(釈迦牟尼仏の霊界通信)金英順
神様の実在を教えられなかった
仏教徒の皆様、私は釈迦です。皆様は、「観世音菩薩」や「南無阿弥陀仏」という意味をよくご存じだと思います。
私は地上で肉身の快楽に浸って生きていた若い頃、宮廷の外の人々が飢えに苦しみ、病に悩む姿を知ることも理解することもできませんでした。しかし、歳月の流れと共に、生死禍福の主人が別に存在するという事実を悟るようになり、人間として生まれ死ぬまでの苦しみや解決できない多くの問題に悩み苦しむようになりました。その結果として「自我」を発見しましたが、その自我の背後にある実体に関しては、気にかかりながらも解明できませんでした。
大いなる神様が存在するからこそ、私が存在するという事実、存在界のすべての現象が神様によって創造されたという事実を、私は解明できませんでした。自己を発見し主管すればすべての問題が解決すると思っていましたが、大きな過ちは、神様の実存について弟子たちに正しく教えることができなかったことです。今日の仏教徒が神様を正しく求めることができず、知ることができないのは、私の教えに問題があったからです。
したがって、仏教徒の皆様、「自我の発見と自己の完成」は、神様を中心として行われなければなりません。それが「個体完成」というものです。神様を離れた個体完成はあり得ません。
仏教では、人間は完成し、よく生きていくことによって浄土、極楽へ行くと説かれていますが、その極楽の真実の意味は、神様のおられる天国のことです。ある日、神様が私を呼ばれ、「汝が深い境地で黙想し、すべての試練と誘惑に耐え抜いたとき、その力の源泉がどこにあったか知っているか?その力の根本は万有原力であり、その万有原力の主人が神である」と教えてくださいました。そして、「汝、弟子たちに神について教えてやれなかった不孝を肝に銘じるがよい」と語られました。また、仏教に入門する数多くの人々が念仏を唱えながら、「観世音菩薩」や「南無阿弥陀仏」を唱え、菩薩や仏、釈迦ばかりを求めて神様を求めていないと叱責されたのです。
仏教徒の皆様、この地球上の森羅万象はすべて神様の創造物であり、人類は神様の子女です。一つの天のもとに、数多くの人種や宗教や様々な次元の文化が、唯一の神様を中心として一つの宗教、一つの文化へと統一されなければなりません。これが神様の本来の願いであり、創造理想であり、目的です。
愛する仏教徒の皆様、我々は神様に仕え、同じ空気を吸って生きなければなりません。そのためには、皆様が今後、釈迦を求めるのではなく、神様を求めてくださるように願います。神様がおられる天国の世界で共に出会って生きるために、釈迦に代わって神様を皆様の主人として迎えてください。釈迦に拝するとき、「神様!」と呼び求めながら精誠を尽くしてください。釈迦は既に神様を父母として仕えているので、そこには釈迦は現れないはずです。
神様は愛であるがゆえに、このような釈迦を哀れんでご覧になり、仏教徒を救済するため、地上人との祝福(結婚)を許してくださり(崔元福女史と1998年6月13日ニューヨークMSGにて)、それを通して仏教徒を救う道を開いてくださいました。私は霊界に来て多くの新たな事実を悟り、神の命令を受け、文鮮明先生の指示に従って仏教徒を救う運動に最善を尽くしています。
仏教徒の皆様、釈迦は霊界に来て、真なる真理を発見し、その真理を仏教徒の皆様に伝えたいと思います。そのため、統一教会の文鮮明先生の思想について学んでください。ここでは、神様がおられる天国の世界に共に集って生きるのが最上の人生です。そこがすなわち最上の極楽世界です。ですから、仏教徒の皆様は、神様を中心として生きていくように努力しなければなりません。皆様の人生の方向を転換しなければなりません。皆様が方向転換するように、釈迦は霊界からメッセージを伝えていこうと思います。ぜひとも、この点を肝に銘じて研究してくださることを願います。
(2000年10月23日)
注釈
(一)仏教では自我の執着から離れるために無我を強調し、また、 悟りの現地であらわれる真実の我、大我を説いている。
(二)極楽とは阿弥陀経で説かれる阿弥陀仏の西方極楽浄土であり、仏教では、薬師如来の東方浄瑠璃世界や、毘磁舎那仏 の蓮華蔵世界(華厳経)、久遠本仏の震山浄土(法華経)、 大日如来の密厳浄土なども説かれている。
仏教徒の留まっている所
地上における肉身の生活の後、霊界に来るようになると、その人自身がどのように生きてきたかによって、霊界での行き先がそれぞれに異なってくる。地上で生活していた時には、金持ちや権力者は自分の思いどおりに大きくて立派な家に住んだり、時には別の所に引っ越して暮らしたりもする。つまり、地上生活においては、お金や権力や名声さえあれば、ほとんど自分の思いどおりになる。
ところが、命を失うと、自分の権限がなくなる。その人の霊魂が地上にあるときの生き方によって、霊界の行き先が決定される。地上での金持ちは、多くの人々が集まった中で盛大で豪華な葬式(昇華式)を行い、広い土地に立派な墓を建てるとしても、ここでは誰も待つ人のない孤独な場所となることもある。また、地上において寂しくみすぼらしい昇華式をしたとしても、ここでは多くの霊人たちが集う盛大な歓迎式が行われることもある。自分よりも他人のために犠牲と奉仕の生活をしたならば、その人は真に貴い場所にとどまるようになるのです。
ここで、仏教徒の皆さんに切に伝えたいことがあります。今、明らかにしているのは、大部分の人に共通する事実ですが、仏教徒が特に心に深く刻むべき内容は、どれほど人のために奉仕する生涯を生きたとしても、人間を創造された神様に仕えることができなければ、死後、極楽世界(天国)に行くことができず、永生の福楽(永遠の幸福)を得ることができないという点です。
永生の福楽の世界は、釈迦とは無関係です。私は地上にいるとき、永遠にとどまる場所を発見しましたが、神様が我々の父母であることを悟ることができませんでした。そのため、神様の前に途方もない親不孝をしてしまったのです。
今、こちらで仏教徒のとどまっている場所は楽園世界の最下層であり、私は多くの仏教徒に誤った教えを説くことによって、仏教徒の霊魂をそこに定着させてしまったという心の痛みと罪の意識を大いに感じています。神様、そして仏教徒たちに申し訳ない限りです。仏教徒たちも、みな神様の愛しい子女であるにもかかわらず、この釈迦の教えが誤っていたために、数多くの霊魂がそこにとどまりながら、極楽世界(天国)を望んでいるのです。私はこの事実に対し、無限なる切なさと申し訳なさを感じています。
仏教徒の皆さん、この釈迦は、神様の子女を誤って養育したことに対し、心から申し訳なく思っています。特に、地上で毎年四月八日の釈迦の生誕を祝うときには、私はどこかに消えてしまいたい思いです。仏教徒の皆さんが新たな方法を選んでくれることを切に願っています。こちらの仏教徒が待ちこがれる極楽世界、すなわち、神様のおられる天国の世界へ行くためには、まず地上にいる仏教徒たちの生き方が変わらなければなりません。どうすればよいのか?教団の門を大きく開き、すべての教派の障壁をなくしてしまわなければならないのです。
人間はみな神様の子女であり、この宇宙に存在するすべては、神様が子女のために創造されたものです。したがって、天と地、すべての万物は、神様の愛の主管圏のもとに一つの理念で結ばれたものであり、すべての人類は一つの血統で結ばれた神様の子女たちです。
ところが、人間始祖の過ちによって、人種や分派や国境が生じ、言語が異なるようになってしまいました。人間は、仏教やキリスト教や儒教といった、様々な宗教と分派の壁を超越し、神様の思想によって一つとなり、全人類が一つの言語、一つの文化圏を築いて、神様を父母として仕えながら生きるようになっていた。そして地上生活を終えた後、ここ天国で神様に仕えて生きるようになっていた。それが神様の本来の御意です。
しかし、今、仏教徒たちは神様のおられない遠くかけ離れたところに生きている。神様がご自身の子女たちを恋しがり、会いたがっているということを考えてみてほしい。このようにして、釈迦は神様の前に合わせる顔のない親不孝者となってしまったのです。
仏教徒の皆さん、愛する仏教徒の皆さん、人類はみな一つの兄弟姉妹です。このような大真理を悟って、全人類の平和と幸福のために一つの理念をもって「神の国」建設のために生涯を捧げてきた一人の師がいます。その方が文鮮明先生です。先生は「神の国」建設のために、血と汗のにじむ生涯を送ってこられました。そして、全人類を神様の血統に結びつけるために、世界の様々な種を合わせて祝福(結婚)を授けておられるのです。
仏教徒の皆さん、皆さんの近くにある統一教会を訪れて、統一教会の信徒に会ってみてください。そして、彼らの理念を聞いてみてください。世界中のいかなる指導者にもできない、とてつもない摂理を解いていかれる方が、まさしく文鮮明先生です。各国の統一家の家庭をよく見てみてください。彼らは文鮮明先生の教えに従って、南で、北で、西で、東で、忙しく行動しています。それは何ゆえであろうか?彼らは、先生の教えこそ生きた神様のみ旨であると信じているからです。どこの国の指導者が、生涯の伴侶を写真一枚で決めることができようか。彼らは文鮮明先生を信じているからこそ、自らの生涯を信じて委ねるのです。文先生は生きておられる神様であり、全人類の父であられます。
したがって、我が仏教徒は自らの理念と思想に執着することなく、固執な仏教観から脱皮すべきです。皆さんは、文先生のすべてを受け入れようと決断し、人生観のパターンを変えるべきです。そのとき、仏教徒は極楽世界(天国)に行けます。この霊界では、今多くの人々が統一教会の真理と理念を学びながら生活しています。
愛する仏教徒の皆さん、釈迦の生涯をご存じのことと思います。釈迦の地上での生涯の終わりは涅槃の境地であったものの、神様が人類の父母であるという真理を悟ることができませんでした。私、釈迦がここから皆さんに切にお願いしたいことは、今や、釈迦を崇めるのは過ちであることです。神様に仕えてこそ極楽世界(天国)に行くことができるのです。今まで釈迦の教えを信じて従ってきたのだから、釈迦の最後の頼みをもう一度聞いてほしい。真の師が地上にいらっしゃるという事実を!地上にいる全ての仏教徒に必ずや伝えたい!皆さんは真の師に従うべきである。その真の師は、ほかでもない文鮮明先生である。その方の御旨に従いさえすれば、皆さんは真の真理を知るであろう。これが釈迦の切実な願いである。
(2000年10月24日)
注釈(三)
涅槃とは煩悩の火を消し去って得られる安らぎ、平安の状態。
宇宙の主人は神様しかいない
人がこの世に生まれて生老病死の道を行くのは平凡な原理であるが、この釈迦は、その平凡な人生自体が平凡なことのように思えなかった。通り過ぎる多くの人の歩みも、平凡なものと感じられなかった。乞食の歩み、金持ちの歩み、作男の歩み、官吏や大臣の歩みが、すべて変に感じられた。なぜ人はこの世に生まれるのか、そして、人の生き方はどうしてそれぞれに異なるのか? なぜ貧しい人、病に呻く人がいるのか……。なぜこのように、すべての人間は苦悩の中で生きていかなければならないのか? 人間の生の目的は何であり、その終着点がどこなのか……。私は様々なことが気にかかった。
私は若いとき空腹というものを知らなかった。そして、病に苦しむ者の苦痛を体験したこともなかった。そのため、敢えてそのようなことを体験してみようと努めてみた。当時、釈迦はつまらぬふしだらな考えの持ち主だと、一般の人たちから少なからず指弾を受けた。しかし、生老病死がすべての人間に許されたものであるならば、なぜその平凡なことが、これほどまでに私の胸を締めつけるのか、ますます気にかかるようになった。そのような苦痛と葛藤の中で生活しながら、釈迦は一族の家長として受け継ぐべき王冠を捨てて、出家してしまった。
その日から、私の歩んだ苦行はとても言葉には表せない。この世に生まれて、新しい真理に触れるためには、たらふく食べていては悟りが開けなかった。なぜ人間はこのように生きなければならないのか、気が気でなかった。私は毎日毎日胸が締めつけられるような思いだった。その度に私は自らを包む大きな実体があることに気づき、その実体から得体の知れない力を受けた。私はその力の原因者があるように思えて、その原因者を探し求めようとしたが、結局それを見いだすことはできなかった。
