて『原理講論』を通じて、同時性時代を率いてこられた神の復帰摂理を精読してみるがよい。神はどれほど耐えて待った後にメシヤをこの地に送られたか、そして人間の原罪を清算し、人類を本然の神の子女として復帰するために復帰摂理がどのように導かれているのかをはっきりと把握してみるがよい。皆さんは神が送られた主に仕え、その方が行っていくすべての行事のうち、最も大切な祝福行事に参加すれば、皆さんの原罪は清算されるのです。そこから新しい時代が繰り広げられていくのです。そこから人間の復帰摂理の中心が設定されるのです。
偽りの愛と真の愛を区別することができるでしょうか? 理解できなければ、何度も祈祷してみるがよい。皆さんが静かに座って待つだけなら、神の摂理は皆さんには迫ってこないでしょう。
再臨論の結論的な所感は?
孔子の時代にメシャは来られなかったが、ここでメシャ から祝福を受けたので、願いが成就した。このような祝福の立場まで許してくださった文先生に深く感謝申し上げる。現実的な人間の姿の前に主として現れるまで、生命の 危険の峠道を耐え、真の主人として登場なさった主、メシ ヤの前に重ねて感謝申し上げ、一人の師と一人の人物を捜 し出すまで、人間が想像できない超緊張の歳月を耐えてこられた神の前に本当に頭を垂れ感謝申し上げる。
神は一つの血統を見いだすまで、瀕死のように緊張した まま、長い歳月の間一人の方を聖別して守られた。あたか もひびの入った氷の上を歩くより、もっと緊張した姿で、 瞬間瞬間を我慢してこられた神だった。
今や、胸を締め付けていた復帰の摂理的条件を、メシヤの文鮮明先生が皆成し遂げられた。この方は神を天宙の王位に即位させてさしあげ、神の国建設に尽力しておられる 訳、すべての感謝と栄光を天地父母であられる文鮮明先生に捧げようと思う。
・2001.3. 1.—
儒教創設者として統一原理をどのように 考えるのか?
神が人間を創造なさるとき、人間は神に仕え、神を中心とした思想で生きていくことを願われました。しかし、人間の堕落によって神とのすべての関係が断絶し、時代が流れるに従って、人間中心思想で歴史が支配的に流れていくようになりました。しかし、神と断絶した生活だったとしても、人間の本性の中には神が創造なさった根源的な存在を追求する意識、その存在が神でなくても何かに頼ろうとする意識が潜在しているのです。それが不完全な状態の人間の姿であり、常に飢え渇いた姿として残っています。もしそれさえなかったとすれば、人間には救いの道がなかったでしょう。
このように神の子女として創造された人間には、常に神の懐の中に再び帰ってくることができる通路が人間本性を通して開かれているのです。サタンがいくら悪賢い手法で人間を堕落させたとしても、人間の本性を変化させることはできません。それは人間が神の子女という途方もない特権を持っているからです。
儒教創設者として『原理講論』を一言で要約するならば、それは人間を救いの道に導くための地上人と天上人の福音書であり、救世の書である。堕落した人間に、これより大きな経典はないと考える。創造原理から再臨論に至るまで、原理の内容に関して孔子は何度も聴講し、精読し、黙想あるいは瞑想しながら、深い思索に浸ってみたりもした。孔子は自ら地上に少なくない書籍を残した人として、原理の内容に接するたびに瞬間的に胸が熱くなり、何となく寂しくもあり、時には恥ずかしくもあり、時には切なくもある中で、様々な次元の煩悩の中に揺れ動く自分を発見するようになった。統一原理の内容は、感嘆と感激そのものである。
統一原理は人間の力によって容易に明らかにされうる内容ではない。孔子は、統一原理に接するたびに、その内容のうち、どの一部門でも地上生活で悟ることができたとすれば、どれほど多くの貴重な文を残すことができただろうかという人間的な思いもした。どの分野も感嘆せざるをえないが、孔子は創造原理の中の二性性相の内容を考えれば、しばらくの間魂が抜けた人のようになってしまう。このような経験は一度や二度で終わるものではない。神は大変組織的だが単純であられる。人間を教えるにおいても、難しく導かなかった。
神に似た被造世界の様々な次元の存在様相を眺めるとき、神は組織的で体系的な過程を通して、人間の父母として登場なさったが、人間はそれを知らなかったのです。孔子は、初めて二性性相の講義を聴講するとき、講師が科学者として自らの学問的理論に陶酔して自分の学問を自慢するものと錯覚した。その後、講義を順序どおり続けて聴講すればするほど、人間を創造なさった神の摂理を深く悟るようになった。このときから孔子は、涙と痛恨の心情を覚え、神がかわいそうで、耐え難い悲しみを感じた。
神がすべての被造物を相対的に創造なさったのは、それらを眺めて嬉しく、楽しくあるためなのである。そして神は、子女を眺めて喜びを享受しようとなさったが、子女を失った父母となった。このような状態で、孤独で錯綜した心情をどのように耐えて克服してこられたのだろうか?
それだけではない。森羅万象のどれを見ても相対性を帯びないものは一つもないが、神の相対は誰であったか? 神の子女である人間は、想像もできないほどあまりにも遠い距離にかけ離れ、神とは全く他の方向で生きてきた姿となったので、神には対象がないのである。人間も真の主体を失ったのである。人間の実相がこうであるにもかかわらず、地上の人間たちは、昨日も今日も空しく生きているということを考えるとき、人間の姿があまりも切なく、耐え難かった。森羅万象の相対的な姿は、神の創造のみ手であり、神の実体を現すためのものだが、大部分の人間はその事実を知らずに生きているようである。
地上には儒教徒が要所要所にたくさん位置を占めているだろう。私たち四大聖人の共通した悩みは、地上人に対する教えと悟りである。皆さんにこのような事実をいくら説明しても信じるはずもなく、いくら頼んでも疑いだけが続くはずである。しかし、今は旧約時代、新約時代を経て成約時代に至ったゆえに、復帰摂理を完遂しようという神のみ旨によって、地上の人間たちに今まで歴史上類例を見ない現象が現実化され、表面化しているのである。
地上の数多くの宗教人は、教派別、党派別に分裂しているが、霊界の四大聖人たちをはじめとする様々な聖賢たちは、神が共にする中で、常にセミナーに参加して地上人の救いについて深く議論している。それにもかかわらず、地上の一部の宗教人はこのような奇跡のような現象に対して感動も感激もせず、とんでもないことを言っているので、嘆かわしく思わざるをえない。
お釈迦様も彼の深い悩みと切なるメッセージを送ったことがあるが、地上人がそれに積極的に関心を持たないようである。しかし、孔子は教祖として、教団の責任者として愛する儒教徒に霊界の実相を正しく知らせようと思う。そうして皆さんは、この無形世界で暮らしにくくならないように願う。お釈迦様の涙ぐましい祈祷を孔子は何度か見た。そして、四大聖人と聖賢たちは、自分の教団にどのように責任を取り、救うかについて、一様に精誠と至誠を尽くしている。しかし肉身を失った四大聖人たちは、地上人への影響力が不十分にならざるをえない。地上人よ、ぜひ成約時代に四大聖人をはじめとする様々な聖賢たちの意味のあるメッセージに留意してくれることを願う。このような天運の機会が皆さんの生涯にもう二度と現れないだろう。
儒教創設者として何とお願いすべきか? 今私たち四大聖人の一念は、地上の人間たちが神の思想の下に一つの民族として、本然の人間の姿で生きていくことを願うだけである。したがって、地上の儒教人も統一原理を精読するがよい。皆さんが孔子の生涯と思想に対して信じて従ったなら、孔子の最後の願い、皆さんが偏見なく統一原理を研究するがよいという願いを聞いてくれることを願う。それが釈迦
様の切なる心情であり、孔子の一様なお願いである。
しかし四大聖人たちの悩みと葛藤は、地上で肉身を持った地上の人間がどのようにすれば固執した思想から抜け出すことができるのかということである。時代の流れと発展により、文化と文明が発展し、世界を隣人のように出入りしているのに、神の人間愛に対しては、なぜそのように自分の個人的偏見と我執から抜け出すことができないのか、地上の人間たちが恨めしいばかりである。地上の儒教徒よ、孔子の切なる願いがあるならば、それを聞いてくれるだろうか? 皆さんは孔子の願いを必ず聞いてほしい。そして釈迦のメッセージにも関心を持つがよい。ぜひ霊界の生に留意することを願う。
ー2001.3.12ー
儒教徒に統一原理をどのように紹介 したいか?
