4大聖人、ソクラテス、アウグスティヌスのメッセージ
イエス様のメッセージ
ベツレヘムに生まれた私、イエスが、この紙面を通して地上に新しいメッセージを伝えようと思います。ユダヤ人たちは、いまだに来たるべき主を待っていることでしょう。キリスト教徒、他の宗教、そして信仰を持たない人たちも、イエスの名前ぐらいは記憶していることでしょう。
今回のメッセージを地上に伝える私、イエスの心は、いろいろと複雑で錯綜しています。その内容を一言で要約して伝えられないことを、心苦しく思います。地上人、とりわけキリスト教徒は、このメッセージに触れるとき、信じるよりは、とても疑うであろうことを、私は分からなくはありません。しかし、かつて新約時代のメシヤの使命を抱いて来た私、イエスが、人類の救いの責任として明言すべき時代が到来したため、この事実を明らかにするものです。
当時、私は、神様からメシヤの使命を頂いて地上に来ていました。しかし、その時代、宗教者と非宗教者の葛藤を、すべて聖書に記録することはできませんでした。実際、聖書には、すべてを明かせずに、隠された摂理的内容が多くあったのです。その時代の流れに従って、神様の摂理は変わるしかありませんでした。今こそ、キリスト教徒やメシヤを待つ数多くの聖職者たちに、隠された摂理的内容の一端を、はっきり伝えようと思います。
神様は、人間を創造されるとき、肉身を、地上で生きるときに必要なものとして造られました。そして肉身を失えば、その霊魂は霊界で永存するよう創造されたのです。メシヤを待つ聖徒の皆さん!聖書に表現された各節の両面的な預言には、なぜ関心をもたないのですか。私、イエスは、新約時代に人類を救うために、メシヤとして来た人物です。しかし、イエスの十字架の問題を、皆さんはどのように考えますか。それは神様のみ旨だったのでしょうか。人間の失敗だったのでしょうか。皆さんは、私、イエスの生涯を綿密に検討してみましたか。イエスの懐胎と誕生についても考えてみましたか。その時代、私は間違いなくメシヤの使命を抱いて来ましたが、肉身をまとった平凡な人間の姿で、地上で食べて、着て、眠って生活したのです。しかし、私の使命は、一般人とは異なり、メシヤとしての使命をもっていたのです。メシヤの十字架の受難は、神様の本来のみ旨ではありませんでした。
地上の皆さん!キリスト教徒の皆さん!これが事実かどうか、断食しながら祈祷してごらんなさい。そうすれば、私、イエスが現れてはっきり教えてあげます。しかし、断食して徹夜するとき、純粋な祈祷と真心だけを尽くさなければなりません。また、いわゆる異端の声にも耳を傾けてごらんなさい。この時代に統一教会の文鮮明先生は、十字架の贖罪により地上で成せなかった私、イエスの使命を完遂するため、再臨のメシヤとして現れたお方であり、成約時代を締めくくるために真の父母の使命を抱いて現れたお方です。
新約時代にメシヤの使命を抱いてきた私、イエスを、当時の人々は十字架につけてしまいました。そのため、地上には神様が成就すべきみ旨が残され、そのため再臨のメシヤが必要になったのです。新約時代のメシヤは、霊的な救いしか成就できなかったため、肉的な救いは宿題として残されたまま歴史が流れてきたのです。それゆえ、恨めしい歴史の背後で、数多くの悲しみと苦痛を味わいながら神様は、再びメシヤを地上に送る時を待ってこられたのです。文鮮明先生の選定を分別して聖別し、メシヤとして送るまで神様は、この上なく緊張した歳月を送られました。
私、イエスは、どこで生まれたでしょうか。馬小屋で生まれました。当時、マリヤの気持ちはどうだったでしょうか。キリスト教徒の皆さん!聖書を読むとき、容易にその内容を理解できたでしょうか。解けない問題、理解できない問題に直面して、皆さんは苦しむことがなかったでしょうか。天の秘密のすべてを明かせなかったイエスの気持ちを、理解できるでしょうか。聖書に記録できなかった摂理の奥深い内容を、皆さんはいかに知ることができるでしょうか。イエスの父、ヨセフの婚約者であるマリヤのおなかが、どうして大きくなったのでしょうか。復帰摂理歴史において、人類が受け入れ難い、途方もない天の秘密がベールに包まれているのを、皆さんは知っているでしょうか。人類は神様の子であるため、神様は人類を訪ねてきて、愛するほかはありませんでした。皆さんは、そういう神様の心情を推し量ることも難しいでしょう。この時代に地上に現れた文鮮明先生は、皆さんが待ちわびた再臨のメシヤです。文鮮明先生は、数えの十六歳の時、私、イエスからメシヤの使命を引き継がれました。キリスト教徒の皆さん!いまだに雲を見つめながら、雲の中から現れる再臨の主を待っていますか。文鮮明先生は、数万回、雲の中をかき分けて世界を巡回し、人類の平和具現のために渾身の力を尽くしていらっしゃいます。きょうもこのお方は、八十歳を超えた御高齢にもかかわらず、人類の救いのために最前線で苦闘していらっしゃいます。