私の選んだ苦行の道は、あまりにも単純なものであった。大宇宙の原因者について考えることができず、唯一、生老病死を経る人間の姿ばかりを思索していた。それは人間に関する、極めて限られた思索であった。このように、私は生涯をただ一筋に生きてはきたが、結局のところ生老病死に関する完全な解答も得られぬまま、生涯を終えた。いくら四方を探求してみても、巨大な宇宙の根本主人に会うことができなかったのである。
ある日、神様が貴い使者を私に遣わせて、宿題を出された。それは「汝は富裕栄華をすべて捨てて、一生、犠牲と苦行の道を歩んできたにもかかわらず、どうして今、直接神様に対せない所にいるのか」というものだった。私はとてつもない神様の愛に感動し、ただおそれ多く、感謝するばかりであった。そして、私は何日もその使者が来るのを待ちながら、神様を礼拝していた。すると、忽然とその使者が現れ、「お呼びでしたか」と言いながら、神様の宿題に対する答えを要求してきた。そのとき私は、「神様!私はあなたのことが分かりませんでした。宇宙の根本主人が神様であることを悟れず、人間はみな自ら仏陀になれるとばかり思っていました。宇宙の根本主人がおられるということを説くことができなかったのです」と回答した。すると、たちまちその使者は姿を消してしまった。
その後、私の心は限りなく締めつけられた。「どうしようか……」と気をもみながら数日過ごしていると、また、その使者がきらびやかな光彩を発しながら、私の前に現れ、彼は「お釈迦様、神様のいらっしゃる所は、このように美しくうっとりするような光彩で飾られています。ところが、ここには光彩というようなものがありません。神様は、「お釈迦様の根本的な悟りには、まだ足りないところがある」とおっしゃいました。神様の教えを悟りたいならば、まず神様を礼拝してください。そうして、もうしばらく待っていてください」。このように言いながら、その使者は消えた。その後何度か、神様の使者が往来する中で、私は様々な新しい事実を悟った。我々人間は、神様のぬくもりの中で生きている一つの分身であるということを……。
ところが、私は大宇宙の大いなる方、神様を知ることなく、自分が神様であるかのように生きていた。これがどういう意味か理解できるだろうか。私はこれに関して容易に表現することができない。しかし、明らかな事実は、釈迦は取るに足らないものであるという点である。ひとえに神様は大いなる愛の存在であり、大宇宙の主人は神様しかいないという点である。
神様は人間を創造して以来、人間を愛し慈しみながら、幸福と平和に満ちたところへ導こうと努めてこられたが、我々人間が誤って生きてきたのである。それが人類の悲しみであり、神様の恨みなのである。人類歴史の出発が誤っていたのだ。それゆえ、誤った歴史の出発を正し、人類を幸福の道へと導くために、神様は地上に文鮮明先生を送り、新しい真理を解明させたのである。釈迦は遅ればせながらも、このような新しい真理を悟って統一原理を学んだ。
仏教徒の皆さん! 文鮮明先生の道に従って、釈迦の教えが足らなかったことを悟り、努力しなければならない。新しい真理を得るためには、努力しなければならない。念仏ばかり唱えて、釈迦の教えに頼ってばかりいたのでは、極楽世界(天国)はいっそう仏教徒たちから遠ざかるであろう。捨てるべきものは果敢に捨てて、新しい真理を求めなければならないのである。
宇宙の主人は神様お一人である。仏教徒たちの主人は釈迦ではない。そして、神様の教えと神様の肉体をまとって、人類の真の解放と平和の思想を先導しておられる方が地上におられる。その方がまさしく文鮮明先生である。この事実は、現在、仏教徒たちが最も肝に命じるべき部分である。
(2000年10月25日)
注釈
(四)釈尊は、釈迦族の王国、カビラ城郊外のルンピニー園に王子として誕生した。
(五)インドの難行苦行は非常に厳しいもので、断食を重ね、同死にも直面するほどで六年にも及ぶ。しかし、この苦行も真に平安の現地に至ることができず、その後川で沐浴して身を浄め、菩提樹下の禅定に入ったのである。
(六)釈尊は、悟りを開いた後に、恭敬し、敬い尊ぷ存在を求めたが、見いだすことができなかったため、悟った法をこそ敬い尊ぼうという結論に至っている。(相応部経典)
(七)大乗経典の涅槃経に「一切衆生、悉有仏性」(すべての衆生に仏となる本性がある)という経文があることはよく知られている。仏性を有するが故に、修行すれば成仏できると説かれてきた。
地上生活によって霊界の位置が決まる
人間がこの世に生まれて正しい真理を悟り、その真理に従って生きたのちに、肉体を脱ぎ捨てることができるなら、それはとても恵まれたことであると思う。王室を捨て、華やかな家門を捨てて、一生涯一つの真理を探求するために、多くの苦労をして生きた釈迦の生涯は、限りなく悲しく哀れなものであった。しかし、仏教の真理がすべて誤っているわけではない。
私はその真理に従って生きたことで、貪欲もねたみもなくなった。私は俗世において、水が流れ風が吹くままに、欲を抱かずに生きていく力を得た。しかし、宇宙の根本と人間の主人に関しては解明することができず、人間の生の始まりと終わり、その目的さえも知ることができなかった。人類の歴史が誤って流れ、復帰摂理の経綸を行う神様のみ旨を知らないままに、苦行の生涯を送ったのである。ここ霊界に来て釈迦の生涯を振り返ると、この上なくわびしい限りである。過ぎ去った歳月を取り戻すこともできないゆえに、なおさら情けない。
聖アウグスティヌスは、神様に十分に仕えたと自負して生きてきたが、再臨時代とあまりにもかけ離れていたために、霊界に来てから身もだえして号泣することになってしまった。釈迦の生涯も、彼の生涯と大した差はない。私が真理を悟るために、あんなにも苦行の道を歩み、王室の家門を捨てたとき、家族の痛みはいかばかりであっただろう。過ぎし日の釈迦の一生は、神様の前に道を誤った子どものようであり、申し訳なさでいっぱいである。
私が苦行の道で、なぜ神様に会うことができなかったのかと胸痛む感覚は、アウグスティヌスよりもはるかに深く大きい。アウグスティヌスの身もだえは、自分自身のものであるが、私の場合は、教団の責任者としての身もだえである。それは決して尋常ではない事件である。私は修道する僧たちの苦行をあまりにもよく知っている。一人の人間が高僧の位置に上るまでの苦難と痛みを、釈迦は知っている。彼らの修行過程を見守るとき、その釈迦の教えが間違っていたとすれば、釈迦はどうすればよいのであろうか?
人間の欲望は、生理的に妻を得たいと思い、子供を生み育てたいと思い、富裕栄華を享受して、よく食べて安楽に生きたいと望むものである。人間のそんな欲望をすべて捨てろという、釈迦の教えに従ってきた仏教徒のことを思えば、私は枕するところもない。仏教徒の規範を考えれば、平凡な考えをもってしては、僧侶(高僧)になることはできない。厳しく困難な修練を経て、俗世のすべての欲望を捨てて、あらゆる困難に耐え抜かなければならない。一人の僧侶の立場に立つまでは、幾多の修行の道を歩まなければならないのである。
それにもかかわらず、釈迦は彼らに修行の根本を説くことができなかったのである。今になってようやく、ここ霊界で大宇宙の根本主人である神様を発見した釈迦の心情が、いかなるものであるか深く考えてみてほしい。仏陀という立場に立つまでに歩んだ修行の痛みよりも、なおさら大きいと言ったならば、いったい誰が信じてくれるだろうか。
仏教徒の皆さん、釈迦の痛みが分かるであろうか?過ぎし日の釈迦の教えは、部分的、任意的、相対的な真理であった。今後は数多くの仏教徒たちに、釈迦が新しい教えを再び伝えようと思う。私が仏陀としての苦行と修行を通じて、最高の立場で見いだした真理とは何か?それは、人は罪を犯すことなく正しく生きて、涅槃へ、そして浄土、極楽へ行くべきである、というものであった。ところが、罪(の根本)が何かということを知らず、また、極楽(天国)とは何かということを根本的に知らず、宇宙の主人が誰かということを知らなかった。「我」自体はどこから来たのか、その根本が分からなかった。今後、釈迦はこのような根本的な問題を、「統一原理」を通して正しく教えようと思う。
「統一原理」とは、統一教会の文鮮明先生が明らかにした最高の真理である。私はこの真理を通して、罪の根本や、人間の生の方向と目的、神様の復帰摂理の経綸が行われているという事実を知った。この事実を悟って、明らかに説けるようになった釈迦の喜びは、どのように表現したらよいか分からない。「復活論」とは何か、仏教徒たちは知らないであろう。「統一原理」の中には「復活論」という内容がある。そこには、天の前に罪を犯して死ねば地獄へ行き、善良に生きたのちに死ねば天国に行く、という教えが明らかにされている。
仏教徒の皆さん!今の立場でそのまま生きるならば、すなわち、いまだに「輪廻」という妄想の中で生きるならば、極楽世界(天国)は永遠に皆さんから遠ざかるであろう。人間は死んでも、人間の姿として残る。地上で獣のように生きれば地獄に行き、地上で神様に仕えて善に生きれば、極楽世界(天国)に行って永遠に幸福に生きていく。神様は人間を創造されたが、罪を犯したからといって、人間を豚や犬にするような方ではない。ただ、人間の心情基準を、低級な豚や犬や牛で表現することはできても、人間が獣そのものに生まれ変わるということはないのである。
仏教徒の皆さん!この哀れな釈迦の不完全な教えを許してほしい。ここにおいて正しい教えを伝えることのできる、せめてもの(霊交通信)の機会を下さったことを、神様の前に心から感謝申し上げる。仏教徒の皆さん!皆さんも神様の子女である。神様は我々すべての人間の父母であられる。ゆえに、仏教徒の皆さんも神様に仕えて侍らなければならない。これが釈迦の最後の願いである。
注釈
(八)輪廻は、サンスクリットのサンサーラ(samsara)の漢訳で、原意は流れること、すなわち流転、転位であり、生ある者が車輪の巡るように生死を繰り返すことを意味している。
まず神様を研究して礼拝せよ
人間がこの世に生まれて、「いかに生きるべきか」という問題も重要であるが、「死んでからどこへ行くのか」という問題のほうがもっと重要である。我々人間はそのために誕生したのである。この世に生を受けるということは、どれほど大切で喜ばしいことであろうか!しかし、仏教徒たちは、この世で過ちを犯せば獣として生まれ変わり、犬や豚のように生きるようになるという恐ろしさに苛まれながら生きている。それが仏教徒の輪廻に基づく人生観であった。
仏教で言う極楽や、キリスト教が待ち望む天国は一様に美しく、永遠の幸福に満ち、完成した人間が生きていく所である。ところが、仏教徒は人間が生まれながらに原罪をもって無念な立場で生まれたという事実を知らずにいる。そして、その原罪が何であるかも、もちろん知らずにいる。仏教徒たちの考え方には原罪意識がない。仏教の長い歴史の中で、辛い修行の道を歩んだ仏教徒は数えきれないほど多いが、この事実を全く悟ることができなかった。
仏教徒に限らず、プロテスタントやカトリックにおいても、修道の道は大変厳しく辛いものである。カトリックの修道女や神父も同じ修行者である。しかし、私は、仏教の修行のほうが厳しく、孤独で険しい峠が多いと言いたい。真理一つを求めるまで、骨を削るような痛みを耐え抜いた比丘僧(出家して定められた戒を受け、正式な僧となった男子)が、どれほど多くいたことであろう!私は彼らの前で何と言うべきか、とても戸惑っている。彼らの前に犯した罪をいかにして償ったらよいか、釈迦自身が思い煩っている。このメッセージを伝える私は、罪人の姿から自由になることができない。文鮮明先生のとてつもない祝福が下されたときも、私は少しもうれしくなかった。その理由は実に簡単だ。多くの比丘僧たちが列を成して待っているのに、どうして罪人である釈迦が、そんなにとてつもない栄光を受けることができようか。また、私は文鮮明先生に「真の父母」として仕える資格がいまだにないので、その方を「先生」と呼ぶしかない。
極楽世界(天国)とは何か?神様に仕えながら真の真理を得て、完成した人間の姿となり、目を見ただけでも互いの思いが通じるような、美しい夢のような園で生きることである。しかし、この私がどうしてそのような所で平安を享受し、永生福楽の夢を願うことができようか。