神と人間は父子の関係で創造された。父母と子供の関係は宿命的な関係である。父母と子供の関係は、ある理由と条件で成立するのではない。それはただ無条件的である。喜び、悲しみ、孤独、そして幸福など、すべての事情が父母と子女は一致しなければならない。
父母がどこでどのように生活しているか、例えばお腹が空いているのか、何の服を着ているのか、寝床が不便ではないか、健康であるかなど、父母に対して常に関心を持っていることが子女の道理であり基本である。ところが、神は私たち人間の創造主であり、人類の父母であるが、長い歳月の間、神と人間の父子の関係が断絶していたのである。その結果、私たち人間の前に偽りの父母が人間の真の父母のように振る舞うことによって、長い歳月の間、人間は罠に閉じ込められ、何も知らない中で生活していた。神が失った子女を探すために、数多くの歳月の間、苦労されたという歴史的事実を人間は知らなければならない。
今や神は、天宙の前に王の位置に登場なさり、父母の立場で登場なさったが、その環境と国が神を完全に解放して差し上げることができずにいる。これが何を意味しているかを知る人はごく少数に過ぎないのである。孔子は、統一原理は人間を救うための救世の書であると考える。孔子は地上に数多くの書籍を残したが、人間の霊魂まで救うことができる経書は残せなかったようである。事実それは、人間の頭脳で分析することも、されることもできないのである。
統一原理は、ただ神に隠された天の秘密に対する内容を、文鮮明先生が死線を往来して明らかにした内容である。何も考えずになにげなく読んでみれば難しく、どういう意味なのか理解できない部分が一つや二つでない。儒教徒は、孔子の残した書籍があまりにも難しく、大衆に読まれない内容が多いということを知っているはずである。しかし、孔子が残した書籍を解釈し、分析し、研究してみるがよい。人生を生きていくにおいて、慰労と助けにはなりうるが、来世の問題まで責任を負おうという文句はなかなか見いだし難しいことである。
簡単に言えば、人間が地上で少しの間休んでからこちらに来なければならないということは、公認の道であり、天道の道であるが、地上の瞬間的な生を中心にする内容より、永遠の世界のために準備する内容がはるかに良い書籍として残ることは明らかである。孔子は来世に対してよく知らず、分析する機会さえなかった。来世に対して無知だったので、どのように分析して文を残すことができようか? 今孔子は、この無形世界で大真理に接してみて、地上に残した孔子の教えは実に不足極まりなく思う。儒教に対する尊厳性と尊貴性を持った儒教徒は、この点を深く考えるように願う。
神は私たち人間の父母であり、私たちはその方の子女であるので、神に父母として仕えて生きるべきであるという真理より大きな真理がどこにあるだろうか? そのような真理があるならば、それを追求して生きていくように願う。来世は永遠の世界である。それゆえ、人間が来世で永遠に神に仕えて生きるように創造されたのが神の真理であり、統一原理の根本の教えである。儒教徒は孔子のこのメッセージに特に関心を持つように願う。
ー2001.3.13ー
文鮮明先生に対する理解と所感は?
私、孔子があえてこのように途方もない方のお名前を呼び、その方に対する理解と所感を文章に残す機会を持てたことを、限りない栄光と感じる。これは神の特別な配慮であり、特権であると考える。地上人が地上で生活する文鮮明先生を眺めるとき、その方は普通の人と異なるところのない姿として見えるはずである。
地上の人間が無形世界の途方もない実相をある程度でも感知するならば、既に地上天国が実現されていたはずである。孔子は一人の女性の力を借りて、歴史にもう二度とありえない大切な特恵を受けて孔子のメッセージを地上に送っている。この事実に対して一方で大変申し訳なく、一方で極めて感謝している。このように一人の女性が自分の体力と戦って苦労する姿が切なく、申し訳ないばかりである。
孔子は、ここの実相を皆に現したいが、地上の人間がそれを受け入れるかどうか疑わしい。地上の人間にこの事実をどのように理解させるべきかということが問題である。お釈迦様のメッセージもついに地上に伝えられ、聖アウグスティヌスのメッセージも既に地上に送ったことがある。そのようなメッセージが伝えられるとき、こちらの四大聖人と聖賢たちは心より至誠と精誠で祈祷した。しかし、こちらの私たちが安心して地上に協助できる基盤がなかったことを非常に惜しく思う。孔子の心情も例外ではない。文鮮明先生は誰であろうか?孔子はその方を高く称賛し、地上の人間にその方の真の姿を正しく知らせたいが、皆さんがそれをどのように受け入れるのか恐ろしい気持ちが先立つ。この瞬間、孔子は自分の虚しい心を抑えることができない。この心をどうすれば良いだろうか?
こちらの私たち四大聖人は「任された分野で最善を尽くそう」と約束した。「今後地上人に願望を聞くのをやめよう」とも約束した。
地上人よ、宗教人よ、無神論者たちよ、あなたがたの地上生涯は永遠なのではない。今皆さんが生きている地上は瞬間であり、一晩夢を見て目覚めれば夜が明けてくるように、一晩の夢の中のような世界に過ぎない。永遠の世界の味と趣を感じて地上を眺めれば、実に滑稽であり、愚かなことだったのである。どうか皆さんは、瞬間的な地上世界の夢から目覚め、孔子のメッセージに特別に耳を傾けて注目するよう願う。
文鮮明先生は皆さんと共に地上にいらっしゃる。しかし、天上の宝座が動くとき、私たちはその方の真の姿を見た。文鮮明先生の宝座の上で、神の光彩が溢れ出る場面を私たちは明らかに目撃した。私たちはまぶしくて、その光景を正面で眺めることができなかった。しかし、地上人はこのような事実を知らないので、文鮮明先生のみ言にだけ重点を置いていた。
文鮮明先生が動くとき、神はその方をきらびやかな光彩で覆い、ぐるぐると巻いたまま一体となった。あるときは二人になり、またあるときは明るい光だけがまばゆいばかりに輝き、文鮮明先生の姿は見えずに、み言だけが聞こえたりもする。ある日私たちは、文鮮明先生が公的な場で祈祷なさる場面を見た。そのとき神の宝座の上で数えきれないほど多くの汗の雫と血の色が降り注いでいた。そしてその血の色と汗の雫が流れ、聴衆の座席の上に流れた。その血の色を踏むたびに、白い服を着た新しい姿に変わった。それはあたかも天使の翼のように動いていた。そのとき、神の宝座の血の色と文鮮明先生の体は、ただ一つの体になって、人類を救おうという一念で現れた。そのときの汗の雫と血の色は、私たちすべての胸を痛めた。
地上人はこのような事実を記憶しているのか? 国連での祝福式場を記憶しているのか? それは神が人類を救おうという最初で最高の血闘であり、恨に満ちた歳月を経てこられた神の涙の場所であった。
地上人よ、孔子は見た。神とともに人類を救おうと80年の生涯を捧げてこられた大いなる師の労苦を、孔子ははっきりと見た。神が常に文鮮明先生を寸分違わず徹底して配慮なさる姿を、私たち四大聖人は数えきれないほど目撃した。
孔子の能力でどうしてその方について説明することができるだろうか? 孔子に関する限り「文鮮明先生に対する理解と所感」という表現は決してふさわしくない。一つの生涯を通して、神の前に独り、人類の前に父母としての責任を全うしようという心情は、どこの誰からも見られないことであった。先に送ったお釈迦様のメッセージは、その方だけのメッセージでなく、私たち四大聖人の一様なメッセージであり、私たちすべての念願であり、私たちすべての切実な願いである。
神の前の宗派に何の意味があるか? 偉大な師、真の師、真の父母に会い、その方とともに生きて、この天国で神に仕えて共に生きていくことが、人類の本来の目的であり神のみ旨である。短い生涯にあまり執着せず、永遠の世界を研究して準備する人になるがよい。そのような人だけが賢明な信仰者となるはずである。固着な思想を捨て、新しい時代の新しい真理を受け入れるがよい。それが天国行きの確実な近道である。
- 2001.3.15. –
孔子様の今後のご計画は?