新約時代にイエスを迫害したローマ人たちのように、この時代に生きる皆さんも、そのお方を再び十字架につけるのですか。ソドムとゴモラの滅亡を皆さんは知っているではありませんか。神様は愛です。待っていらっしゃるのです。成約時代に降臨されたメシヤを迎え入れなさい。そのお方の業績と人類を救うための摂理的導きを排斥せず、心から迎えながら、祈祷してごらんなさい。皆さんの真実の祈祷の中に、イエスが共にあることでしょう。
今こそ、キリスト教徒たちが、イエスの生涯と神様の救いについて深く祈祷しながら、メシヤ、イエスを十字架につけた新約時代の時代的な状況を、再び思い起こしてくれることを切に願うものです。
私、イエスが三十三歳になるまで結婚できず、私に従って歩んだ十二弟子ともども空腹だった状況を考えてごらんなさい。イエスには恨めしいことが多かったのです。キリスト教徒たちは、メシヤ、イエスに関するすべてが神様のみ旨である、とだけ結論を下しています。けれども、人類がすべきことと責任はないのか、深く考えてごらんなさい。メシヤとして来たイエスは、人の子でした。私、イエスは、神様のひとり子として、メシヤの使命を成し遂げるため渾身の力を尽くしましたが、その夢とみ旨を完全に成すことができませんでした。そのみ旨が完全に成されたならば、再臨の主が来られる必要があったでしょうか!
キリスト教徒の皆さん!もろもろの宗教者の皆さん!当時のメシヤは私、イエスでした。間違いなくメシヤでした。しかし今日、メシヤの使命を完遂するため再び来られたお方は、文鮮明先生であられます。そのお方が、正に再臨の主であられます。二千年前、異端の魁首とされた私、イエスに「『きたるべきかた』はあなたなのですか」と尋ねた洗礼ヨハネの立場を考えてごらんなさい。皆さんは今、文鮮明先生をどう評価していますか。時代の流れを考えてみて、文鮮明先生が成し遂げた業績を思い起こしてごらんなさい。人間の力だけでは不可能な、途方もない業績を成し遂げられたのです。
既に亡くなった私、イエスが、再び生きて皆さんの前に現れることはできません。人間の肉身は、霊人体と分離されれば、土に帰るようになっています。それが真理であり、天道なのです。墓から起き上がるという聖書の一節を、いま一度見てごらんなさい。神様は、科学的で数理的な神様であり、原理の神様であられます。消えた死体の全器官が分解して再び組み合わさり、復活するという論理は、神様は何でもできるという能力を前提にしたものですが、それは極めて矛盾しているのです。そのように問題が解決するのではありません。自然界を御覧なさい。人間の成長過程と構造を御覧なさい。神様と人間は父子の関係です。今や皆さんは、子女を待って耐えてこられた神様の摂理と心情を体験すべきでしょう。キリスト教徒が偶像崇拝者とする仏教の教祖、お釈迦様とイエスが向かい合って座り、談笑しているとすれば、私イエスをどう思うでしょうか。
もろもろのキリスト教徒の皆さん!仏教徒の皆さん!そして、もろもろの宗教者の皆さん!イエス、釈迦、孔子、ムハンマド(マホメット)などの四大聖人と、ソクラテス、聖アウグスティヌスなどの聖賢たち、そしてその他の宗教指導者たちが、霊界で数回セミナーを開き、それは今も続いています。セミナーの主題は常に「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』をめぐり、分析し、討論しています。
それは、神様が私たちに下さった宿題でもあり、神様が地上の文鮮明先生の活動にくまなく関与し、観察し、私たちに対して、「人類を解放するためには、ここにいる宗教の代表たちが、まず一つになり、地上に協助するように」と命令されたからです。
私たち(四大聖人)には宗派の壁はありません。私たちはみな一つになり、地上に現れた成約時代のメシヤを通して、人類が神様の子女として生まれ変わることによって、神様を中心とした一つの世界が成就できるよう祈祷し、発表し、談笑しています。地上でしばしば見かける宗教者たちの対立と葛藤は、こちらではすべて解消されました。そうなるまでに、相当な時間が流れました。人間の創造主は唯一、神様だけという究極的な真理を明らかにするまで、それだけの時間を要したからです。地上でも、すべての宗教の障壁が崩れてこそ、人類の平和が実現することでしょう。