愛する仏教徒の皆さん!浄土、極楽世界に行くために、今日も明日も、膝がすりきれるほど仏様を礼拝して供養する仏教徒の皆さん!申し訳ない。本当に申し訳ない。数多くの比丘僧の生は誤っていた。真に空であった。人間は家庭を築き、子女を生んで神様に捧げ、子女や孫や妻とともに喜び合って生きなければならない。これが神様の願いであった。極楽世界(天国)は家族が共に行く所であり、人が一人でいることは神様も好まないとおっしゃった。仏教徒の皆さん!愛する仏教徒の皆さん!あなたがたは生きる方向を転換すべきだ。浄土、極楽世界を願って善良に生きようと努力した皆さんの苦労は、決して無駄にはなっていない。その基台の上で神様に仕えれば、万事が解決するであろう。そして、皆さんは自己の省察のために熱心に努力してきた。他人のものを貪ることも、恵まれない人を軽視することもなく生きようと努力してきた。それに関しては神様がご存じであり、厚く待遇してくださるであろう。しかし、最も根本となる真理は、大宇宙の主人は釈迦ではなく、主なる神であるという事実である。これを軽視するならば、極楽世界(天国)は皆さんとは関連のないものとなるであろう。
神様がおられる所が正に天国であり、極楽世界である。仏教徒の皆さん!釈迦の教えは一時代の人間に、善良に生きることを教える真理ではあったが、永遠なる世界で生きていく真理ではなかったことを、この紙面を通して明言しておく。このことを仏教徒の皆さんははっきりと悟り、心に銘記して、釈迦の部分的な教えを真の真理全体であるかのように受け入れないでほしい。「目に見えぬ神様をどのように信じよと言うのか」と、皆さんは反問するかもしれないが、釈迦ははっきりとその事実を悟った。釈迦の生涯と業績を通じて、皆さんが私を信じて従っているのならば、宇宙の大自然の法則に一度目を向けてみるがよい。釈迦は、自然の法則に対して反論を提起しない。修行をしながら、冬があまりに寒くて来なければいいと願っても、宇宙の法則には値引きというものがない。いくら春や秋が良いと言っても、皆さんの願う通りに、そのような環境は続かない。このように大宇宙には、奥妙な真理が規則的に運行しているのである。
このように運行している宇宙の主人公が、確かに存在する。釈迦には何の力もない。神様は人間を愛するがゆえに、四季折々の美しい自然をつくりだされた。このように人間を愛する神様がおられる所が、正しく極楽世界(天国)なのである。
仏教徒の皆さん、神様がどのような方であるか研究してみるがよい。まず、神様を礼拝し、神様について深く研究すべきである。仏陀の前で、神様を呼び求めて礼拝するならば、神様が皆さんの前途を切り開いてくださり、皆さんに永遠の極楽世界(天国)を約束してくださるであろう。
「統一原理」を探求し神様に仕えて欲しい
天地万物の調和の中で、どれ一つとして神様の御手が及ばなかったものはなく、どれ一つとして人間の力でつくられたものはない。ところが、人間はこの世に生まれて死ぬまで、すべてが自分の力でなされたかのように錯覚し、驕慢に生きている。
あらゆる富貴栄華を享受しつつ、何の困難もなく生きていた釈迦は、宮廷の中ですべてが解決できると思っていた。しかし、宮廷の外の生活を目にしたその日から、釈迦の心を鎮めることのできる者は一人としていなかった。釈迦の心の病はあまりにも深く、どんな薬も、名医による治療も効き目がなかった。ところが、釈迦の心を鎮める唯一の力の存在があった。その力が釈迦を引き付けた。それはいかなる力とも比較にならない、途方もない力だった。闇夜も、暗雲も、暴雨も、猛獣の声も、身を裂くような大雪や寒波も……そのいかなるものも、私の心を引き付けたその力には及ばなかった。それは何であろうか?その力はどこから来るのであろうか?途方もない苦悩の中で釈迦が見いだしたものを、私は「自我の根源的な力」と考えた。そして、このような強力な力によって、すべてのことから解脱するならば、仏陀の立場に立つことができると考えた。
ところが、人間は弱いために仏陀の立場に立つことができず、様々な修行の過程を踏みはじめたのである。僧侶はその過程で、落伍者になるまいと、一生の間、何度も心に誓いながら、自分の身を投げてみたり踏んでみたり、熱い湯や厳冬雪寒の冷水を克服できるか試したりしながら、自らを鍛錬してきたのである。それが高僧の生涯であった。
ここで釈迦は途方もない過ちを犯した。釈迦自身を主管している、とてつもない力の根源者を悟ることができなかったのである。しかし、「統一原理」の創造原理を通して、万有原力がすべての存在の根本的な力であるという事実を悟ることができた。そのとき、私は喜びのあまりどうすることもできなかった。聖アウグスティヌスのように、釈迦も時代的な恩恵にあずかることはできなかった。しかし、この釈迦にも、その時代に合った神様の力が存在していたことを、今になってようやく悟ったのである。このような事実が、釈迦をあまりにも悲惨にさせたのである。妻のもとを去り、父母兄弟の苦痛をも後にした痛みが、なお一層ひしひしと感じられる。今日の釈迦の教えが、根本的に間違っていたということを思えば、立つ瀬がなくなるのは当然の理である。
宇宙の森羅万象はすべて、神様によって成り立っている。私は、すべては自ら成仏すると考えていたが、これは途方もない誤謬であった。人間をはじめとした森羅万象のすべての存在世界は、どれ一つとして神様の手が及んでいないものはない。この事実を悟るとき、釈迦の真理はあまりにも驕慢なものであり、致命的な誤謬を犯していたということになる。
天地の中で、人間の手によって創造されたものがあるだろうか。すべての創造は、神様の力によってなされたのである。科学発展の原動力、文化文明発展の原動力も、神様の力によってなされるのであって、人間の単独的な力によってなされることはない。
四季の調和を見るがよい。誰かが待ち望んでのことだろうか、誰かが招待してのことであろうか。人間の力が及ばずとも、自ずから運行しているではないか。無常に生きていく微弱な人間は、この事実を現実的に体験しながらも、神様を知らずに生きてきたのである。この事実一つを見ても、神様の実在の問題は、はっきりと証明される。
自分の意のままにこの世に生まれて死ぬことのできる、偉人や聖者がいるであろうか?いるとするならば、名乗り出るがよい。誰も及ばない途方もない力の根源者、その方が正に唯一なる神様である。釈迦は唯一無二なる神様を発見することができず、悟ることもできなかった。なんとしたことか。地上生活を通して、真の真理の道を釈迦は誤って紹介してしまった。仏教徒たちは、この釈迦を公開処刑するだろうか?皆さんを誤って導いた釈迦の教えに関して、心から許しを乞うものである。極めて小さな釈迦の教えを、厚く待遇してくれるとするならば、それほど有り難いことはない。そして、時代的な現境によって、そのように生きるしかなかった釈迦を許してほしい。
これからは一日も早く、地上において、「統一原理」を探求することに全力を尽くし、神様に仕えることに最善を尽くしてほしい。
(2000年11月2日)
注釈
(九)法華経の「自我偶」に、「如来秘密神通力」という経文が記されてはいるが、心情を動機として天地を創造された神は説かれていない。
神様の能力と天地の調和
古今東西を問わず、生きていくにあたり、自然の力に依存しない者は一人もいないであろう。今日、科学が発達して、季節を問わずに果物や野菜を食べることができる。しかしながら、その科学発展の原動力は、天地万物を主管しておられる神様である。
私はある日、修行の途中で石につまずいて転んだとき、ふと思ったことがある。小さな石ころにつまずいて転ぶ自分のみじめな姿を見て、釈迦は小さな石ころの力にもかなわないということを悟った。自らは本当に微力な存在であるということを考えさせられた。
神様は天地万物をつくるとき、そのような力を我々人間だけに与えたのではなく、被造世界のすべてに賦与された。そのように考えれば、天地調和のどれ一つとして、神様の力が及んでいないものはないという結論に達する。このような被造世界の万物は、神様から与えられた価値基準をもって、自らの位置で互いに調和しながら成長している。
人間は自らの考えによって、自らの価値基準を変えることもあるが、万物はどれ一つとして偽りなく、真実に自らの使命を全うしながら調和している。人間は時代の流れや環境によって、自己中心的な姿に変わるが、自然を見てみるがよい。誰に命令されるまでもなく、常に自らの立場を守って、神様が下さった本来の使命を全うしている。自然は神様によって創造されたその日から、変わらぬ姿で自らの使命を遂行することに最善を尽くしているのである。
ここで我々は、神様がいないと否定することができるだろうか?我々は、天地の調和と自然の道理を見ながら、神様の存在を見いださなければならない。釈迦は苦行の道でさまよいにさまよったが、そのような神様の実存を解明することができなかった。したがって、多くの仏教徒たちは、釈迦が歩んできた部分的な解脱の境地が、神様に結びつくものと考えてはならない。釈迦の教えがすべて間違っているというわけではない。ただ釈迦の教えが、(真理の)極めて小さな一部分にすぎないということである。釈迦はここ霊界において、いかなるものとも比較できない、神様のとてつもない真理を悟った。釈迦は人間である。皆さんは、人間の俗世を離れ、煩悩の道において、釈迦を通して得た小さな悟りを参考にしつつも、大自然の主人たる神様を探し求めていかなければならない。
神様は永遠不変なるお方であり、全知全能なる方である。釈迦は神様のことを具体的に説明することができない。森羅万象の存在様相とその調和を見つめて、神様を見いだしてほしい。極めて小さな微々たる物でさえも、神様の能力によって、互いに秩序の軌道に沿って運行しているではないか。とてつもない自然の道理に対抗して、勝てる者がいるであろうか?一人としていないであろう。それは、大宇宙のすべては唯一無二なる神様の能力によって存在し、成長しているからである。仏教徒の皆さん、釈迦の遅ればせながらの教えではあるが、これを通じて皆さんは、神様の能力によって成仏しなければならない。これが釈迦の切実な願いである。
釈迦の悟りは不十分であった
神様の被造物は様々な次元で存在する。鉱物世界、植物世界、下等動物から高等動物に至るまで、無数の存在物がある。このような無数の存在物は、同一のものが一つもなく、それぞれが対をなして存在している。一人の母親の腹から生まれた双子でさえも、全く同じということはない。必ずどこか異なったところがある。
このように神様の創造物は無数に多いが、その中の一つの個体である「私」を取って考えてみると、「私」は神様が創造した唯一無二の個体ということになる。そして、すべての被造物の中で最も貴重な存在である人間としてつくられたのが、「私」という姿である。そのような存在である「私」は、神様にどのように報いたらよいのであろうか。人間はただ単につくられたがゆえに、生まれてから死ぬまで生きていくだけだという従来の考え方や生き方では、決して神様から受けた恩に報いる人生にはならない。
釈迦はまずこの世に生まれたことに対して感謝した。そして、微々たる下等植物や獣でなく、人間として生まれた事実に対して限りなく感謝した。そして「私」を探し求め、発見してみたいと思った。その結果として、自我を発見したのである。ところが、今考えてみると、その発見とは、極めて部分的な悟りであった。人間という被造物は、いくら創造主である神様を知ろうとしても、全体的に理解するということは不可能である。人間の知性には、神様を理解することにおいて限界がある。神様は、人間の認識の対象にも、研究の対象にもなり得ないからである。
我々人間は、「私」という存在の価値を正しく悟り、短い人生の道において、正しい方向を見いださなければならない。仏教徒の皆さんが人生の根本を正しく見いだすことを、釈迦は願っている。数多くの仏教徒の生涯を、釈迦はよく把握している。正しく善良に生きて、浄土、極楽世界へ行くべきであろう。また釈迦は、輪廻転生して真の人間の姿に生まれ変わろうという、皆さんの修行過程とその目的を知っている。
人間からよく訓練された忠犬は、たとえ四つ足の獣であるとしても、主人から受けた恩を知って、主人の前に命を捧げる場合があるということも見るではないか。人間の姿をしていながら、このような犬にも劣る生き方をして良いだろうか。
仏教徒の皆さんは、人生の価値と本質を心得なければならない。「善」とは何であり、「悪」とは何であるかを知らなければならない。多くの被造物の中で、なぜ人間は特別な存在として生まれたのだろうか?その本質を求めるならば、皆さんの生き方が正しく方向づけられるであろう。自然万物は季節ごとに移り変わりながら、美しい色の調和を装飾して、互いに喜びを与え合って享受している。では、このようなすべての変化は、誰によって、そして誰のために起きているのだろうか?