原理を理解し、神のみ旨を悟った者としての計画は、当然ながら一つの一本道しかない。孔子は神を父母として仕え、子女としての道理を果たしたいと願っている。では、どのように神に仕えるべきか?孔子は神を父母として仕えるにあたり、単なる観念的な仕え方ではなく、実生活を通じて神を中心に生きることを目指している。毎朝晩にお伺いの挨拶をし、すべての生活の場面で神を中心に据えて生きたいと考えている。
孔子が地上で暮らしていたときに、もし神を父母として奉る真理を悟っていたなら、一点の恥もない見事な経書を残していただろうと考える。そして、多くの人々にこの真理を教えて生きたはずである。しかし、そうした機会を逃してしまったようで、事実その分野は感知できなかったようである。だが、こちらでその真理を深く悟ったので、今後はただこれに従って生活するつもりである。できることなら地上に積極的に協力したいと願っているが、地上人の思想は固く閉じられている。どのようにしてその心の扉を開くべきか、それが深刻な問題であると言える。
孔子は地上生活をしていたとき、人間の倫理的・道徳的生活を大変強調した。それにもかかわらず、他の聖賢の真理に触れることはなかった。今や、さまざまな聖賢たちが地上の人間に対して永遠の世界について様々な次元で教え、また、李相軒先生の血のにじむ努力によって、この永遠なる世界の様々な分野について悟らせてくれた。それがたとえ偽りだとしても、一度耳を傾けて研究してみる必要があるのではないか?それが信仰者の最低限の姿勢であると考える。
自分の固い思想に没入すれば、自己満足に陥るのが常であり、自らが作った垣根から抜け出すことができない場合が生じるのが常である。その垣根があまりにも丈夫で、その陰に自分が閉じ込められて見えないだけでなく、外の輝かしい日差しを見ることもできなくなるはずである。皆さんは自分のカーテンを開けて、東に昇る輝かしい日差しを眺めるがよい。そうすれば、輝かしい朝日の光が四方で虹のように皆さんを包み込んでくれるだろう。
李相軒先生のように、孔子も無形世界で会った何人かの学者たちの固い生活を知らせてあげたいが、今回は控えたい。孔子はこちらのいろいろな所を巡り、神に父母として仕えて生きることを教えたい。そして、その生活がどれほど幸福であるかを見せてあげたい。
孔子は資格がないが、李相軒先生の教え、すなわち統一原理をより詳細に研究し、分析し、学び、多くの人に分かりやすく教え、彼らに原理人になることを教えたいと願っている。
しかし、孔子がそのようにすることを文鮮明先生がまだ許していないようで、統一教会の専門家があまりにも多く、そのようになることは容易ではないと考える。それでも孔子の計画は、原理人として暮らし、原理を教えることである。孔子は孔子の立場で、統一原理を儒教徒の思想に合わせて教えてみたい。それが私たちの立つべき立場であり、永遠の世界で生きていくべき方向であると考えるからである。
神が孔子に願うことは何か、孔子はよく知らないが、これから神が私たちの父母であり、父であることを知り、原理を通して生きていかなければならない方向性も分かったので、他にどんな計画がありえようか?ただ一つの道のみである。そしてこちらの荒地の開墾において、孔子も一役を担うべき分野が明確にあると感じた。孔子はそのために熱心に原理を勉強している。
地上人にぜひ頼みたいことは、新しい真理を謙虚に受け入れ、真の信仰者の姿勢に戻り、後日神の前に真の子女の姿で出会うことを願うということである。
祝福を受けた所感は?
「祝福」という言葉は、地上で良いことがあるときに使われることが多いですが、ここでの祝福の意味は全く異なります。簡単に言えば、地上での結婚、すなわち婚姻を指します。しかし、霊界にいる人々が結婚するというのは、皆さんには馴染みのないことかもしれません。
今日は、儒教徒をはじめとするすべての地上の人々にお話ししようと思います。これは孔子に与えられた、もう二度と訪れない貴重な機会だからです。多くの人は地上で結婚し、妻を迎えますが、嫌いになれば別れることもあります。これは地上人の一般的な結婚観でしょう。霊界での祝福も一種の結婚を意味しますが、地上人の結婚観とは異なる側面があります。
もし人間が成長過程で堕落しなかったならば、神に仕えて、神の前で堂々とした神の子女として祝福を受けることができたでしょう。しかし、人間の始祖の過ちによって、私たちは神の祝福を受けられず、自分勝手に結婚するようになりました。その結果、地上では夫婦として生活していても、霊界ではその関係は続かず、夫婦は他人同士に戻ってしまいます。言い換えれば、地上での結婚式は霊界では全く意味を持たず、認められないのです。このことを明確に覚えておいてください。
では、ここでの「祝福」とは何でしょうか?皆さんは肉体を持って地上に生きているため、時間と場所を考え、体面を重んじるでしょう。しかし、孔子に与えられた時間は貴重であり、率直にお話しするしかありません。
孔子は儒教の創始者である以前に、一人の人間として多くの悩みを抱えながら生きてきました。根本的な問題は神と人間の関係にあります。神が人類の父母であるという事実を知らなかったために、人類の歴史は初めから歪んでしまったのです。この事実を知れば、人間の問題の解決策が見えてきます。
神は歪んだ歴史の方向を正し、人類を救うために救世主を送られました。その方が文鮮明先生です。詳細はお釈迦様の切実なメッセージに詳しく述べられているので、参考にしてください。
現在、文鮮明先生は地上で過去および現在の人類に祝福を授けていらっしゃいます。孔子だけでなく、四大聖人や聖アウグスティヌスまでもがその祝福を受けました。四大聖人の夫人たちは地上に生きています。この事実が信じられないかもしれませんが、私たち四大聖人は皆、文鮮明先生の祝福を受けて一つになりました。地上でのその方の働きを支えるために、私たちは一つになっています。
文鮮明先生は四大聖人がセミナーを開催したことを地上に知らせるよう指示されました。私たちはセミナーを開催し、「神は人類の父母」というテーマの下、統一原理を学びました。しかし、地上における確固たる協力基盤が未だに整っていないことが悔やまれます。各宗派や教派が信仰に固執しているためです。
文鮮明先生は高齢のお身体で、人類に献身的な模範を示しながら、メシヤの道を歩んでおられます。地上の宗派の指導者たちがその方の言葉に耳を傾けないまま、もしその方が地上を離れたら、イスラエル民族よりも大きな悲劇が訪れるかもしれません。
孔子のメッセージの結論は、地上はもちろん、天上のすべての人々が文鮮明先生から祝福を受けなければならないということです。地上でその方の祝福を受けた夫婦は、霊界でも永遠に共に暮らせます。互いに愛し合い、永遠の家庭で神に仕えることができます。
地上の皆さん、永遠の愛を求めるならば、この点を再度考えてください。自分の垣根の中で生活している限り、天国は遠い存在です。互いに壁を壊し、真の愛で一つになりましょう。人類の恒久的平和を実現するために、文鮮明先生の叫びに耳を傾けてください。その方はメシヤであり、救世主です。その方に祝福を受けた孔子が、霊界から皆さんに切実なメッセージを伝えます。
- 2001.3.26. –
孔子様は原理講師になりたいか? 原理の中で熱く語りたい題目は?
孔子が勝手に原理講師になりたいと言って、簡単になれるものだろうか? しかし、もし原理講師になることが孔子にも許されるならば、渾身の力を尽くしたいと思う。原理講師になる道は、決して易しいものではない。原理の内容をどうやって言葉で表現し尽くせるだろうか? 統一原理は天の秘密を明らかにした霊的なメッセージであり、新約・旧約・成約など、人類の救いの問題が前提となったみ言葉であるため、その内容を表現して伝達することは容易なことではない。原理講義は、一般の講義のように単純に知識や学問を伝達するものではない。
私、孔子は原理講義を何度か聞いた。そのたびに自分の心霊基準と精誠の程度によって、その感じ方が異なった。統一原理は、学問や知識を伝達する次元で勉強したり聴講したりすれば、知識の糧にはなるかもしれないが、霊の糧にはならないだろう。孔子は統一原理を勉強し、聴講するたびに、常に新しい体験をしていることに気づいた。
実例を紹介しよう。ある日、劉孝元先生が創造論の無形世界について熱く語っていた。ところが、講義の途中で劉孝元先生の姿が消え、文鮮明先生が汗を流しながら現れた。そして、汗が血に変わり、額からさらさらと流れる血が床に広がり、その血の筋ごとに人々が号泣しながら祈祷する場面を目の当たりにした。孔子はこの光景に驚き、その後も劉孝元先生の講義を聞き続けたが、その場面が心に深く刻み込まれ、その時間は聴講を続けることができなかった。統一食口たちが真理を伝えようとする心的姿勢は、苛酷な拷問のように感じられた。
地上の人々は知らないだろう。この霊界での生活を推し量ることもできないだろう。孔子がどうして原理講師になれるだろうか? 統一食口たちの苦労は誰も真似できるものではない。孔子の心霊基準と彼らの心霊基準にはあまりにも大きな差があることを感じた。
もう一つの実例を挙げよう。ある日、李相軒先生が四大聖人と聖アウグスティヌスと共にした場で質問を投げかけた。「聖人の皆さんは、地上で残した業績と地上人の胸中に尊敬の対象として残った方々ですが、もし再び地上人になるならば、いちばん先にしたいことは何ですか?」という質問だった。私たち聖人は誰も口を開くことができなかった。その質問を投げかけた李相軒先生の表情は、あまりにも落ち着いて真摯であり、私たちにある答えを聞こうとしているわけではないことを感じた。そのとき、李相軒先生の姿は本当に哀れで見るに堪えなかった。感嘆し続け、驚きに包まれたその方の本来の表情を見つけるのが難しかった。常に涙ぐんだ声であり、疲労から逃れることができないほど憔悴した姿であった。なぜ無形世界でこのように良い立場にありながら、なぜそのように難しく生きているのかと疑問に思う人も少なくないだろう。しかし、李先生は少しの間も休むことなく、残念で仕方がないようであった。
李先生は「霊界で発見したこのようなことは、無形ですが実際であり、実相です」と言われた。そして、その方は次のように話した。「この事実を地上人に知らせなければならないのですが、文鮮明先生が地上にとどまりながらあれほど強調なさった霊界の実相を、今まさに目の当たりにしているではありませんか。これまで地上の皆さんは、文鮮明先生が教えてくださったみ言葉を一種の夢の世界のように考えていました。しかし、それが今や現実化しているという事実は驚きです」と言いながら、李先生は「父母様(文鮮明先生)に親不孝をした事実を、どのようにして地上人に知らせるべきか悩んでいます」と言った。李先生は「聖人たちが私を受け入れてくれることができますか?私は天地父母様に多くの親不孝をしながら心情を踏みにじった息子でした。そして、この身がどうなろうとも、こちらで孝の道を歩みたいのです。私を助けてください」と訴えた。
私たち聖人の心には、重い沈黙が流れ始め、李先生は長い間そばで泣きながら祈祷していた。私たちはこのような場面を数えきれないほど目撃した。事実、李先生は私たちの心の琴線に何度も触れた。李先生の生活が、講義以上に私たちを感動させた。そして、原理講義を聞いて人生の方向を変えるしかなかった多くのことを教えてくれた。それは私たちに多くの教訓を与えた。
このように原理講義を通じて父母様(天地父母様)に仕えて生きてきた方々の人生を見ると、どうして孔子が原理講師になると言えるだろうか? 統一原理講師は誰にでもできるものではないと孔子はよく知っている。にもかかわらず、熱く語りたい講義題目があるだろうか?