各宗教の教理の共通性と差異性を明らかにし、互いの長所と短所を取捨選択しながら、温柔謙遜の美徳を示すなら、宗教を持たない人たちも、その姿に倣い、正しい道に導いていけるのではないでしょうか。もろもろの宗教者、とりわけキリスト教徒がすべて一つになり、この無形世界で一堂に会することを願うものです。
ユダヤのベツレヘム出身のイエスが、地上人にメッセージを伝えられる、時代的な環境と恵沢が与えられたのは、ほかでもなく、成約時代が到来したからであり、成約時代の主人公が文鮮明先生であり、そのお方が再臨のメシヤだからなのです。皆さんは、そのお方をどうしますか。批判の的にしますか。新約時代のイエスのように、十字架につけますか。祈祷し、断食して、神様に問いますか。皆さんが、最も賢明な信仰者としての在り方を選択するよう願います。この霊界からでも、新約時代のメシヤ、イエスの責任を悟らせたくて、このように地上人にメッセージを伝えるものです。
このメッセージを通じて、皆さんが真実を見つめ、真の信仰を持ち、神様と一体となることを切に願います。
(2001年4月4日~5日)
お釈迦様のメッセージ
地上の信仰者、とりわけ仏教徒たちに私、釈迦の最後の言葉を伝えようと思います。イエス様もおっしゃいましたが、私たち四大聖人は、各宗派の代表者として、人類の平和実現と救いに心血を注いで努力しています。そのことは、地上ではよく理解できないことでしょう。ここ霊界で、私たち四大聖人と聖賢たちは、常に一緒にいながらセミナーを開きますが、意見の対立や衝突は全くありません。
私たちが一箇所でセミナーを開くまで、それぞれに原理教育などや修練会を経ました。私たちが各宗派の責任者であることを考慮すれば、このような場が一朝一夕につくれるでしょうか。祈祷し、誠意を尽くしながら、幾度か「統一原理」を分析し、検討したあと、こうしたセミナーが設けられたのです。私たちはセミナーを通して、一つの家族のように互いに話し合うので、宗派的な偏見による葛藤は生じません。そして、こうしたセミナーが進行するたびに神様は、美しい花火ときらびやかな光で私たちを包んでくださいました。そして、私たちの和気あいあいとした姿を見られると、喜びながら悠々とその場をあとにされます。
仏教徒の皆さん!イエス様は、新約時代にメシアの使命を背負って来られたという事実を、自ら証されました。釈迦も、そうするほかありません。旧約時代と新約時代が過ぎたのち、成約時代が到来しました。神様は一つの時代が過ぎるたびに、新しい人物を中心に摂理を引っ張ってこられました。このように釈迦も当時、神様の前に方向は違っても、人類を善行の道に導くため、力を尽くしたのは事実でした。ただ、その時代は結婚しないで時を待ち、修行するのが自我完成の近道であっただけです。これは、神様の前に直接出ていける道ではないとしても、相当に価値があったと考えます。キリスト教歴史の「旧約時代」という用語は、仏教徒にはなじみが薄いでしょうが、その時代には、人類救援の恩恵がその段階まで成されるほかなかったのです。当時の状況から見ると、釈迦の生涯と教えも、相当な影響があったのです。
仏教徒の皆さん!今までの皆さんの人生が間違っていたというわけではありません。当時の釈迦も、イエス様のように人類を善導することに最善を尽くしたのです。ただ、摂理が進むとともに、人類を救うメシアが時代的に変わっただけです。今までの仏教徒たちの修行の結実に、新しい時代の摂理を接ぎ木してください。「統一原理」を研究してください。そうすれば、仏教徒たちにも同じ脈が流れる新しい真理が、少なからず発見できるでしょう。あまりに固執した考えにだけ浸らず、新しい真理を受け入れ、私たち仏教徒の真理に新時代の真理を接ぎ木させてご覧なさい。そうすれば、素晴らしい信仰の道が、もろもろの仏教徒たちに展開されると確信します。
今、この時代には文鮮明先生が皆さんの釈迦牟尼仏であり、弥勒仏です。誠心誠意、仏を供養してご覧なさい。成約時代の新しい弥勒仏とその真理について、排斥の先頭に立つのではなく、真なる仏教徒の人格を示す時であると考えます。