仏教徒の皆さん、焦ることなかれ。すべての存在世界は、神様が我々人間に下さった贈り物であった。存在世界の姿はすべて、人間を喜ばせるための最上の傑作品である。神様は人間にそのような傑作品を下さったのである。
神様とは誰であろうか?春が来れば神様は、人間に美しい新芽を見せ、夏が来れば神様は、人間に瑞々しい万物を感じさせ、秋が来れば神様は、あらゆる穀物を実らせて人間に収穫させ、冬が来れば神様は、静かな雪景色の中で人間に人生を瞑想させる。
川、野原、海、草原も、人間に喜びを与える空間として創造されたのである。そして、何よりも重要な点は、神様は人間を全被造世界の主管者として創造なさったということである。しかし、神様はどうして人間をそのように創造したのであろうか。
釈迦は悟りの境地が不十分であった。皆さんには釈迦のような苦行の道、行者の道は必要ない。それは、皆さんが良い時代に生まれたからである。もはや、山道、野道、曲がりくねった険しい峠などを越えなくてもよいのである。お金さえあれば、世界中を気楽に見物できる時代になったのである。このように、意志さえあれば、すべてを成せる時代が到来したのである。今は仏陀の時代ではなく、成約時代である。成約時代とは、神様のみ旨が成就する時代である。「統一原理」の「創造原理」を詳細に精読してみてほしい。そこには善悪の問題が正しく解明されており、人間が神様の子女であることが解明されている。
仏教徒の皆さん、皆さんは本来、神様の子女として生まれたのである。したがって、「私」という一人の個体は、ただ単に生まれては消え去る存在では決してない。皆さんが考えてきたような、「人間は誤った生き方をすれば動物の姿に生まれ変わる」と認識する時代は、既に遠く過ぎ去った。
堂々たる神様の子女として、神様を真の父母として仕えて生きるべき時代が到来した。真の子女は父母の心情を察して、父母の望む姿で生きなければならない。それが子女の道理を果たすべき第一の徳である。諸々の仏教徒の皆さん、あなたがたは自らが神様の子女であることを、深く悟って、肝に銘じるべきである。そうして、「私」という個体の完成が、父子が出会う立場で実現するということを、しっかりと永遠に銘記してほしい。
(2000年11月24日)
天上天下唯我独尊の真の意味
神様は天地万物を創造する際、すべての被造物を相対的に創造なさいました。それゆえ、相対的に創造された万物は、授受作用によって繁殖します。このような事実は、「統一原理」の「創造原理」に詳細に記録されています。
人間を初めとしたすべての万物は、相対性原理により、互いに授け受ける力の作用によって繁殖するようになっています。人間の繁殖も同様であり、人間の生理構造も相手を必要とするように創造されています。これは、アダムを創造なさった後、人が一人でいるのは良くないとしてエバを創造なさったという、聖書の記録を見ても分かります。
天上天下唯我独尊の存在物である「私」という個体は、いかに生きるべきでしょうか。「私」は唯一無二の存在として、天上天下の唯我独尊的な価値性を神様からどのように付与されたか深く考え、それに対していかに神様に報いるべきかを深く考えなければなりません。
自分一人で気楽に豊かな生活をしても、神様の前に行くことはできません。「自分一人」という言葉自体が、既に豊かな生活を意味していないのです。前にも言及したように、人間が一人で生きていくという語句自体が、既に大きな誤りなのです。神様の前には、一人で行くことができず、家庭で行くようになっています。夫婦になって家庭を築き、子女を繁殖して四位基台を造成してこそ、その基台の上に神様の真の愛が運行するのです。このような原理が「創造原理」に記されています。四位基台は、家庭を築かずして、一人では決して造成することができません。天国、すなわち極楽世界は、家庭的四位基台を完成した夫婦だけが行くことのできる所です。
浄土、極楽世界を待望する多くの仏教徒の生き方は、根本から誤っています。どんなに仏教徒が罪を犯さずに善良に生き、物欲や権勢の欲望を完全に捨て去って生きることに尽力したとしても、それは神様の創造目的という観点から見たとき、真の姿ではありません。それゆえに、仏教徒たちの霊魂は低級な霊界圏にとどまっているのです。「私」という存在は、本当に貴いものです。多くの群衆の中に、自分と同じ人がいるか見てみるが良い。どんなに探し回ってもいないでしょう。真に唯一無二の自分の姿なのです。
このような「私」は、いかに生きるべきでしょうか。神様に由来した「私」自身は、いったい神様の前に、何をどのように成就すべきか。皆さんはこの点をよく考えなければなりません。釈迦がこの真理を悟っていたならば、父母と妻子を捨てて修道の道を行かず、その中に真理を見いだしたことでしょう。しかし、どうにもなりません。既に釈迦の一生は過ぎ去ってしまったのです。それゆえ、釈迦のような人物はもう現れてほしくないというのが、私の切実な願いであるということを、皆さんに理解してもらいたいのです。いまだに釈迦のような道を選んだ仏教徒がいるならば、再び元に戻って、人間の本然の姿に従って生きてほしい。新しい真理の教えを知らないうちは、その道をずっと前進していかなければなりませんが、皆さんの師である釈迦自身が、「この道は誤った道であった」と、はっきり知らせてあげたのですから、謙虚な姿勢でその事実を受け入れてほしい。これが師と弟子の正しい関係ではないでしょうか。
世界旅行をするには様々な方法があります。海路、陸路、空路など、いろいろな方法があります。このように、極楽世界(天国)に至るにあたっても、どの道が皆さんに最も適した速い道であるか考えてみるが良い。皆さんの人生はあまりにも短い。成約時代を迎えたにもかかわらず、過ぎ去った時代の陳腐な遺物に固執し続けるならば、皆さんは実に愚かな者となり、徐々に神様から遠ざかることになるでしょう。
皆さん自身の見解だけが最高であると主張するのではなく、相手の真理の前に、謙遜な姿を持つことも極めて重要です。固執な仏教の真理にばかり縛られず、もう一度考え直してみるが良い。皆さん自身は、天上天下唯我独尊的な存在価値を持っているということを、一時も忘れてはならない。成約時代において、これが釈迦の最後の要請であり、釈迦の念願です。「統一原理」を知って以来、釈迦の教えが間違っていたことをとても悔いています。これは釈迦の率直な告白です。
多くの仏教徒が、今まで釈迦の教えを信じて従ってきました。今や、その釈迦が、霊界において新しく悟った神様に関する新しい真理を、この自動書記を通して伝えているので、諸々の仏教徒たちは、少しも疑うことなく受け入れてほしい。そして、仏教徒の家庭が、一日も早く神様に仕えてくれるよう願っています。
(2000年11月15日)
仏教徒は私の家族
生老病死に関する真理は、神様が我々に下さった最善の真理だったのでしょうか?これが神様が我々に下さった最後の教えだったのでしょうか?宇宙万物の主人、大宇宙の主人、人間の創造主、人間の父母である方が、人間に生老病死を与えたとすれば、それはどれほど論理的に矛盾したことでしょうか、考えてみてください。
ところが、我々人間は神様が生老病死を与えたということを、極めて当然の原理であるかのように認識しています。我々人間は、そのように信じて生きてきたし、今もなお、そのように信じて生きています。これは大変な過ちです。人間は、峠の向こうに隠された宝(秘密)と新しい真理を探すことができず、また、探そうと努力することすら怠ったまま、長い歳月が流れてきたのです。
その真理とは何でしょうか?釈迦の生涯の中で最も困難だったのは、黙想の時間、瞑想の時間という、闘いの時間でした。そのような過程で悟りが得られなければ、それを得るために天秘の世界を突き抜けていきたい思いでした。しかし、人間には各々の使命があるようです。釈迦の時代の器は、神様が直接的に選択するだけの割り当てがなかったようです。
釈迦はその真理を得るために、どれほど苦闘したか分かりません。生死の脅威を感じながら、数多くの峠を越えてきましたが、釈迦は神様の直接的な人材ではなかったようです。その時代に釈迦に下された悟りは、ただの平凡な真理に過ぎず、一時代の人間が善良に生きるように導くための真理に過ぎませんでした。釈迦の教えは、「人は自らの欲望と欲心から離れて生きるならば、心が安らかになって妬みもなくなる。人は地上でそのように生きて、浄土、極楽世界に行くならば、幸せに暮らすことができる」といった、平凡な真理に過ぎませんでした。釈迦の時代には、その程度までしか真理を明らかにできない、神様の事情があったようです。
当時のこのような真理を、最高の真理と紹介した釈迦の驕慢さが、ここ霊界であからさまになりました。しかし、神様の偉大な力は、この至らぬ卑賤な釈迦を通して、人間が一生の中で罪を犯すことなく善良に生きていけるように導かしめました。私は神様が当時のこのような真理を、私自身の修行を通して明らかにしてくださったことに対し感謝しています。しかし、究極的な目的を抱いていた当時の私は、決してそのような真理を悟ったことに満足していたわけではありませんでした。
何かを感じてはいたものの、その究極的な真理を見いだすことができませんでした。釈迦は、ここ霊界で統一原理を聴講し、精読しています。釈迦は当時の心情に立ち返って、王宮を去るしかなかった時代的な状況を振り返りながら、原理を精読しています。それは統一原理があまりにも偉大な真理だからです。神様が文鮮明先生を選んだ、時代的な背景と環境と血統を見ると、復帰摂理の大転換点になっていたことが分かります。そのとき文鮮明先生は、個人的な欲や野望をもって出発したのではありませんでした。この事実は、釈迦にとって真に新たな悟りでした。文鮮明先生は、長い歳月の間隠されていた天の秘密を全天下に明らかにし、人間を救い出すことのできる真理を探し出されました。それは神様の勝利であり、罪悪世界を救う人間の勝利でした。それゆえ、文鮮明先生は、我々仏教徒が長い歴史を通して待ちわびてきた、聖賢の中の聖賢である未来の仏、弥勒仏であり、人類の真の父母であられます。これが私、釈迦の考えです。
これまでの自動書記で仏教徒の生涯を非難ばかりしてきましたが、仏教徒は、さぞかし心が痛むことでしょう。その結果、仏教徒は私のことを本来の釈迦ではないと決めつけたり、ある偽の仏者が俗世を離れて生きてから死んだ邪悪な霊か邪鬼であると規定したりするかもしれません。それでも、私はこのメッセージを伝え続けるしかありません。それは統一原理が、地上生活や霊界生活における厳然たる真理だからであり、仏教徒だけでなく全人類が生きる道は、唯一、統一原理しかないからであり、全人類は統一原理によって生まれ変わらなければ、永生の道がないからです。そして、それは霊界の四大聖人ばかりか、あらゆる宗教の責任者たちが、一様に統一原理を聴講しており、その中に統一原理の前に反論を定義する者が誰もいないからです。仏教徒の皆さん、行者の皆さん、数世代前に幽明相隔たった釈迦が、こちらで悟った真理が統一原理です。皆さんは再び俗世を離れた心情で、統一原理をしっかりと抱きながら、毎日毎日、一歩、百歩、千歩、万歩と歩んでみてください。神様が皆さんのことを見過ごすことは、絶対にないでしょう。間違いのない答えが、皆さんの前に提示されるはずです。
統一原理は、我々人間を永生の道に導く教科書であり、指針であり、人生の公式を解いてくれる人生の解答です。皆さん、永生とは何でしょうか?