しかし、孔子には夢があり、希望がある。新しい真理の前に無用の長物として残りたくない。孔子は孔子に合った原理講義をしてみたい。李相軒先生や劉孝元先生のように心情的な講義ではなく、孔子のスタイルに合う講義を開発したい。その時がいつになるのかはわからないが、文鮮明先生がこちらに来られる日まで熱心に勉強し、最初の講義を父母様の前で披露してみせよう。そして、どんな辛辣な講評を受けても、孔子の独自のスタイルに合う講義をしてみたい。熱く語りたい講義の主題はたくさんあるが、それは秘密にしておこう。秘密にしたこの部分の講義を徹底的に準備し、演習し、父母様に捧げるつもりである。明確にやってみせよう。天地父母様、期待してください。孔子が老練で腕の良い講師となるまで、長生きしてください。
李相軒先生の質問によって、李先生の話を多く記録してしまい申し訳ないが、孔子に与えられた時間を自由に使わせてもらった。真の教訓を学び、実らせて、万民に真の愛を分かち合おうと思う。
ー2001.3.27ー
孔子様は地上に残した書籍が多いが、その部分についてどのように考えるのか?
李相軒先生が下さった質問項目のうちで、今日の質問項目は本当に答えにくい嫌な質問項目である。それは孔子が地 上に暮らしたときに残した書籍が、この無形世界、永遠の世 界を生きていくのに何らの助けにもならないからである。
一冊、一冊の本の中には、孔子自らの哲学が内在していて、それは容易く得られたものでもなかった。しかし、常に何度も反復するが、孔子は神と人間との関係を深く知ら ず、その部分に対しては文を残せるほど十分な知識もな かった。
この無形世界に神がおられた所は、知識を持って来る所 でもなく、財物を持って来る所でもなく、地上のいかなる 地位、権力を持って来る所でもない。神の子女の立場で、 地上で自分の人格、自分の信仰が何のために、どのように 生きていたかという実績を持って来る所である。
地上に様々な次元の本を残し、多くの人々に知識と学問 を伝達したとしても、それは神の前に大切な子女として記憶されることはない。しかし、孔子は儒教の創設者であり、 四大聖人の一人としてこちらで大変厚い待遇を受けてい る。それは、神が孔子の人生に対して寛大にご覧になった からだろう。
地上生活をするとき孔子は神を否定しなかった。ただ、 父子関係の心情を教えることができなかっただけである。 しかし、孔子が神に恥ずかしいことは、神の子女としての 書籍を残したことがほとんどないという点である。四大聖 人たちの一様な恥は、神と人間において父母と子女の関係 を人類に教えることができず、したがって、神に孤独で寂 しい道を歩ませたということである。地上生活をすると き、孔子は肉身の姿一つをどのようによく見守って生きて いかなければならないかということだけに関心がとどまり、永遠の世界のために生きていくべき準備をし、それを 守る文句を残すことができなかった。これがどれほど大き な痛みとして残るのかを、地上の人間は知らないだろう。 今リポートする瞬間は、孔子においては寸時の時間のよう に惜しい。貴く貴い時間である。それゆえ、大切な内容を 地上人の儒教徒に教派を超えて伝達したい。
しかし、このメッセージが地上人にどんな反応を起こす かということも少なからず心配になる。このような場合は,歴史以来最初のことではないか?しかし、旧約•新約時代を過ぎて、今や成約時代の王権即位式が終わった後、貴く大切な私たちの環境が地上に造成されているのである。
しかし、地上人はこのように良い環境を知らずにいる だろう。神との一体化時代を成し遂げるために、天上の 秘密がくまなく知らされ、神が人間を愛することが知ら され、神の摂理の方向が知らされ、地上と天上が一つに なりうる環境が造成されているのである。そうして、エ デンの園で実現しようとされた本然の世界が表面化して いるのである。そして、神と人間において父母と子女の 愛の関係が再びつながっている。天上の秘密を明らかに し、特別な期間に特別な祝福を下さる神の摂理を、私た ちは皆、心よりありがたく思わなければならない。孔子 はそれを知っているために、天運の機会に地上の人間が 信じてくれないとしても、彼らにこのようなメッセージ を残したいのである。
孔子が残した書籍は、地上生活のための地上の人間には 大切だが、永遠の国では何らの効果がないものであると伝 える。そして、この永遠の世界で孔子と共に生きていく準 備をした人だけが、孔子に会うことができるのである。し たがって、地上人よ、儒教徒よ、孔子を尊敬して孔子が残 した書籍に一抹の感謝を感じるならば、孔子の決定的な願 いを聞き入れてほしい。永遠の世界のための書籍を探して 精読することを願う。こちらは、一人残らず来るべき所で ある。塵ほどの割引もこちらにはない。したがって、こちらの永生のために徹底して準備することを願う。このメッ セージは儒教の創始者孔子が、特別に地上の人間に伝える 内容である。
ー2001.3.29ー
もし地上人に戻るならば、何をして みたいか?
孔子は地上に戻りたいという気持ちは少しもない。その理由は、神に仕え、幸福に生きていくことができる永遠の安らぎの場を得たからである。今この現実以上の願いがどこにあるだろうか?しかし、李相軒先生の質問の意図は、孔子が今考えているこれではないということを知っているため、心から答えようと思う。
人間が永遠に生きていくことができる無形世界で、最も大きい幸福は神に人類の父母として仕えて生きていくことである。しかし、地上では文鮮明先生が神に代わって罪悪に陥った人類を救い、恒久的平和世界を建設するために、真の愛の運動を汎世界的に繰り広げておられる。もし孔子が地上に戻ることができるなら、文鮮明先生の真の愛の運動に積極的に参加し、すべての地上人の人生をこの天上でそのまま延長し、本来の人間の姿で生きていくことができるように一助となりたい。これが孔子の究極的目的である。
しかし、地獄や低級な霊界圏で生きている天上人は、概してそれを知らずにいる。これを回復するために、天上で四大聖人をはじめとする聖賢たちは熱心に努力している。私たちはそれを実現するための目的と方向を設定し、その実践段階に入った。私たちは原理の指向性を知り、神の方向性を知っているために、それを必ず実現できると確信している。
四大聖人たちは、過去の聖人として歩んできた道や彼らの称号を超越して、ただ神の創造目的を成し遂げるために努力するだけである。しかし、この霊界にも地上のように分派的な実勢が明らかで、厳然として存在している。お釈迦様がお出ましになれば、仏教徒の歓迎の雰囲気は十分驚くべきものである。しかし、お釈迦様はそれを願わない。私たちはそれに関わらず、彼らを救うために手厚くもてなし、原理と神について理解させ、教育している。こちらにいるすべての霊人たちは、神に仕えていないため、地上と同じように難しい点が少なくない。こちらの大部分の現象は、地上の現象とほとんど同じである。
こちらの私たち四大聖人は、神の理念で皆一つになっている。このように天上で一つになることは容易ではない。それにもかかわらず、四大聖人たちが一つの理念で結ばれているということは、どれほど驚くべきことか?これはただ地上の文鮮明先生が特別な配慮によって、私たちを祝福してくださり、新しい真理の道に導いてくださったからである。
孔子が地上に行くことができるなら、やりたいことがたくさんある。孔子は地上で立派な統一原理講師になって、主の姿を高く称賛したい。そして、私たちの真の御父母様を背負って、アジアを巡り、最後に中国大陸で大きな宴会を開いて奉祝したい。
そして孔子は、統一原理を根本から暗記した講師として、主の前に最高の統一原理講師として認められたい。それは本当に実現したい夢である。孔子は地上の人間に戻ってその念願を成し遂げたい、この天国でもそれを成し遂げてみたい。
父母様、主よ、文鮮明先生、本当に長生きしてくださいませ。主がこちらへ来られるとき、孔子は相当に特色ある講師としてその真価を見せてさしあげます。今、アメリカ50州巡回講演をしておられる主は、あまりにも無理な強行軍です。私たちは皆、そのことに心を痛め、気をもみながら精誠を込めていますが、その恩恵、その愛を人類がどうして耐え、理解するでしょうか? しかし、それは神が共におられる立場であり、メシヤ、救世主としての道であるので、私たちとしては、ただ精誠と祈りを捧げるしかないのです。人類の平和は、すなわち神の平和であることを知っています。どうかお体がご無事でありますようお祈りいたします。
孔子の願いは、父母様に仕えることである。孔子には他にも多くの願いがあるが、それらをすべて明らかにすることはまだできない。孔子は、こちらで地上での唯一の願いを成し遂げるために、ただ奮闘努力しているだけである。
以上を要約すれば、人間が肉体で生きていくためには、様々な手段や方法が必要だが、こちらに来ればそれらは何の役にも立たないということである。ただ神を私たちの父母として仕えて生きていくこと以外には、何も役に立たない。それゆえ、地上の人間がそれを知れば、地上の生活が複雑である必要がなくなり、様々な分岐の道に進む必要もない。皆さんは、救世主、メシヤが文鮮明先生であることを知り、メシヤの方向で生きれば、こちらで正しく直行するようになる。地上の生活が永遠でないことを知れば、なぜそんなに大変で疲れる生き方をするのか? 皆さんはメシヤに仕え、その方の真理に従って生きていけば簡単である。孔子の願いは公明正大である。孔子には自信があるからである。地上の人間が賢明に処することを願うのみである。
- 2001.4.2.—
四大聖人たちの霊界セミナー 主題:神は人類の父母
イエス様がキリスト教徒と他の宗教人及び 地上人に願うこと
ベツレヘムに生まれたイエスが、この紙面を通して地上に新しいメッセージを伝えようと思う。ユダヤ人たちは、いまだに来るべき主を待っていることであろう。キリスト教徒、他の宗教人、そして非宗教人たちも、イエスの名前ぐらいは記憶しているであろう。
今回のメッセージを地上に伝えるイエスの心は、色々と複雑で錯綜している。その内容を一言で要約して伝えることができず、心苦しく思う。地上の人々、とりわけキリスト教徒は、このメッセージに触れるとき、信じるよりは、かなり疑うであろうことをイエスは理解している。しかし、かつて新約時代のメシヤの使命を抱いて来たイエスが、人類の救いの責任者として明言すべき時代が到来したため、この事実を明らかにするのである。
当時、イエスは神からメシヤの使命を抱いて地上に来ていた。しかし、その時代の宗教人と非宗教人の葛藤をすべて聖書に記録することができなかった。実際、聖書にはすべて明かせなかった隠された摂理的内容が多かった。その時代の流れに従って、神の摂理は変わるしかなかった。今、キリスト教徒やメシヤを待つ数多くの聖職者たちに、隠された摂理的内容の一端をはっきり伝えようと思う。
神が人間を創造されるにあたり、肉身を持った人間は地上で生きることが必要であり、肉身を失えば、その霊魂は霊界で永存するように創造された。メシヤを待つ聖徒たちよ! 聖書に表現された各節の両面的な預言にはなぜ関心がないのか? イエスは新約時代に人類の救いのため、メシヤとして来たのである。しかし、イエスの十字架の問題を皆さんはどのように考えるか? それは神のみ旨なのか? 人間の失敗なのか? 皆さんはイエスの生涯を綿密に検討してみたのか? イエスの懐胎と誕生についても考えてみたのか?
その時代、イエスは間違いなくメシヤの使命を抱いて来たが、肉身をまとった平凡な人間の姿で、地上で食べて着て眠って生活した。しかし、イエスは一般人とは異なり、メシヤの使命を持っていた。メシヤの十字架の代贖は、神の本来のみ旨ではなかった。
地上の人々よ! キリスト教徒たちよ! これが事実かどうか、断食しながら祈祷してみなさい。そうすれば、イエスが現れてはっきり教えてあげるであろう。しかし、断食して徹夜するとき、純粋な祈祷と精誠だけを尽くさなければならない。いわゆる異端の声にも耳を傾けてみなさい。この時代に統一教会の文鮮明先生は、十字架の代贖により、地上で成せなかったイエスの使命を完遂するため、再臨のメシヤとして現れた方であり、成約時代を締めくくるための真の父母の使命を抱いて現れた方である。
新約時代にメシヤの使命を抱いて来たイエスを、当時の人々は十字架に付けてしまった。それで、地上には、神が成就すべきみ旨が残され、そのため再臨のメシヤが必要だったのである。新約時代のメシヤは、霊的な救いしか成せなかったため、肉的な救いは宿命的な宿題として残されたまま、歴史が流れてきた。それゆえ、恨多き歴史の裏通りで、数多くの悲しみと苦痛を味わいながら、神は再びメシヤを地上に送るため待ってこられた。文鮮明先生の血統を分別して聖別し、メシヤとして送るまで神は超緊張の歳月を過ごした。
イエスはどこで生まれたか? 馬小屋で生まれた。当時、マリヤの心情はどうだったろう? キリスト教徒たちよ! 聖書を読むとき、容易にその内容を理解することができたか? 解けない問題、理解できない問題に直面して、皆さんは苦しむことがなかったか? 天の秘密をすべて明かせなかったイエスの心情を理解するだろうか? 聖書に記録できなかった摂理の奥深い内容を皆さんはいかに知りえようか? イエスの父ヨセフの婚約者だったマリヤのお腹がどうして大きくなったか? 復帰摂理歴史において、人類が受け入れ難い途方もない天の秘密が、ベールに包まれているのを皆さんは知らないであろう。人類は神の子女であるため、神は人類を訪ねてきて愛するほかなかった。皆さんは、そういう神の心情を推し量ることも難しいだろう。
この時代に地上に顕現された文鮮明先生は、皆さんが待ちわびた再臨のメシヤである。文鮮明先生は、16歳の時にイエスのメシヤの使命を引き継がれた。キリスト教徒たちよ! いまだに雲を見つめながら、雲の中に現れる再臨の主を待っているのか? 文鮮明先生は、数万回、雲の中をかき分けて世界を巡回し、人類平和の具現のため渾身の力を尽くしておられる。今日もその方は、80歳を越えた高齢で、人類の救いの最前線で苦闘しておられる。
新約時代にイエスを迫害したローマ人たちのように、この時代の皆さんもその方を再び十字架に付けるのか? ソドムとゴモラの滅亡を皆さんは知っているではないか? 神は愛である。待っておられる。成約時代に降臨されたメシヤを迎え入れなさい。その方の業績と人類の救いの摂理的導きを排斥せず、心から迎えながら祈祷してみなさい。皆さんの真実の祈祷の中に、イエスが共にあるであろう。
今日、キリスト教徒たちは、イエスの生涯と神の救いの観について、深く祈祷しながら、メシヤ・イエスを十字架に付けた新約時代の時代的な状況を再び思い起こすことを切に願う。
イエスが33歳になるまで結婚できず、イエスに従って歩んだ12弟子ともども、イエスが空腹だった状況を考えてみなさい。イエスは恨が多かった。キリスト教徒たちは、メシヤ・イエスに関するすべてのことは、神のみ旨であるとだけ結論を下している。けれども人類のなすべき道理と責任はないのか、深く考えてみなさい。メシヤとして来たイエスは人の子であった。イエスは神の一人子として、メシヤの使命を成し遂げるため、渾身の力を尽くしたが、その夢とみ旨を完全に成しえなかった。そのみ旨が完全に成されたならば、再臨の主が来られる必要があるだろうか?
キリスト教徒たちよ! そして、諸々の宗教人たちよ! 当時のメシヤはイエスであった。間違いなくメシヤであった。しかし今日、メシヤの使命を完遂するために再び来られた方は、文鮮明先生であられる。その方がまさに再臨の主である。異端の魁首とされたイエスに「来たるべき方はあなたですか?」と尋ねた洗礼ヨハネの立場を考えてみなさい。皆さんは今、文鮮明先生をどう評価しているか? 時代の流れを考えてみて、文鮮明先生が成し遂げた業績を思い起こしてみなさい。人間の力だけでは不可能な途方もない業績を成し遂げられた。
神と人間は父子の関係である。今や皆さんは、子女を待って耐えて来られた神の摂理と心情を体験すべきであろう。キリスト教徒が偶像崇拝者とする仏教の教祖・お釈迦様とイエスが、向かい合って座り、談笑しているとすれば、イエスをどう思うか?