皆さんは永遠なる人生の価値を、統一原理の中にはっきりと見いだすことができるでしょう。そして、この原理を学び、その中で生きてから霊界に来るならば、我々仏教徒も、天国で永生することができるでしょう。釈迦が教えた悟りの真理を捨てよというのではなく、そこに統一原理を接ぎ木せよというのです。そして、統一原理を精読するならば、何を捨てるべきか、何が誤っているか、ということを悟ることができるでしょう。
仏教徒の皆さん、釈迦はあまりにも過酷ではないでしょうか。しかし、皆さんを愛し、貴く思っているからこそ、このようにメッセージを伝えるのです。あなたがたも、子供の将来のため、あるいは子供の養育のためには、時には過酷な立場に立ちはしないでしょうか?釈迦も例外ではありません。仏教徒は私が心から愛する弟子であり、家族ではないでしょうか。早くこの統一原理を、皆さんのものとして受け入れるべきです。この時点において、諸々の仏教徒に最も貴いことがあるとするならば、それは皆さんが、生前に統一原理と直接因縁を結べるという点です。これを幸いに思って感謝しなければなりません。私は明らかに釈迦牟尼、仏陀です。
仏教徒の皆さん!今はもう困難な苦行の道を歩む時ではありません。成約時代が到来しました。成約時代とは、家庭を築いて、神様に仕えながら幸福に生きていく時代です。その時代における新たな生のモデルが、「統一原理」に詳細に示されています。ゆえに、皆さんが一日も早くその内容を精読して、新しい方向を見出してくれることを、切に願ってやみません。
(2000年11月16日)
注釈
(+)弥勒菩薩は、釈尊の次に仏陀となる、愛と平和の聖者であり、弥勒菩薩、弥勒仏を総合して慈蕊と称されている。弥勒下生(降臨)は釈尊滅後の五十六億七千万年と説かれているが、これは宗教的暗号として解明される。
人類は創造当時に過ちを犯した
神様によってつくられた人間が、神様の願う本然の姿のままで生きたならば、人間には救世主は必要なかった。それは、あたかも健康な人には医者も薬も必要ないのと同じである。人間が神様の願う子女の姿で、完成の道をしっかりと歩んだならば、どうして救い主が必要であろうか?人類は創造当時から誤ったのである。では、その過ちとは何であろうか?神様の創造目的を実現していく過程、すなわち未完成期において、人間は道を誤ったのである。
このように、人間自身が誤ってしまったゆえに、その人間を救い出すべき仲保者、すなわちメシヤが必要となったのである。人間の過ちによって、罪悪歴史が綿々と流れてきたが、全能の神様は人間が過ちを犯す事実を目の当たりにしながらも、なぜ干渉することなく、こんなにも長い間、罪悪歴史を放置しておかれたのだろうか?神様は善を創造したのであって、悪を創造したのではない。人間は一定の成長期間を通して、自ら完成して全宇宙の主人となり、全被造物の主管者となるように創造されていた。しかし、人間は一定の基準から離脱してしまい、過ちを犯してしまった。そのとき神様は、なぜ人間が過ちを犯す過程を傍観していたのだろうか?それは、悪を創造しなかった神様が悪に干渉するならば、悪を創造したというような立場に立ってしまうからである。
それゆえに、人間の過ちを清算することのできる主管主、すなわちメシヤが現れて、罪悪の中に堕ちた全人類を、神様の前に復帰していかなければならないのである。神様は人類歴史において、様々な経路を通じ、人類が神様の前に出られるようにする仲保者、メシヤを送ることを約束された。そして今、我々人間はようやく、メシヤを通じて、神様の前に出られる道と機会を得るに至った。
メシヤが降臨して、罪悪の中に堕ちた我々人間の姿を、罪のない基準に立たせてくださり、人類を祝福してくださるのである。このような祝福を通してこそ、人類は神様の子女という立場に戻れるのである。
釈迦はその祝福を受けた。祝福とは何か?それはこの世で言うならば結婚であるが、誰が祝福してくださるのであろうか?それは統一教会の文鮮明先生である。先生は、人類のメシヤであり、祝福の司式者(主礼)である。釈迦は仏教徒の皆さんに、あまりにも無礼なお願い、あまりにも恥知らずなお願いを強要するが、そのようにするしかない。そのお願いとは、一日も早く皆さんに文鮮明先生の祝福に参列してほしいということである。
仏教徒の皆さん、釈迦が歩んできた修行の道、苦行の道は、今後皆さんにとって必要のないものとなった。時代的にとてつもなく良い環境が到来した。仏教徒よ、これは釈迦の声である。ゆえに、肝に銘じて聞くが良い。釈迦が生まれた当時のインドと、現代の状況を考えるとあまりにも違う。当時の人類は、自由に行き来することも、遠い知らせを知ることもできなかったが、今は飛行機に乗りさえすれば、気楽にどこにでも行ける時代となった。信仰における時代的な恵沢も、それと同様である。神様が子女を直接的に愛することのできる時代が到来したのである。釈迦のようにきびしい苦行の道を歩まなくとも、極楽世界(天国)に行くことのできる道が開かれたのである。子女を愛する神様が、人間にきびしい苦労をさせるだろうか?人間が、真の姿になるための成長期間を経て、真の生を悟ったならば、神様は天地の万物を、すべて子女である人間に与えようと思っておられた。それが神様の深い愛であった。
今まで我々人間は、宇宙の背後に秘められていた神様の秘密を知らずに生きてきたが、今や、釈迦は神様のその秘密を知った。我が愛する弟子たちよ!帰ってくるがよい!釈迦のふところに来たれ!今や、あれほどまでにきびしい修行の道は、神様の心を痛めるだけである。冬安居も夏安居(室内に籠もって修行すること)も、神様は受け取らないであろう。膝がすり切れ、額がむけるほど、千拝、万拝することはない。仏教徒の皆さんは、ただ神様がおられることを信じ、神様の子女であることを悟って従ってきさえすればよい。皆さんが信じている釈迦よりも、生きて働かれる神様を信じよ!皆さんは、神様が自らの父母である事実を悟って、父母に仕える道理を尽くせば、極楽世界(天国)に直接至ることができる。それが最高の近道である。
仏教徒よ!仏教徒が極楽世界、天国に来るまで、釈迦は天国に行くことはできない。釈迦はメシヤから祝福を受けて、天国で栄華を享受することもできる。しかし、弟子たちに誤った真理をあたかも永遠の真理であるかのように教えた責任者として、胸が締めつけられるような痛みと、神様の子女を誤って導いたという罪意識を抱いている。
メシヤは我々人間にとって、真の父母であり、救世主であり、救い主であり、人類の解放者であり、永遠なる極楽世界(天国)に導く方である。仏教徒よ、救いとは何か分かるであろうか?仏教徒が家庭を築いて、地上で幸せに暮らしても、この極楽世界に来るとき、一緒に来ることができないであろう。メシヤから祝福を受けてこそ、はじめて永遠の夫婦となる。メシヤを媒酌人として、神様の前に祝福式を挙げてこそ、極楽世界、すなわち天国に来ることができる。仏教徒よ、それが難しいであろうか?それが永遠の救いであり、極楽世界、天国に来るための最善の道である。我々は皆、ここ極楽世界、天国で共に会おう。これに関する詳しい内容は、「統一原理」の教本を見て研究するがよい。
仏教徒よ、皆さんは今まで釈迦を信じて従ってきたが、永遠なる安息の地に来るためには、メシヤを通して入って来るようになっているので、メシヤの教えに従わなければならない。では、メシヤとは誰であろうか?それはまさしく文鮮明先生である。我々は皆、この方を父母として仕え、侍らなければならない。しかし、親不孝者の釈迦は、いまだにその方を「父母」と呼ぶことも、お仕えすることもできない、切ない心境で日々を過ごしている。ただ「先生」としか呼ぶことのできない釈迦の心境を、仏教徒たちは理解できるであろうか?
諸々の仏教徒が皆、ここに帰ってきた暁には、我々一同、メシヤの前に礼拝し、「我らが父、救世主、万歳!天地父母様、万歳!」と大声で叫ぼうではないか!仏教徒よ、行者たちよ、私は釈迦牟尼、仏陀である。釈迦のこのメッセージを信じて従わなければならない!そして、釈迦の最後の頼みを、くれぐれも聞き入れてほしい。どのように伝えれば、あなたがたは私の言うことを信じてくれるのだろうか?どのようにすれば、この事実をはっきりと理解してくれるのだろうか?どうしてもこの事実が信じられないならば、「統一原理」を精読してみるがよい!そうすれば、この事実が信じられるであろう。切に、釈迦の哀願を聞き入れてほしい。
(2000年11月17日)
霊的交信を終えると、お釈迦様は泣きくずれながら私(交霊者・金英順)に語ってこられた。「助けてください、助けてください!」と号泣しながら、お釈迦様が頼んでこられた内容を、ここに記録する。
金英順夫人!号泣したい思いです。この心情をどのように伝えたらよいのでしょうか?いくら考えても、その方法が思い浮かびません。ただただ号泣したい心情です。私の愛する弟子たち、比丘・比丘尼は、今日も明日も切り裂くような寒さに耐えながら、氷を砕いて冷水の行をしていることでしょう。この釈迦はどうしたらよいのでしょうか……。
私の心よりも、子女を見つめて胸を痛める神様の心を思うと、なお一層苦しいです。金英順夫人!どうしたらよいのでしょうか……。何か易しい道はないでしょうか?いっそのこと、釈迦があの時代に生まれなかったほうが良かったかもしれません。どうか助けてください!このメッセージを本にして、すべての寺に届けることはできないでしょうか?うわさが広まれば、釈迦がそこに霊的御業を起こします。
すべての仏教徒が復帰されるまで、釈迦は罪人でいるしかありません。申し訳ありません。
生老病死と修道の転換
「人間はこの世に生まれて、病んで死に、老いて死ぬ」ということが、きわめて平凡な道理であると地上の人間は考えているであろう。しかし、よくよく考えてみると、それはあまりにも無価値なことである。多くの生命の中で、この世に一度生を受けるという因縁は、あまりにも大切で尊いものである。ところが、生まれて、病気になって死に、老いて死ぬとするならば、「なぜ生まれるのか?」という根本的な疑問が生じざるを得ない。
私、釈迦の苦悩はまさにそこにあった。そのような平凡な道理が、私をとても悩ませたのである。私が宮廷の中で豊かな生活をしている間は、宮廷の外の事情を知ることもなく、人間の生に関して悩む余裕もなかった。しかし、徐々に物事の分別がつき、成人になりかけた頃、宮廷の外の世界が気にかかるようになってきた。王の息子として生まれた釈迦が、民の事情も知らずに、どうして王座を受け継ぐことができようか。人間の惨たる現実を目の当たりにしたとき、目から火が出るような戦慄が走った。それ以来、私の心は耐えがたいほど痛み続けた。
特に、この世に唯一無二なものとして生まれた人間が、惨めに死んで行く姿を見るとき、私の心は言葉に尽くしがたいほど痛んだ。それが人間の現実であるということを感じて以来、私は多くの時間を瞑想と苦悩に費やした。その当時、私が神に仕える修道者に会っていたならば、私の悟りの方向は変わっていたであろう。
しかし、当時のインドには、貧困と病気に苦しむ人々があまりにも多かったため、神に関する問題よりも、人間の苦痛を解決するということが至急の問題であった。その当時は、時々刻々と変化する環境と事情によって、人間の本能が様々な次元で異なって現れた。人間は貧困や病に苛まれると、何かに頼ろうとする欲望が生じるものである。昔も今も、そのような欲望は、常に人間の本性の中に潜在している。そのため、自らの願いをかなえるために敬拝したり祈ったりする風習が、いろいろな場所に生まれたのである。しかし、当時の人間は、宇宙の根源者、絶対者である神を求めることに力を注がなかった。限られた社会的環境の中で、神を求める人間の本能的な発露が、比較的低級なかたちで現れたのである。すなわち、当時の人間は、神を求めることよりも、人間の現実的惨状をいかに解決するかということに関心を抱いていたのである。それゆえ、その時代に私の歩んだ道は、すべての人々の前に崇拝の的となったようである。
私は宮廷の中で、ありとあらゆる富裕栄華を経験していたが、一般人たちは、常に惨めな現実に浸って生きていた。それゆえ、彼らは悲惨な現実自体が人生であると思って生きていた。彼らは自らの現実的な生そのものが、あまりにも辛いものであったので、「人生」について考える余裕すらなかった。しかし、私はそれとは相反して、宮廷の中でありとあらゆる富裕栄華を享受していた。私は一般人の悲惨な現実を目の当たりにしたとき、「人生」について悩み、考えざるを得なかった。
修道生活を始めた釈迦は、一般人たちの崇拝の的となったが、そんな釈迦にも、修道生活の苦痛から脱け出したいという思いがよぎらなかっただろうか。あまりにも辛くて厳しい修道の道であった。「修道の道」というのは、後世の人が名づけた、とても格調高い表現である。当時の私の生活は、文字どおり、泥沼にはまったような生活であった。
しかし、私の生涯がなぜあんなに辛くて苦しかったのか、私は悟ることができなかった。この国(霊界)に来て「統一原理」を聞き、神を見いだして以来、自分自身の修道生活というものが、ある程度分かってきた。しかし、私が悟ったことは、あまりにも恥ずかしい限りである。今こちらで考えてみると、一人の人間が「人間の生の意味」を悟るなどということは、きわめて傲慢なこととしか言いようがない。人間を主管している、人間よりも次元の高い神が存在しているという事実など、微塵も考えることができなかった。私は自分自身が自ら悟れば仏陀になれると考えていたが、それは神の前に頭が上げられぬほど恥ずかしいものである。私も神の子女であるが、神は私の生涯をご覧になり、どれほど心を痛めたことであろうか。
当時私は、善と悪の根源、罪の根源について悟ることができなかった。そして、なぜ人間が生老病死の道であえぎながら生きては死んでいくのかを悟ることができなかった。エデンの園の人間始祖の過ちによって、人類歴史が誤った方向に進んだという事実、そして、人間が原罪をもって生まれた結果として、貧困と病で苦しむしかない惨めな現実になったという事実を、私は察することすらできなかったのである。
私が仏教徒に誤った教えを伝えた結果、仏教徒の生活はいまだに固執な信仰を身につけたままであるが、どうしたら、数多くの仏教徒たちの生命を救いの道へと、正しく導くことができるのだろうか? 私は胸が裂けるほど神の前に申し訳なさを感じながら、仏教徒の救いのために身もだえしている。このような事実を考えると、苦しくてとても耐えがたい。何の信仰も持たずに、やりたい放題にふるまった人が地獄へ行くのは当然であるが、正しい道を行くためにあらゆる厳しい難関を克服し、浄土、極楽を望みながら辛い修道の道を選んだ多くの弟子が、永生の極楽世界(天国)でない、楽園の下層霊界に安着する姿を目の当たりにするとき、釈迦の心情はいかばかりであるか考えてみてほしい。
霊的交信をしてくれる金英順女史の手と腕の苦痛は続いている。そして、罪なきその女性の前に、どれほど哀訴したことだろう。「仏教徒を助けてくれ、仏教徒の復帰のために祈祷してくれ」と。しかし、どうしてそれが一朝一夕になされようか。地上の現実は、時間的・空間的に制約され、社会的・文化的環境に制約されているゆえに、私のこのような心境を、うまく伝えにくい実状に置かれている。仏教徒の皆さん、このような耐えがたい私の苦痛をどうしたらよいのだろうか。仏教徒の皆さん、その方法を教えてほしい。ある面においては、皆さん自身が、私をこのような苦痛から解放する鍵を握っているのではないだろうか。
新しい歴史が始まることを遥かに待ちわびてきたが、いまだに待ち続けなければならないのだろうか。今、私は肉体を失ってここにいるが、肉身を持って生活していた時よりも、こちらで直面した苦痛のほうが、より一層深刻である。
実際、私、釈迦は罪人にはなりたくなかった。愛する仏教徒たちがいくら苦行を積んだとしても、釈迦が望んだ基準とは異なる、この程度の安息の場しか得られない霊界の現実を理解し、何卒許してほしい。仏教徒の皆さん、この無能な釈迦を許していただきたい。
しかし、仏教徒の皆さん、死後に極楽世界(天国)に来ることを望むならば、今の周囲の事情に執着することなく、無慈悲に方向を改めて転換せよ!そうして、皆さんの信仰の道において、神を求めて仕えるならば、ここ極楽世界(天国)に直接来ることができよう。このような釈迦の切なる願いを実践に移すならば、皆さんは永遠なる極楽世界(天国)に来ることができる。皆さんは釈迦のこのような願いを、単なるメッセージとして聞き流してはならない。これは皆さんの人生において、類のない最も重大なメッセージとなるであろう。
これに関する詳細な内容については、「統一原理」を学べば、正しく知ることができる。統一原理は人生の正しい教科書である。これこそ、皆さんが崇拝してきた釈迦はもちろんのこと、諸々の仏教徒を解放することのできる、唯一の指針である。何卒皆さんの歩んだ道を急転換して、神に仕えてほしい。これが釈迦の頼みであり、願いである。
(2000年11月17日)
人間始祖の過ちは原罪の始まり
この世に生まれて、病んで死に、老いて死ぬだけのために、神は人間を創造したわけではない。神は人間を最も高貴なご自身の子女として創造なさり、彼らが夫婦となって幸せに生きる姿を見るために創造なさった。それにもかかわらず、人間は神の創造本然のみ旨が成就する前に、完成に向かって成長していく期間、すなわち成長期間において、神のみ旨と全く別の方向に向かってしまったのである。これを「統一原理」の教本では「堕落」と説明している。
人間は神の本然のみ旨を完成することもできず、神の子女の立場から脱線してしまった。人間のこの原罪は胸を打って号泣するほどに、無念やるかたないものとなってしまった。神は人間を子女として創造し愛されたが、召使いとして創造された天使が、神の前に途方もない事件を犯してしまったのである。その事件によって、我々人間は罪悪の子供を繁殖するしかなくなってしまった。それが人間始祖の過ちであり、原罪の始発となったのである。
人類歴史の背後の内幕がそうであるにもかかわらず、釈迦は仏教徒たちに誤って教えてきた。それによって、釈迦の痛み以上に大きな神の痛みが、人類の胸中に残されるようになり、神の前に恨となったのである。いったいこのような恨めしい事実を、誰が解明できたのだろうか?