諸々のキリスト教徒たちよ! 仏教徒たちよ! そして諸々の宗教人たちよ! イエス、釈迦、孔子、マホメットなどの四大聖人とソクラテス、聖アウグスティヌスなどの聖賢たち、そしてその他の宗教指導者たちが数回セミナーを開き、それは今も続いている。セミナーの主題は、常に「神は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』をめぐり、分析し討論している。
それは神が私たちに下さった宿題でもあり、地上の文鮮明先生の活動にくまなく関与し観察されて、私たちに人類を解放するためには、ここにいる宗教の代表たちがまず一つになり、地上に協力するよう命じられるためである。
私たち(四大聖人)には宗派の壁はない。私たちは皆一つになり、地上に顕現された成約時代のメシヤを通して、人類を神の子女として生まれ変わらせることで、神を中心とした一つの世界が成就できるよう祈祷している。地上でしばしば見かける宗教人たちの対立と葛藤は、こちらではすべて解消された。そうなるまでに相当な時間が流れた。人類の創造主は唯一、神だけという究極的な真理を明らかにするまで、それだけの時間を要したからである。地上でも、すべての宗教の障壁が崩れてこそ、人類の平和が実現するであろう。
各宗教の教理の共通性と差異性を明らかにし互いの長所と短所を取捨選択しながら、温柔謙遜の美徳を示すなら、非宗教人たちもその姿にならい、正しい道に導けるのではないか? 諸々の宗教人、とりわけキリスト教徒がすべて一つになり、この無形世界で一堂に会することを願う。
ユダヤのベツレヘムのイエスが、地上人にメッセージを伝えることのできる時代的な環境と恵沢が与えられたのは、ほかでもなく成約時代が到来したからである。成約時代の主人公はまさに文鮮明先生である。それは、その方が再臨のメシヤだからである。
皆さんはその方をどうするか? 批判の的にするのか? 新約時代のイエスのように十字架に付けるのか? 祈祷し、断食して神に問うのか? 皆さんが最も賢明な信仰人のあり方を選択するよう願う。この霊界にいても、新約時代のメシヤ・イエスの責任を悟らせたくて、このように地上人にメッセージを伝える。
- 2001.4.4~5.—
お釈迦様が仏教徒と他の宗教人及び地上人に 願うこと
地上の信仰人、とりわけ仏教徒に釈迦の最後の言葉を伝えようと思う。イエス様もおっしゃったが、私たち四大聖人は各宗教の代表者として、人類の平和と救いに心血を注いで努力している。そのことは、地上ではよく理解できないであろう。この霊界にて、私たち四大聖人と聖賢たちは、常に一緒にいてセミナーを開くが、意見の対立や衝突は全くない。私たちが一か所でセミナーをするまで、幾度かの原理教育と修練会を経た。
私たちが各宗教の責任者であることを考慮すれば、このような場が一朝一夕になせるであろうか? 祈祷して精誠を尽くしながら、幾度か統一原理を分析し検討した後、こうしたセミナーが設けられたのである。私たちはセミナーを通して、一つの家族のように互いに議論するため、宗派的な偏見による葛藤は生じない。そして、こうしたセミナーが進行するたびに神は、美しい花火ときらびやかな光で私たちを包んでくださった。そして、私たちの和気あいあいたる姿を見られて、喜びながら、悠々とその場を後にされる。
仏教徒よ! イエス様が新約時代にメシヤの使命を背負って来られたという事実を自ら証された。釈迦もそうするほかない。聖書によると、旧約時代と新約時代が過ぎた後、成約時代が到来した。神は一つの時代が過ぎるたびに、新しい人物を中心に摂理を引っ張ってこられた。
このように、釈迦も当時、神の前に方向は違っても、人類を善行の道に導くため、力を尽くしたのは事実である。ただ、その時代には結婚しないで時を待ち、修行するのが自我完成の近道であっただけである。これは神の前に直接進み出る道でないとしても、相当に価値があったと考える。キリスト教歴史の旧約時代という用語が、仏教徒にはなじみが薄いだろうが、その時代には人類の救いの恩恵がその段階にまで及ぶしかなかったのである。当時の状況から見ると、釈迦の生涯と教えも相当な影響力があったのである。
仏教徒よ! 今までの皆さんの生が間違っていたというわけではない。当時の釈迦も、イエス様のように人類を善導することに最善を尽くしたのである。ただ、摂理が進みながら、人類を救うメシヤが時代的に変わっただけである。今までの仏教徒の修行の結実を、新しい時代の摂理に接ぎ木してみなさい。統一原理を研究してみなさい。そうすれば、仏教徒たちにも同じ脈が流れる新しい真理が、少なからず発見できるであろう。あまりに固執した考えに浸らず、新しい真理を受け入れ、私たち仏教徒の真理を成約時代の真理に接ぎ木させなさい。そうすれば、素晴らしい自我完成の道が諸々の仏教徒に展開されると確信する。今、この時代には文鮮明先生が皆さんの釈迦仏であり、弥勒仏である。誠心誠意、仏を供養してみなさい。成約時代の新しい弥勒仏とその真理について、排斥の先頭に立つのではなく、真なる仏教徒の人格を示す時であると考える。
謙遜、冷静にして、人の咎を見ずに、磨きあげてきた様々な仏教徒の慈悲の美徳を表すようにしなさい。真の真理とは何か? 時代によって生きていく人間の方向は、いくらでも変化しうるものである。自然界を眺めてみなさい。神が創造された被造物は、環境によって種類はただあるとしても、大きさと色合いは季節ごとにいくらでも変わるではないか! 人間の本心の声を誰が妨げうるのか? 人間本性の声に従った人間の生活の姿、それ自体は神の前に様々な次元で喜びの対象になりうるのである。
それゆえ、固執として一か所にのみ依存しないで、思考の領域を拡げてみなさい。イエス様と釈迦が、兄弟のように過ごすと言えば、皆さん、仏教徒は釈迦を信じないだろう。しかし、それは事実なので、信じるべきでないか?
神は私たちが一つになって働くことを願われる。イエス様は釈迦をどのように呼ばれると思うか? 常に謙遜で静かな微笑を浮かべて「お釈迦様」と呼ばれる。話が始まると、とても明るい表情を浮かべながら、「そうです」、「そうでしょう」、「そうしましょう」と言われながら、慈愛に満ちた語調で話される。
仏教徒よ! キリスト教徒よ! 天上で私たちが皆一つになり、平和の世界を成したので、地上でも和合すべきではないか? 新時代の新真理で一つになろう。人類の平和運動に渾身の力を尽くされる文鮮明先生は、成約時代のメシヤであり、弥勒仏であられる。これは四大聖人たちのセミナーにおける一様の結論である。仏教とキリスト教が互いに一つになり、神を解放しよう!