私はこのような原理的事実に初めて接したとき、その事実を限りなく否定したい思いであった。しかし、何度も質問しながら、人間の罪の根である原罪が、このように始まったという事実を悟ったとき、釈迦はあまりにも胸が痛んだ。その心境はどんな方法をもってしても表現することができない。生老病死は人間にとってあまりにも苛酷なものだと思い悩んできた釈迦にとって、それはあまりにも衝撃的な悟りであった。神の人間に対する願いと期待が、もっと大きなことにあったということを悟ったとき、釈迦の心は少し安らぎはしたが、予期せぬ人間の原罪によって、一様に苦痛を受けながら生きてきた我々の人生であったことを思うと、本当に悔しくて仕方がなかった。
「統一原理」の教本は、真理を明らかにしようとする凄絶な闘いを通して、文鮮明先生が探し出された内容であり、我々人間の救いの響きである。この事実を誰が知るだろうか?人類は、死の道で空しく消えざるを得ない不遇な存在となったが、このようにとてつもない天の秘密を解明してくださった師がいるおかげで、死から救われる道を得るようになったのである。我々人類はその師の恩恵に対し、干回万回死んだとしても、報いる方法はないであろう。このような事実は、どのように歴史の裏側に埋もれていたのだろうか?遥かな歳月の間、神はその秘密のベールを一度も取り去ることができず、悔しく超然と気を揉みながら、氷を踏む思いで待ってこられたのである。遥かな人類歴史において、誰一人として神の痛みを知らなかったのである。一体どこからこの曲折のもつれを解いたらよいのだろうか。
私がかつて腐王と闘いながら、一つ一つ峠を越えるたびに悟ったのは、せいぜいのところ、「私自身」を自ら発見したことと、私を「主管する途方もない力」があるということだけだった。しかし、私は世界を見る視野が広まり、すべての事物に対する恐れもなくなって、自信満々になった。このように厳しい苦悩と煩悶の中で得られた小さな力によって、釈迦は自分自身をやっと見いだせたわけであるが、それを思えば、天の秘密を明らかにするための師の苦痛は、どれほど大きかったことだろう。我々は何をもって、そして、いかにその恩に報いることができようか?
仏教徒よ!このような人間の原理を説明しても、釈迦の新しい教えを信じようとはしないのか。文鮮明先生が明らかにされた原理の内容を隅々まで精読し、それを胸深く銘記するがよい。それは仏教徒が生き残るための人生の教本であり、皆さんがあのような修行の道を歩まなくとも、望みの極楽世界(天国)に行くことができる指針である。そこには、人生を生きていくのに必要なすべての公式が記録されている。無明から解放されるために苦闘し、あらゆる欲を主管するために何度も礼拝した時代は過ぎ去った。これからは「統一原理」の教本を見ながら、人生の根本問題を解くがよい。
釈迦が説いた時代と、メシアが現れた成約時代では、人間を救う方法においてもかなりの差がある。時代的な環境と恵沢によって、仏教徒が極楽世界(天国)に達する道も変わった。「統一原理」では、極楽世界(天国)に直接至れる近道を教えている。いまだに多くの疑問がわき、信じられないならば、皆さん自身が無理をしてでも「統一原理」を一度読み、統一教会員たちの生き方に関心を持って研究してみるがよい。
どうして皆さんは恐れ多くも、楽な立場でとてつもない「統一原理」に接しようとするのか。皆さんが惜しまずに努力をするならば、時代的な恵沢と、環境と、新しい真理が、諸々の仏教徒を解放してくれるであろう。そして、文鮮明先生の一生に関する詳細な記録もたくさん紹介されているゆえに、釈迦の頼みを肝に銘じてそれに注目してほしい。後日、極楽世界(天国)で会おうではないか。
(2000年11月21日)
注釈
(11)仏教において、腐は命を奪い、功徳を奪い、善を妨げ、破壊し、ざん言すると説かれている。魔界の王は天子魔とも称されてきた。
(12)無明とは、真理に明るくない、すなわち根本的な無知を 意味し、迷いの根本であり、渇愛(過分な愛欲)と共に、苦悩や罪悪の原因と説かれてきた。
仏教徒と家庭が共に行く世界
私はこの世に生まれて初めて世の道理を悟ったとき、人間の様々な煩悩に悩み、出家し、人間の根本問題を解決しようと死の道を歩んできたが、数十回となく生き返ってきた。このように私が死線の峠で一命を取りとめたのも、その遠くに神様の限りない愛と配慮があったからであると思う。
私は魔王との闘いで殺されかかったが、神様は私を生かすために、様々な次元において守ってくださった。釈迦は、個人の問題ではない「人間全体の問題」、さらには「神の子女の問題」を解決できないが、それでも解決しようと試みる釈迦の凄惨な生涯をご覧になったとき、神様はどれほどその胸を痛めたことであろうか。
神は人間を子女として愛し、いつも心に留めて慈しみながら、その将来を案じてこられた。これが人間の父母たる神様の姿であった。ところが、どんなに人間を愛したくても、神には肉体がない。そこで、神は完成した人間の姿を通して、肉体をまとうことを願われた。しかし、人間始祖が成長過程で過ちを犯すことによって、人間はその本質は変わらなくても、原罪をもって生まれる存在となってしまった。それゆえに、神様は直接人間に対せなくなってしまったのである。これが神の切ない事情である。
神は人間の肉眼では見ることのできない、無限に大きな存在である。被造世界のあらゆる存在は、どれもみな相対的になっている。たとえば、人間は男性と女性、動物は雄と雌、植物はおしべとめしべ、物質は陽子と電子といったように、我々の目に見えない微々たる世界にいたるまで、すべては相対性を帯びている。その理由は繁殖するためである。このように、すべての物質世界が相対性を帯びて創造されたのは、単独では繁殖できないからである。神はアダムを創造してから、「ひとりでいるのはよくない」と言われて、エバを創造した。ここで、我々仏教徒が心に深く銘記すべきことがある。それは神も二性から成り立っているということである。父なる神の属性には、男性(陽性)と女性(陰性)を共に現すことのできる二性がある。それゆえに、神はすべての被造世界を、相対的に創造することができたのである。
ところが、仏教徒の皆さん、皆さんの一生を振り返ってみるがよい。特に、比丘や比丘尼たちの生活を考えてみよう。創造された人間が生まれながらに持っている生理的欲求は、神の姿に似せて創造されたものである。それゆえ人間は、男と女が愛し合って子女を繁殖し、神の前に喜びを返すのが当然なのである。必要もない生理機能を、神が創造なさるはずがない。このような観点から、比丘・比丘尼たちの犯した罪は小さくはないということを感じることができよう。一人で生きていくための求道の世界が、どうして当然であり、適していると言うことができようか。
成約時代は家庭完成の時代であり、天国、すなわち極楽世界は家庭が共に行く世界である。したがって皆さんは、一人では極楽世界(天国)に行くことができない。私は当時、諸々の弟子たちに、特に比丘・比丘尼たちに、極楽世界(天国)に入籍する方法をきちんと紹介することができなかった。極楽世界(天国)は、男性と女性が相対的幸福を思う存分に享受し得る世界である。
諸々の仏教徒の皆さん、全宇宙の主人公たる神が、相対的属性を持った方であるのに、人間はその本然の欲求を払いのけんがために、多くの修行と鍛錬の中で苦労しながら生きている。今や皆さんは、神様の本質の世界を詳細に研究しながら、娑婆世界で家庭を築き、幸福な人生を享受してほしい。それがここ極楽世界(天国)へ来ることのできる、唯一の道なのである。
釈迦が家を捨てて出家するとき、その痛みがどれほど大きなものであったか、皆さんは察しがつくであろう。俗世を離れるほどの心構えでいる弟子ならば、「統一原理」の教本を学び、「統一思想」を体系的に研究せよ。そうすれば、釈迦の願いがどれほど真摯なものであるか分かるであろう。「統一思想」を学ぶとき、李相軒先生は「統一思想」の「原相論」を通して、またもや、ひしひしと痛みを感じさせた。その講義は、釈迦の胸を突き刺すような内容であったが、仏教徒が神の根本的な属性を知らないことには、仏教徒の改宗は難しいであろうと考えた。そのとき、李相軒先生はなんと詳しく、真剣に、しかも心血を注いで語ってくれたことか!その感動の時間は言葉ではとうてい表せない。
仏教徒よ、李相軒先生から教えられたとおりに、釈迦が心血を注いで皆さんに知らせようと思う。ゆえに、地上で詳しく研究できるという時代的な良い環境を、くれぐれも逃さないでほしい。神を研究し、神を父母として仕えるならば、それ以上の苦行は、皆さんにとって必要なくなるであろう。
(二〇〇〇年十一月二十一日)
注釈
(十三)比丘は男性の出家修道者、比丘尼は女性の出家修迫者。
(十四)娑婆世界とは現実世界のこと。娑婆は語源的には「忍ぶ」
(十五)原相論は第一原因なる神の二性性相に関する理論である。
神は人間のために自然を創造された
神は人間を創るとき、人間を森羅万象の主人として創造されました。なぜ神様は人間を全被造世界の主人として創造されたのでしょうか。被造世界の中で、神の手を経ていないものは一つとしてありません。人間は季節ごとに移り変わる万物の調和を見て、感嘆せざるを得ないでしょう。それは神の全能性ゆえです。どんなに偉大な科学者であっても、四季の調和を創出することはできません。
では、神は誰のためにこんなに美しい自然を作ったのでしょうか。愛する仏教徒の皆さん、驚かないでください。神は我々人間のために天地万物を創造したのです。人間が宇宙の主人となって思う存分に楽しむことができるように、神は我々人間のために創造してくださったのです。春には青々とした新芽が萌え、夏は涼しい川と深い緑と自然の成熟を感じさせ、秋は五穀の実りと収穫による自然の豊饒を享受させ、冬は深い静寂と育みと休息を与えてくれます。神は唯一人間のために宇宙万物を創造されたのです。神は人間を創造する前に、人間に対する様々な構想を立て、人間が思いきり駆け回ることのできる遊び場をつくり、数多くの玩具をあちこちに準備してくださったのです。神は人間のために、季節ごとに異なる有形の遊び場や玩具を準備してくださったのです。
それは、あたかも妊婦が赤ん坊を生む前から、色々な用品や環境を整えるのと似ていると言えます。しかし、そのような妊婦の愛と言えども、神の愛には比肩することができないでしょう。では、このような神と我々には、一体どのような関係があって、我々はこんなにも愛されるのでしょうか。
仏教徒の皆さん、皆さんはすべて神の子女であり、神は皆さんの父母であるということをはっきりと知らなければなりません。皆さんが神に仕えることを拒否したり、神の子女ではないと無視したりしても、神は皆さんを否定したり背を向けることはありません。もしもそうであるならば、神は人間の父母ではないということになります。その人がどのような教派や教団に属していようとも、金持ちであろうと貧乏人であろうと、病人であろうと障害者であろうと、罪人であろうと悪人であろうと、老若男女を問わず、すべてはみな一様に神の子女です。白人や黒人や黄色人種といった違いはあっても、すべてはみな正真正銘の神の子女なのです。人間の住む随所には、どこにでも天があり、地があり、風が吹き、花が咲きますが、その根本的な原因は神にあります。アフリカ、ヨーロッパ、アジアなど、世界に広がる大地は、神の創造の御手によって創造されたものです。宇宙万物のすべては、神がご自身の子女のためにつくった遊び場であり、玩具に他なりません。
キリスト教、仏教、イスラム教などは、地上において地域と時代によって異なる人間たちがそれぞれにつくった教団です。神はどの教団であろうと、すべてがご自身の懐に抱かれることを待ち望んでいます。仏教徒の皆さん!心を完全に開いて考え方を新たに転換し、神の教えを正しく悟って、神を中心として生活する伝統を立てていかなければなりません。
全人類は一つの神、一つの父母の下に兄弟姉妹となり、一つの文化圏を形成して生きていかなければなりません。人類の恒久的な平和を構築しようという統一運動の主役は統一教会の仏教徒であり、その指導者がまさしく文鮮明先生なのです。先生は全人類の平和統一のために、南北の和合運動はもちろん、世界人類の統一と和合運動を展開しておられます。先生は神の理想をもって、人類が神の子女であることを説いておられます。
仏教徒たちの耳にも、その方のメッセージが届く日が到来しました。皆さんが敬愛して仕えてきた仏教界の釈迦でなければ、一体誰が皆さんを諭すのでしょうか。これはまぎれもない釈迦牟尼、仏陀の最後のメッセージであるゆえ、何とぞ心に銘記してください。そして、祈祷してみてください。釈迦牟尼、仏陀が現れて、新たに教え導くでしょう。
(2000年11月23日)
救世主とは何か?