- 2001.4.6.—
孔子様が儒教徒と他の宗教人及び地上人に 願うこと
人間は地上で生きるとき、地上の現実状況を踏まえて規範生活を送ります。そのため、人間は地上の限られた範囲の中で見聞きし感じるほかないでしょう。今、地上の人間に私たち四大聖人と聖賢たちがセミナーを通して決意した内容を詳しく伝えても、生々しく感じられないかもしれません。
ここにいる四大聖人と聖賢たちは、地上で生活していたとき、たとえメシヤではなかったとしても、個人的な快楽と家庭の安楽な生活を捨て、誰にも負けないほど人類の救いのために悩んできたと自負しています。私たちは、人生の意味を強調し、人類が正しく善良に生きていくよう真理を宣言しました。
そうした聖人、聖賢たちが共にセミナーを開きました。肉身は失いましたが、地上に残された教友と信徒たちを自分の体のように考え、より正しい道に導くために本当に努力した中で、このようなセミナーを共に開きました。既に言及しましたが、天の国ではイエス様もお釈迦様も皆、和睦しています。
イエス様は仏教徒にご自身を紹介し、「一堂に集まり、礼拝を捧げ、仏に供養もしましょう。そして、各自が抱いている信仰の根本について話しましょう」とおっしゃいました。
お釈迦様が仏教徒の集まりではなく、キリスト教徒の集いで深くお辞儀されて、「皆さんにごあいさつできる機会をいただきありがとうございます。私たちは皆、神のもとに一つになりましょう」と謙遜に話されると、一部からざわめきの声が上がったりもしました。
しかし、このときイエス様が「兄弟姉妹たちよ! 私たちは皆、神の子女であり、兄弟姉妹として神に和睦の姿を見せなければならない時です」と慈愛に満ちた姿で話されると、雰囲気が粛然として変化しました。このとき、神が静かな光でぐるぐる回り、天地が明るい光に変わると、一同は感動を禁じ得ず、昂奮して身を正すことができませんでした。
私たちのセミナーの期間中、神はとりわけ多くの配慮をなされました。今後、こうした集いが続くものと信じています。そして、私たち四大聖人と聖賢たちが頻繁に集うことで、宗教の派閥がなくなり、互いの教理的な違いも解消されると考えます。
儒教徒たちよ! 孔子が何を話せば信じるでしょうか?全世界には人種も多く、宗派も多く、国ごとに文化的な差異も少なくなく、その風習もそれぞれ異なります。しかし、変わらない私たちの共通点は人間の姿です。黒人、黄色人、白人が持っている共通点は人間の姿です。白人、黒人、黄色人などの区分なしに、病院に行けば医師は、彼らに同一の治療方法を使用します。人間の構造が同一であるからです。もちろん治療の程度は違うとしてもです。これは何を意味するのでしょうか? それは人類の主人が唯一、創造主お一人であるという事実を意味します。創造主は、まさに神です。神が人類の父母様です。私たちは、父母様に仕えて生きれば、それで万事が意のままになります。
ところが、なぜこんなに複雑なのでしょうか?それは人類の始まりが誤っており、様々な分岐の宗教が出てきたためです。それゆえ、諸々の宗教を一つに統一するために、神が地上に文鮮明先生を遣わされました。その師は、皆一つになろうという真理を掲げられました。すべての宗教の教理が間違っているわけではなく、ただ教理的な差異があるだけです。
孔子は、各宗教が自分だけに固執して正しいと主張するため、今日の人類の現実がこのように複雑であると考えます。それゆえ、少しずつ譲歩して他宗教の教えも包容する姿勢が切実な時であると考えます。地上でいくら雑多に騒いだとしても、この天上世界の宗教の代表たちは一つになりました。何で一つになったか? 一つの真理を中心として一つになったのです。私たちは皆、神に父母として仕えて生きようと堅く決意しました。地上の儒教徒の皆さんは、どうするのでしょうか? 皆さんも一つの真理を中心として、一つになるべきでしょう。
地上の仏教徒よ! あなた方の最高の師であるお釈迦様が、神に人類の父母様として侍られました。そして、神は皆さんの最高の弥勒仏となるでしょう。地上の皆さんは、この無形世界で過ごす皆さんの姿を点検しながら生活しなさい。人類は一つであり、一つの民族であり、一つの血族です。唯一なる神に侍るため、その法度を教えるため、神は文鮮明先生を皆さんに遣わされました。80歳を超えた高齢の身で、人類解放のため、その方が今、何をしておられるかを確認してみなさい。
地上の皆さん! あなた方がとどまる所、永遠なる居場所は天上です。地上は刹那的な生の訓練所にすぎません。結実期には、混じり物の無い穀類だけが倉庫に入ります。皆さんは、成熟した生を備えなければならないでしょう。
儒教徒よ! 最近のイエス様のメッセージ、お釈迦様のメッセージ、孔子のメッセージ、その他の聖賢のメッセージを参考にして、賢明に判断し、皆さんの態度をはっきりさせるべきです。
- 2001.4.7.—
マホメット様がイスラム教徒と地上人に願う こと
神が人間を創造され、その姿一つ一つは、すべて神の喜びの実体対象として作られました。しかし、神の本来の御心とは異なり、人間始祖の過ちにより、人類の出発から神を離れ、横道にそれた歴史が流れてしまいました。
こうして人種が分かれ、宗派も生まれ、文化も分かれ、地域ごとに様々な生活様相が現れることになりましたが、私たち人間の創造主は唯一、神お一人です。人間を創造された主人公はお一人でありながら、宗教と宗教、人種と人種の間で数えきれないほど闘争があるため、地上を眺める神の心境はいかばかりでしょうか。
神は人類の父母の立場で、息子たちが毎日互いに争い、自分の正当性を主張し、正邪を分けながら争っているとき、子女たちのこうした姿を眺める父母の心情がいかばかりでしょうか。地上人は神の全体的な歴史の方向と流れ、神と人間の関係を詳しく知らないため、人類歴史を通して宗教と宗教、人種と人種間の対立、闘争が起こりました。今や人類は、人類の父母たる神を見いだしたので、兄弟として互いに和合すべきです。
神は人類の父母様です。私たちが主張する教理の根本に突っ込んでみると、すべてが一つです。どんな宗教であれ、悪を崇め奉れという教えはありません。方法は違っても、根本はすべて善を志向する真理であり、教理です。それは神が絶対善と絶対愛の本体であられ、各宗教の教理には「愛し合いなさい」という教えが内包されているためです。
各宗教の究極的な教えは、すべて同一です。各宗教の教えを包容して一つの宗教に統一するのが、神の根本の御心です。それが神に平安のうちに仕えることです。神は数多くの日々を待ちに待って、地上に文鮮明先生を遣わし、その方の教えを通して、宗教を統一することを願われます。それゆえ、その方は統一原理を明らかにされたのです。
イスラム教徒よ!あなた方も神の子女として生まれたからには、今や一つの思想に統一することを願います。その理由は、神、大いなる神が一つに統一することを切に願われるためです。マホメット時代の神とこの時代の神は、不変なる私たちの神であり、私たちの父母様です。今は全人類が一つの兄弟愛を享受し、平和世界を具現すべき時代です。神は常にそれを願われます。
宗教の統一なくして、人類平和の実現はほど遠いです。イスラム教徒よ!マホメットはお願いする。独特な私たちの信仰と教理をもって、他の宗教に痛みを与えず、心を開いて、もろ手を挙げてすべてを受け入れなさい。そうして対話の門を開き、教理の門を開いて、一つに束ねなさい。イエス様もお釈迦様を受け入れ、お釈迦様もイエス様を受け入れ、四大聖人、聖賢たちすべてが一つの思想に統一されました。このようなセミナーの様子を見て喜ばれる神の姿を私たちは体験しました。こうした中で私たちは、確かめ合って決意しました。
地上に来られた文鮮明先生は、神の御心を代わりに伝え、人類の前に真の父母として現れて、これまでばらばらに分かれていた人類を統一するため、メシヤとして来られた方です。私たちイスラム教徒も、謙虚な姿勢でその方の御心を受け入れるよう願います。これまで皆さんが仕えてきた神は、神の愛です。神の愛を受け入れた後、一日も早く他の宗教の教徒と一つになって働くとき、神もマホメットもあなたがたを高く賞賛するでしょう。
そして、静かに落ち着いて統一原理を精読し分析してみなさい。マホメットも、原理セミナーで統一原理が人生の真なる指針書であることを悟り、心を開きました。これは一朝一夕にできるものではないでしょう。しかし、どのみち行かなければならない道なので、近道を選び、短い人生の道で落後者にならないよう切に願います。
ー2001.4.9ー
ソクラテス様が知性人に願うこと
ソクラテスは、アテネの元老たちに裏切られることになったが、彼のすべての理論が当時の市民の精神を混乱させたとしても、彼らが一人の人間の生命をもう少し大切に、高貴に思ってほしかったと考えていた。人間の生命は肉眼で判断すべきではない。一握りの微々たる万物であれ、神の創造の手によらない創造物は存在しない。そして人間は、神の作品の中でも最も大切で崇高な存在として、あらゆる知性と精誠を尽くしてつくられた神の子女ではないか。
神の子女としてつくられた人間は、それを知らずに生きてきた。地上での父母と子女の関係を考えてみなさい。父母と子女は常に慕わしさの中で、お互いの出会いと離別にどれほど胸を痛めるか。父母と子女は一つ屋根の下で愛情を交えて対話し、幸福に生きるものである。神もそのように生きることを願っているであろう。人間の創造主である神は、愛の本体であり、情の塊自体であるが、人間の創造以後、誤った歴史が流れる中で、神と人間の関係が断絶されたのである。このような状態にある神の心情はいかばかりか。
知性人たちよ。ソクラテスはアテネの陪審員たちから不信され、裏切られた男であった。当時の悔しさと悲しみは言葉では語り尽くせないが、ここで神の傍らに来てみると、さらにもう一つ悲しくて悔しいことがある。それは、神と人間の関係を知らなかったという事実である。これより悲しく悔しい事情がどこにあるだろうか。自らの父母を知らず、人間をこの上なく愛して来られた神の愛を知らず、悠久なる歳月をかけて子女を待たれる神の痛みを、私たち人類は知らなかったのである。今やこうした事実を知ったソクラテスの痛みは表現するすべがない。