愛する仏教徒の皆さん、
仏教徒にとっては実になじみのない用語が多く、理解できない部分もあると思います。しかし、皆さんが敬愛した釈迦牟尼、仏陀が新たに触れるようになったこの真理を知らせなければならないため、ここにこうして長文を送ります。
仏教徒の皆さんが地上の釈迦の教えを信じて従ってきたように、ここ霊界の仏教徒たちに教える真理をも信じて従ってほしいのです。
仏教徒の皆さん、救世主とは何か説明しようと思います。皆さんは仏教の歴史の伝統の中で、仏教の経典を学び、個人の修行法によって様々な煩悩から解脱する道を歩もうと絶え間なく努力をしています。しかし、それだけでは極楽世界(天国)を期待することはできません。仏教徒たちは私が切り拓いた真理の教えに従って、長い歳月の間苦労してきました。しかし、そのような仏教徒たちが霊界に来て、浄土往生の立場に留まることができないとするならば、皆さんはどうするでしょうか?
これから釈迦は、皆さんの誤った歩み、誤って修行している点を正すために、鞭を加えることにしましょう。今日の仏教徒たちの誤った歩みを知りながらも、釈迦がそのままにしておくことができるか、よく考えてみてください。我々人間は生まれながらに原罪を持っているため、極楽世界(天国)へ直接行くことはできません。人間始祖が犯した原罪を清算してこそ、初めて極楽世界(天国)に行くことができるのです。
この原罪を拭わせることのできる仲保者が、人間にとって必要となったわけです。その方はすべての人類に絶対に必要な存在であり、メシア、救世主であられるのです。メシアは人間の意思によってなりたいからなれるというものではなく、摂理歴史の経綸を通して、神の召命によって地上に現れるようになっています。我々はメシアを「人類の真の父母」、あるいは「天上天下の救世主」と呼びます。私はその真の父母から祝福(結婚)を受けました。釈迦はその方を当然「真の御父母様」と呼ぶべきであるが、多くの仏教徒たちの前に罪人の姿であるゆえ、いまだに「先生」としか呼ぶことができないでいるのです。
では、その方がどうして罪人である私、釈迦を先がけて祝福してくださったのでしょうか。それは多くの仏教徒を救うためです。それゆえに、先がけて途方もない祝福を与えてくださったのです。皆さんが釈迦の解明した真理を通して、衆生(しゅじょう)の救いのために、困難と苦痛を克服しながら自らを錬磨するように、釈迦は真の御父母様が探し出された新しい真理を通して、皆さんの救いのために、困難と苦痛が迫ってきても最善を尽くしていこうと思います。
仏教徒の皆さん、釈迦が真の師の新しい真理の前にすべてを捧げるとするならば、弟子である皆さんも当然そのようにすべきです。今の私の願いはただ一つ、私自身が一刻も早く「真の師」を「真の父母」としてお仕えすることができるように解放されることです。「統一原理」をはっきりと悟れば、新しい真理の先駆者となることができます。したがって、統一教会の仏教徒たちは新しい真理の先駆者であり、自らの仕える師を自信満々に一様に「真の父母」として奉り、「メシア」として仕えています。その師こそまさしく文鮮明先生です。我々仏教徒たちも、その方を「真の父母」として侍ることができ、「メシア」として仕えることができ、その方から祝福を受けることができるのです。
仏教徒の皆さん、皆さんは必ずやメシアを通して新たに祝福を受けなければなりません。皆さんの妻や夫は、地上にいる時だけの妻や夫に過ぎません。夫婦がこちらに来れば、みな他人となるのです。極楽世界(天国)でも夫婦であることを願うならば、メシアを通して地上で必ず祝福を受けなければなりません。人間にとってあまりにも感謝すべき祝福、あまりにも厳然たる自明な真理を、仏教徒の皆さんが理解できずにいるならば、それはとんでもないことです。
釈迦は皆さんの現実を理解できないわけではありません。しかし、メシアの世界的活動を直視してみてください。メシアは世界人類を救うために、八十余年の生涯を通して血の汗を流しながら苦労されています。そのお方は地上でも「真の父母」であり、天上でも「真の父母」です。全人類の「救世主」であり、「メシア」です。それが事実であるがゆえに、数千年が過ぎた今、こうして釈迦は霊界で祝福が受けられたのです。
天上天下の救世主である文鮮明先生に仕え、その方の真理に従うならば、こちらで釈迦に会うこともでき、極楽世界(天国)で永生福楽を享受することもできます。仏教徒の皆さん、地上の人間の命は永遠なるものではありません。文鮮明先生は、皆さんだけを常に待っているわけにはいきません。それゆえ、皆さんは急いで新しい真理を受け入れなければなりません。それでこそ永生福楽を享受することができるのです。これが皆さんを愛する釈迦の唯一の願いです。
(2000年11月27日)
永遠の極楽世界へ案内する
人は地上で永遠に生きることができません。地上を離れなければならないのです。どこを離れ、どこへ行くのでしょうか?この世からあの世へ行かなければなりません。愛する仏教徒の皆さん、愛する比丘・比丘尼の皆さん、皆さんは釈迦の修道の生涯をよく知っているし、釈迦の出家前のきらびやかで華やかな生涯も知っているでしょう。
仏教徒の皆さん、釈迦はあなたがたを心から愛しています。釈迦の真剣な告白に注目してください。釈迦はあなたがたに切に哀願します。あなたがたは釈迦に似るために生涯を捧げ、声聞、縁覚、菩薩を通して大悟覚醒し、涅槃の域に至ることを念願しています。しかし、今日の仏教徒は過去の釈迦のように生きなくてもよいのです。既に何度か言及したように、皆さんの一生を一日も早く整理すべきです。全世界に散らばる諸々の仏教徒の皆さん、釈迦の真理の教えに一生を投げ打つだけの価値があるか、考えてみてください。
私は地上で修行の道を経て、こちらで新しい真理を知りました。私は新しい真理の前に、時代遅れの固執した観念を捨て去ろうと決心しました。新しい真理の前に、永遠の生涯を捧げるだけの価値があると、はっきりと悟ったからです。それゆえに、先にここ霊界に来た釈迦が、このように地上の皆さんにその事実を伝えているのです。
今や、仏教徒たちは、新しい真理に従って新しい人生を出発すべきです。釈迦は一人の人間としてこの世に生まれ、あの世でも永遠な人間の姿で生きられるという、明確な新しい真理に出会いました。ゆえに、その真理の前に、釈迦のすべてを注ぎました。
皆さんから見て、「この釈迦の頼みは間違っている。釈迦を仮装した他の存在が我々を誘惑している」と思えるならば、一旦、「統一原理」を精読するなり聴講するなりし、それから寺に戻って仏を供養しつつ切に祈ってみてください。そうすれば、間違いなく釈迦が皆さんを助け、指示を与えます。今ここ霊界では、多くの仏教徒が私とともに生きています。しかし、ここは皆さんが期待しているような極楽世界ではありません。ここで新たに原理教育を受けて、仏道の道を整理しなければ、永遠なる極楽世界(天国)に入って行くことができないのです。
それがこちらの現実です。ですから、あなたがたが地上で一生を整理して、こちらの極楽世界に直接来られるように、こうして釈迦が案内しているのです。今日の仏教徒の生き方では、極楽世界(天国)に来ることはできません。神様のおられる永遠なる天国に来なければなりません。そこが永遠の極楽世界なのです。したがって、地上で神様がおられることを信じ、神様が人類の父母であることを悟り、神様を父母として仕えて生活しなければなりません。仏教徒たちの知っている極楽世界は、仏教徒の安息の場にはなり得ません。神を父母として仕えなければ、そこに至ることができないのです。
釈迦の家族よ、仏教徒よ、過ぎし日の釈迦の教えを、今一度許してください。すべての民、すべての地はもちろん、全人類もまた神のものであり、神の創造物です。それは我々仏教徒も同様です。今日、多くの仏教徒が一生涯を捧げるその道は、人間が人間として歩むべき倫理道徳に過ぎません。しかし、神を信じて仕え、人類の父母として侍るならば、より大きな真理が皆さん自身を新たな姿へと誕生せしめるでしょう。仏教の経典は極めて部分的な真理です。小さな真理は、大きな真理の前に吸収されていくしかありません。
大きな真理、大きな思想とは「統一原理」のことです。「統一原理」と「統一思想」を精読すれば、人生の根本目的がすべて分かるでしょう。したがって、人生の根本目的を知るためには、仏教の経典に全的に依存する必要はありません。神を父母として仕えて生きていけば、人間の真の自由を得ることができます。神様はご自身の子女である人間が、困難な人生を送ることを望んで創造したのではないのです。
仏教徒の皆さん、宇宙の主人は神お一人です。この点を特に心に銘記してください。釈迦は地上で生きては去った一人の人間にすぎません。絶対的真理の前に、皆さん自身の相対的真理を正しいと主張できるでしょうか?そのようにすれば、皆さんは人生の真の意味を得ることはできません。それは時間の浪費に他ならないのです。地上の人生は、極めて短い瞬間にすぎません。まごまごして戸惑っていると、永遠なる極楽世界が皆さんのもとを離れて行くでしょう。そうなれば、極楽世界(天国)は永遠に自分から遠ざかるという事実を、皆さんは発見するでしょう。
仏教徒の皆さん、そうならないために、釈迦がくれぐれもお願いするのです。一刻も早く「統一原理」を受け入れてください。そうすれば、仏教徒の生涯は、華麗できらびやかな永遠の生涯へと転換されるでしょう。合わせて、極楽世界(天国)は間違いなく皆さんの住みかとなるでしょう。
(2000年11月28日)
仏教徒の真の父母がいる
「統一原理」には仏教経典では聞くことができない、なじみのない用語が多く出てきますが、新しい真理を悟るにあたって仏教徒たちはかなり当惑することでしょう。それゆえ、「統一原理」の新しい用語を簡略に紹介します。それは、多くの仏教徒が「統一原理」を研究し、関心を持つように願う釈迦の切なる心からです。神は人間を、男性と女性の相対性、すなわち「二性性相」に創造しました。それは、男女が夫婦となって睦まじく暮らしながら、子女を繁殖して神に喜びを返すためです。このように、被造世界のすべての生命体は相対を成して繁殖するように創造されています。鉱物世界も植物世界も、すべては相対性を備えた二性として創造されています。このように、微々たる物質世界に至るまで、すべてが相対性を帯びている理由は、被造世界を創造した神ご自身が「二性性相」を備えているからです。
神は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚といった人間の肉的五官では感じることのできない存在です。しかし、神は男性(陽性)・女性(陰性)という二性を持っておられ、人間をはじめとするすべての被造世界は神のその「二性性相」の姿に似せて創造されました。言いかえれば、神は「二性性相の統一体」として存在し、人間をはじめとするすべての被造世界は、まるで子女が親に似て生まれたように、見えない神の内性に似て生まれてきたのです。
人間は、見えない神の内性の姿を統一的に備えており、神と人間は「親子関係」にあります。しかも、それは宿命的な関係です。人間社会を見ると、子供は思慮分別が浅くて親のことを忘れがちですが、親には子供のことが忘れられない天情というものがあります。このように、人間の世界では「親と子」の関係を天倫とみなしたりしますが、実際は「神と人間」という天倫の親子関係は、そのような人間の親子関係とは比肩のしようがありません。
神は人間の「創造王」であり、人間の「真の父母」です。人間は理由もなく神に似て生まれたのではありません。そして、神も理由なく人間の姿をそのように創造したのではありません。人間は、神と親子の関係としてつくられたのです。この途方もない真理の前に、仏教徒は改めて目覚めなければなりません。仏教の経典をくまなく探してみてください。神が人間の父母だという事実が、どこにありますか?創造主である神と人間の関係は、離そうにも離せない宿命的な絆で成立した天倫です。このような大真理の前に、他の理論が必要でしょうか?