知性人たちよ。父母と子女の間で知識と学問を自慢して生きてきたのか。人間生活において、最も大切なのは、父子の関係を回復し維持していくことである。いかなる学問の発見より偉大なことである。しかし、肉身を支えるため地上では、すべての知性社会の中心の立場がとても大切なことをソクラテスが知らないであろうか。自らの父母に大切に仕えることは、いかなるものとも比べようのない、高貴なことであると肝に銘じなさい。この神の傍らで、何が必要というのか。「神は私の父母であり、私は神の子女です」というのは、血統の立場が最高位にあることを意味するのである。
知性人たちよ。肉身は地上で生活するときだけ必要であり、皆さんの持つ知識と学問もまた大体そういったものである。それゆえ、ここに入籍する来世の準備のためにも、内的な知識を備えなければならない。あまりに無知で何も知らないまま、自身の学問にだけ執着し、ある日突然に肉身と霊魂が分離すれば、その霊魂はどこに行くのか。これは深く考えてみるべき問題である。来世は間違い無く存在し、私たちの霊魂はここで永存するという事実を肝に銘じなさい。
したがって、備えなき霊魂はここではとどまる所がない。地上で道端の乞食を見たか。乞食は自分の居場所がないため、道端が自分の居場所である。皆さんの霊魂は、とどまる居場所を地上で備えなければならない。
ソクラテスの地上生活において、人間の外的な学問と知識も貴重だったが、それより人間の内的な良識と真理、いわゆる哲学を常に追求した。これを解明するため、どれほど多くの時間を投資したか分からない。地上で、刹那的な生活を送るためのものではなく、人間の内的真理を追求しているうち、知性人の立場に到達した。どうして永遠なる居場所に来るのに、苦労と努力の代価が不要であろうか。その苦労と努力と投資の結実として、ここで永遠なる幸福の立場にとどまるようになったのである。
ソクラテスが知性人にこのようにお願いするまで、幾度かのつらい峠を通過した。それは何か。ここも地上のように様々な姿で生きている。そして、地上のように多様な宗教と宗派がある。ところで、ここの知性人たちの集いで、人生の行くべき道という主題で原理講義を聞くことになった。ここでソクラテスは、新しい真理に触れたのだが、それは人間の根本なる生を悟らせる真理であった。この真理によって実に驚くほど変わっていく自身の姿に、自ら自尊心が大変傷ついたりもした。幾度も首を横に振って、この真理を否定したかった。それが真理でないことを願った。この途方もない原理が、どこから出たのか知って、幾度か心の葛藤が起きた。知性人としての威信と体面が根こそぎ吹っ飛んでしまうソクラテス自身が、とても恥ずかしくもあった。しかし、これは間違いない真理なので、どうするか。
そして、ソクラテスは自分のすべてを捨てた。知性も自尊心も皆捨てた。そして、この真理の前にすべてを投資するつもりで、地上の皆さんにメッセージを伝える。
知性人たちよ。皆さんの知性を総動員するとしても、神の知性と比較することができようか。天地万物を創造されるとき、何の考えも計画もなく万物がとんとんと生じたであろうか。皆さんの知性と能力をすべて売っても、神の能力と知性を買うことはできないであろう。科学がいくら発達したとしても、自然の道理を変えられるであろうか。科学の主人公はまさに神である。ソクラテスが発見した神の能力と神性は、それをすべて表現しきれない。それだけではない。今、レポートする女性は地上人であり、ソクラテスは霊人である。この事実についても知性人が理解するだろうか。この事実もまた神の能力である。時が来たから、天の秘密を地上人に告げて、神の子女たちを正しく導くためである。
神の心情を確認したので、この霊界ではすべてが簡単に解決される。方向も一様に同一である。しかし、地上人においては、すべてが大変複雑である。それは、正しく方向が設定されていないからである。
知性人たちよ。神は子女を正しく立てるために、様々な方法を動員して苦労しておられる。皆さんは、神を見たか。神は無形で、体のない方である。しかし、子女を探そうとする神の一念は、数千年が過ぎても変わることはなかった。そうして、神の御心に代わって、文鮮明先生を地上に遣わし、人間が歩んでいくべき方向を設定するために、私たち人類に統一原理を明らかにしてくださった。その原理は、人間の知性で書かれたものではなく、文鮮明先生が神と論議し、サタンと血闘を繰り広げて見いだした人間の救世書である。それを精読してみなさい。そこには人生のすべてが含まれている。それを精読してみなさい。そうすれば、皆さんの知性が皆さんの霊魂をどの程度呼び覚ましたか分析でき、皆さんがどのように生活すべきで、生活の方向をどこに定めるべきか悟れるであろう。
知性人たちよ。皆さんが考えた偉大な人物、偉人や尊敬の対象とは誰か。自問自答してみなさい。彼らの大部分は、地上生活に必要な内容を残した偉人たちであろう。しかし、皆さんの来世の生活にまで責任を負おうとする偉大なる師を、皆さんは、まだ探せなかったであろう。文鮮明先生は、私たちの来世の永存を悟らせてくださり、私たちの霊魂にまで責任を持とうとされる神の代わりの使命を持って、人類を永遠なる平和の道に導いておられる。
その方を研究してみなさい。そして、その方より偉大な師がいるのか、比較して探してみなさい。もし、地上に来られた偉大なる師として、この方より偉大な師がいないと思ったら、皆さんはどうするか。深刻な立場であり、深刻な時間であり、皆さんの人生に重大な決断を要する時間である。人生は長くはない。来世は明らかに存在する。これならば、真の師に会って来世を研究し、備えるのが賢明と考えないか。
皆さんの学問も知性も神に誇るものとはならない。謙虚な者のみが、神と共にとどまることができる。その方の偉大な真理を学び、皆さんのものとして消化して、永遠なるこの場に来るとき、無知な乞食の姿は免れねばならない。最高の知性人は、神に自身の父母様として仕える人であろう。そういう人のみが、最高の知性人という結論を結びたい。
ー2001.4.10ー
聖アウグスティヌスがキリスト教徒と他の宗教人に願うこと
アウグスティヌスは、神に仕えることにおいて、誰にも劣らない最高の立場に立ちたかった。しかし、こちらで知ってみると、真に恥ずかしくて愚かな立場になってしまった。アウグスティヌスは、神に父母の立場として仕えることができず、ただ最高の神として仕え、父子の関係など念頭にも置けなかった。私の信仰と思想は、神の前に極めて小さな価値として残っているのみである。
地上で熱心に信仰するキリスト教徒たち、そしてもろもろの宗教人たちよ! 四大聖人や聖賢たちのメッセージを読んで、多くの覚醒があらんことを願う。私たち聖賢と四大聖人たちの集いは、周期的に開かれる。この霊界で宗派の集いを開くのは、それを通じて様々な次元に分裂した宗教に神の思想を知らしめるためである。
地上人たちは、イエス様がキリスト教徒だけを訪ねると考えるが、そうではない。宗教の代表者たちは、教派を超越し、各宗教の教理と教えについて、各自の見解を交換する。ついには、すべての宗教は一つに統一されねばならないという結論に達する。各宗教をあまねく巡りながら、信徒たちと対話し、共に礼拝した後、互いに経験した事実を中心として、四大聖人と聖賢たちはセミナーを開く。その際、多様な主題が出されるが、私たちは互いに和気あいあいとした雰囲気の中で、それぞれの主題を論議する。
ここで実に興味深い出来事があった。イエス様がお釈迦様の説教を熱心に傾聴なさった後、その説教を仏教徒が集まった他の場所でそのまま伝えられた。このとき、仏教徒は「イエス様はキリスト教の教祖なのに、私たちの師の教えを伝えるのか?」と質問した。イエス様の返答がとてもおもしろかった。「私も釈迦仏になることができるかどうか試してみた」と言われたのである。このとき、ここに集まった霊人たちは共に笑った。イエス様は本当に何の欲も私心もなかった。ひたすら神の子女になることだけを願う純真無垢で謙遜なイエス様の態度に、仏教徒も感動したようである。
宗教人たちよ! 真理は永遠なものである。真理は一つだけである。それは、神がただお一人であり、神は真理の本体であるためである。神は人類の父母であり、私たち人類は神の子女たちである。このような状態で、数多くの宗派が存在する理由がどこにあろうか? 宗教ごとに真理の核心を要約してみなさい。究極的な終着地は一つの方向のみである。各宗派の長所を捨てよというわけではない。一つの共通目的の下に統一せよというのである。神は様々な子女たちを見て喜ばれるであろうが、彼らが争い合う姿を見れば、胸が痛いのではなかろうか? 子女たちが互いに和睦するとき、神の聖霊が共にある。
私たち四大聖人と聖賢たちは、セミナーで最終の結論を得た。「私たちは愛し合い一つになろう」と決意した。まず、天上の宗教の代表者たちが一つになるとき、ついには地上も一つになると信じている。宗教が一つに統一されないと、神の心も安らかでありえない。それゆえ、人類の平和は神の理念によって実現するのである。
宗教人たちよ! もろもろの聖賢たちと四大聖人のメッセージを肝に銘じるよう願う。皆さんにこうした黄金時代は、再び訪れないであろう。地上人に天上の秘密を伝え続けることができると思うのか? 神の特別な配慮によって下さったこの黄金期を、皆さんはしっかり迎えて、信仰の本質と根本を悟り、神の子女の立場に正しく立ちなさい。
アウグスティヌスの最後のお願いである。数多くのキリスト教徒と地上の宗教人たちよ! 地上で人類の平和のため、殉教者の道を歩み行かれる一人の師がおられる。その方は文鮮明先生である。その方を心より迎えなさい。四大聖人と聖賢たちは皆、その方のメシヤ思想を堅く信じて、その師の道を共に行くことを堅く決意した。ここでひたすら一つの方向を設定して、熱心に努力し、愛し、尊敬して、すべての宗派を超越しようと決意した。
そして、私たちは文鮮明先生の思想を教えている。これが人類平和の道であり、真理の道だからである。宗教人たちよ! 争うな。互いに一つに和合しなさい。一つになった所に神は共におられるであろう。
ー2001.4.10ー