仏教徒の皆さん、愛する仏教徒の皆さん、釈迦は皆さんの父母を探してあげることができました。これから皆さんはどうするのでしょうか?皆さんの父母を捨てるのでしょうか?皆さんの父母に仕えるのでしょうか?釈迦は今まで人類歴史の背後に秘められていた真実と真理を、皆さんにすべて知らせました。それでも、仏教徒の皆さんがこの真理を否定する自信があるというならば、否定してみてください。釈迦は胸がえぐられ、身を裂かれるような痛みの中で、あなたがたの父母たる神を探しました。ゆえに、これからは皆さん自身が責任を全うすることを期待するばかりです。
皆さんがこれは事実とは異なる真理だと考えて、釈迦を疑い、恨んで、実践をためらうようになれば、父母である神様は皆さんのもとから永遠に離れてしまうでしょう。このような事実を公開し、知らせるまでの私の身もだえを、皆さんは知っているでしょうか?これからは皆さんが責任を全うしてほしいのです。皆さんが新しく覚醒することを願います。そして、諸々の仏教徒たちが、もうこれ以上神の前に不孝者とならないことを切に願います。
(2000年12月5日)
文鮮明先生の使命
神様が創造なさった理想世界と、今日、人間が生きている現実世界は、あまりにもかけ離れている。では、なぜ二つの世界は分かれているのだろうか?
本来人間は、エデンの園で神様に仕えて幸福な家庭を築き、子女を繁殖し、神に喜びを返して生きるようになっていた。しかし、人間の先祖が成長過程で、天使長の誘惑により、歴史が誤って出発してしまったのである。その結果、神のみ旨とは全く異なる現実世界になってしまった。
したがって、人類は神の創造本然の理想世界に帰らなければならない。本然の世界とは、神を父母として仕えて生きていく世界である。ところが、今日、我々が生きている世界の主人は、神様ではなく「サタン」であり、真の父母ではなく「偽りの父母」である。人類始祖が、真の父母ならぬ「偽りの父母」の血統を受け継ぐことによって、偽りの氏族・民族・国家が形成されたのである。その結果、現実の世界が、神とは全く関係のない世界になってしまったのである。
したがって、「偽りの父母」の血統を神の血統に変えなければならない。これが血統転換である。それには様々な前提条件がある。血統を転換するためには、神の血統を伝授した「特別な使命者」がいなければならない。神の特権がなければ、血統問題を根本的に解決することができないのである。では、神の特別な使命を持ってこられた方とは誰であろうか?その方こそ我らが偉大な師、文鮮明先生なのである。
釈迦はこのメッセージを通して、仏教徒の歩んでいくべき特別恩恵の近道を、明白に、特別に、詳細に伝えている。この時代に顕現された文鮮明先生は、諸人の救世主であり、メシアであり、天上天下の真の父母である。したがって、その方を通して諸々の仏教徒は生まれ変わらなければならない。生まれ変わるというのは、どういうことであろうか?
それは新生(直生)を意味し、その新生(重生)はまた「祝福」を通してなされる。仏教徒の皆さん、極楽世界(天国)に来て釈迦に会うためには、このメッセージを通して伝えた私の願いを信じて、従うべきである。
文鮮明先生は神の命を受け、特別な使命を持って、この時代に現れた方であり、天上でも地上でも「真の父母」であられる。それゆえ、仏教徒たちは、その方を通して祝福を受けてこそ、生まれ変わることができる。祝福というのは社会的に言えば結婚である。すべての夫婦はその方を媒酌人として、改めて結婚式を挙げなければならない。未婚の若者たちもその方を媒酌人として祝福を受けなければならない。そうなれば皆さんは、仏教徒の永遠なる世界、極楽世界(天国)に入籍することができるのである。
祝福を受けた仏教徒たちは、その方の教えと様々な儀式の手続きによって新しく生まれ変わるであろう。そうなれば、皆さんは神の願いである本然の血統を受け継ぐことになり、その時初めて神の創造理想の世界が実現されるのである。それゆえ、諸々の仏教徒たちは、新たに覚醒して悟って、神の理想世界で共に生きられる姿に、どうか一日も早く生まれ変わってほしい。釈迦の最後の願いは、仏教徒の皆が文鮮明先生の祝福式を通して神の血統を受け継ぎ、理想世界の家族として新たに生まれ変わることである。仏教徒たちがそのようになれば、釈迦も文鮮明先生の前で、「天上天下の真の父母、救世主よー。あなたは人類の真の父母であられます!」と拝する資格を持てるだろう。
仏教徒の皆さん、皆さんは今まで釈迦の教えを信じて従ってきたのだから、ここ霊界から送ったメッセージを、少しも疑うことなく信じてほしい。もしこの事実が信じられないならば、切に祈ってみるがよい。釈迦牟尼、仏陀がその場に臨むであろう。それでも、この事実が信じられないならば、ぜひとも、「統一原理」を読んでほしい。そうすれば、釈迦の伝えるこの事実が確然と検証されるであろう。釈迦の切なる願いである。
地上で厳しい修行をする比丘僧や仏教徒たちに対して、釈迦は懺悔する心情で生きている。天地万物は神のものであり、神の創造の御手の下で運行している。仏教徒の皆さん、数多くの教派と宗団はすべて、神様の理想家族として一つになるべきである。全世界の人類は神様を中心とした一つの理想家族である。
仏教徒の皆さん、清く純粋な心で祈ってみてほしい。私の指導が誤ったものではないということを、明らかに悟るであろう。釈迦はあれほど地上生活を通して苦労したにもかかわらず、宇宙の中心である神を仏教徒たちに教えることができずに、罪人の中の罪人となってしまった。釈迦のこのような心境を、仏教徒たちは、どれほど理解してくれるであろうか。仏教徒たちには分からないかもしれない。肉身を持った仏教徒たちには、釈迦がこちらで感じる苦しさと切なさは理解できないであろう。諸々の仏教徒たちは、釈迦の真情で懇切な願いに耳を傾け、祈る心情で釈迦の哀哭を聞いてほしい。
そうして、仏教徒たちも理想世界の一家族となって、神の子女としての役割を果たしてくれることを哀願してやまない。
(2000年12月6日)
愛する高僧たちへ
高僧たちよ!釈迦牟尼、仏陀が、皆さんに深刻な思い、清らかな思いで心からお願いする。高僧たちは、このメッセージを真実に受け止めて、精読して欲しい。そして、釈迦が霊的に協力できるように精誠を込めて祈って欲しい。
もう一度、結論的に高僧たちに釈迦が切に願う。高僧が歩む修行は、非常に厳しいものである。世人には想像もつかない道を、皆さんは歩んできました。釈迦が俗世を離れたときも、どうやってその苦難を語り尽くすことができただろうか。しかし高僧たちよ、今はあれほどの困難な修行はしなくてもよいのである。釈迦は贖罪する思いで、皆さんに許しを請おうと思う。
釈迦は皆さんに神を教えることができなかった。それが罪人の罪人になった所以です。高僧たちは自らの修行の道を整理して、いち早く神を親として仕える準備をしてください。いくら俗世を離れて、罪を犯さずに厳しい修行の道を通過したとしても、神に仕えることができなければ、皆さんの修行は実を結ぶことができないのです。
諸々の仏教徒の心をいち早く整理するためには、皆さんが統一教会の文鮮明先生に会わなければなりません。その方は高僧の皆さんを正しく指導してくださるでしょう。その方は人生の問題、歴史の問題を解決する方案を持っておられ、人類の恒久的な平和世界を構築する鍵を持っておられます。
その師に会うことを、もしも皆さんの心が許さないならば、まず「統一原理」を精読してみてください。そうして、高僧の皆さんの心が整えば、全国各地のすべての比丘僧と仏教徒に教育してください。
皆さんの力でそれができなければ、統一教会の原理講師を招いて、「統一原理」の修練を受けてください。「統一原理」を精読して修練を受ければ、仏教の経典で悟れなかった新たな事実を発見することができ、仏教徒の姿勢も新しく確立されることでしょう。
高僧たちよ、釈迦は皆さんにこの事実を明らかに伝達した。類なき大いなるメッセージを、伝達しました。皆さんが地上生活をしている間に、私のこのような切なるメッセージを聞けるというのは、大変な幸運であると悟らなければなりません。それは、私が高僧たちと仏教徒を慈しみ愛しているからです。諸々の仏教徒たちの厳しい修行の道が決して空しいものとならないように、私の願いを聞き入れて欲しい。それが多くの仏教徒を生かす道である。それが仏教徒たちがあれほどまでに待ち望んだ、極楽世界へ行くいちばんの近道なのである。愛する仏教徒たちに神様を教えることができなかった事のゆえに、私がどれほど気を揉みながら生きてきたか、その痛みを高僧たちは知らなければなりません。
高僧たちよ!一日も早く修行の道を改めて、方向転換してください。全国各地に散らばる数多くの高僧たちに、一日も早くこのメッセージが伝えられることを願います。高僧たちが心を合わせれば、全世界の仏教徒を生かすことができる。霊界にいる数多くの仏教徒を極楽世界(天国)へと導くことができるのです。諸々の仏教徒たちは、長い歳月の間、俗世を離れて生きてきた過去を整理し、再び俗世に戻って、文鮮明先生に会ってください。そして、仏教徒が生きる道について相談して欲しい。これは釈迦の最後の願いである。
釈迦がここ天国で「統一原理」を学び、四大聖人たちと話し合い分析して、人生の至当な方向を悟ったのです。それゆえに、高僧の皆さんに頼むのです。高僧の皆さんが私の切なる願いを受け入れて、心から「統一原理」を精読し、勉強したにもかかわらず、新しい悟りが得られないとするならば、それは皆さんが生ける屍だからだ。いい加減な心構えで極楽世界(天国)に来ようとするならば、初めからあきらめたほうがよい。
こちらの四大聖人は皆、「統一原理」と文鮮明先生の教えと指導に、とても感動しています。私が霊界の様々な事実を伝達したとしても、皆さんには理解できない部分があまりにもたくさんある。しかし、今まで私が送ったメッセージの内容だけでも、十分に読んで信じるならば、皆さんには永生の道が開けることであろう。
高僧たちよ、あなたがたは釈迦よりも幸福です。皆さんの時代に、文鮮明先生が地上に生きておられるからです。なんと幸福なことであろうか!「統一原理」を急いで研究してみてください。幸運は皆さんの傍らで、いつまでも待っているわけではありません。文鮮明先生が地上におられる期間を考えてみてください。高僧の皆さんも急がなければなりません。文鮮明先生も急がなければならないのです。愛する高僧たちよ!釈迦の哀訴のメッセージに心をとどめてください。愛しています!仏教徒を愛しています!
(2000年12月11日)