謙遜、冷静にして、人の過ちを見ずに、磨き上げてきた様々な仏教徒の慈悲の美徳を表し、行動してご覧なさい。真の真理とは何でしょうか。時代によって生きていく人間の方向は、いくらでも変化し得るものです。自然界を眺めてご覧なさい。神様が創造された被造物は、環境によって種類はあるとしても、大きさと色合いは、季節ごとにいくらでも変わるではありませんか。信仰をする人間の本心の声を、誰が妨げることができるでしょうか。しかし、人間の本性の声に従った人間の生活の姿、それ自体は、神様の前に様々な次元で喜びの対象になり得るのです。
それゆえ、固執として一箇所にのみ依存しないで、思考の領域を広げてご覧なさい。「イエス様と釈迦が、兄弟のように過ごす」と言えば、皆さん、仏教徒は釈迦を信じないでしょう。しかし、それは事実なので、信じるべきではありませんか。神様は、私たちが一つになって働くことを願われます。イエス様は、釈迦をどのように呼ばれると思いますか。常に謙遜で静かな微笑を浮かべて、「お釈迦様」と呼ばれます。話が始まると、とても明るい表情を浮かべながら、「そうです」、「そうでしょう」、「そうしましょう」と言われながら、慈愛に満ちた語調で話されます。
仏教徒の皆さん!キリスト教徒の皆さん!天上で私たちが皆一つになり、平和の世界を成したので、地上でも和合すべきではありませんか!新時代の新真理で一つになりましょう!人類の平和運動に渾身の力を尽くされる文鮮明先生は、成約時代のメシアであり、弥勒仏であられます。これは、四大聖人たちのセミナーにおける、一様の結論です。仏教とキリスト教が互いに一つになり、神様を解放しましょう!
(2001年4月6日)
孔子様のメッセージ
人間は、肉身をもって地上で生きるとき、目に見える現実の状況を踏まえて規範生活をします。それゆえ、人間は地上の限られた範囲の中で見聞きし、感じるほかはないでしょう。ですから今、地上の人々に、私たち四大聖人と聖賢たちがセミナーを通して決意した内容を詳しく告げたとしても、目に見えないので生々しく感じられないことでしょう。
しかし、ここの四大聖人と聖賢たちは、地上で生活するとき、たとえメシヤでなくとも、個人的な快楽と家庭の安楽な生活を捨て、誰にも負けないほど人類の救いのために悩んだものと自負します。私たちは、人生自体の意味を強調しながら、人類が正しく良く生きていくよう真理を宣布しました。そうした聖人、聖賢たちが共にセミナーを開いたのです。
肉身を脱いだとしても、地上人が残した教友と信徒たちを自分の体のように考え、より正しい道に導くために本当に努力し、骨を折る中で、こうしたセミナーを共に開いたのです。既に言及しましたが、天の国、ここではイエス様もお釈迦様もみな、この上なく和睦しています。イエス様が仏教徒に御自身を紹介され、「一堂に集まり、礼拝を捧げ、仏に供養もしましょう。そして、各自が抱いている信仰の根本について話しましょう」とおっしゃいました。お釈迦様は、仏教徒の集まりではなく、キリスト教徒の集いで深くお辞儀されて、「皆さんにごあいさつできる機会を頂き、ありがとうございます」と謙遜な姿で話され、共に和解することを提案されると、一部からはざわめきの声すら上がりました。しかし、この時イエス様が「兄弟姉妹の皆さん、私たちはみな神様の子女であり、今こそ兄弟姉妹として、神様にむつまじい姿を見せるべき時です」と慈愛に満ちた姿で話されると、雰囲気が厳かなものに変わりました。この時、神様が静かな光でぐるぐると回られて、天地が明るい光に変わると、一同は悦惚となり、驚きを禁じ得ませんでした。
私たちのセミナーの期間中、神様は特別な配慮をされました。今後、こうした集いが続いていくものと信じます。そして、私たち四大聖人と聖賢たちが頻繁に集うことで、宗教の派閥がなくなるはずであり、互いの真理の門も解放されるものと考えます。
儒教徒の皆さん、孔子が何を話せば信じるでしょうか。全世界には人種も宗派も国ごとに文化的な差異も少なくなく、その風習もそれぞれ異なります。しかし、変わることのないたった一つの共通点は、人間としての姿です。黒人、黄色人、白人がもっている共通点は、人間としての姿です。白人、黒人、黄色人などの区分なしに、病院に行けば医師は彼らに同一の治療方法を用います。人間の構造が同一であるからです。もちろん、治療の程度は違うとしてもです。これは何を意味するのでしょうか。それは、人類の主人が唯一、創造主お一人だという事実を意味します。創造主は、正に神様であられます。神様が人類の父母様です。私たちは、父母様に侍って生きれば、それで万事が意のままになるのです。
ところが、なぜこんなに複雑なのでしょうか。人類の始まりが誤り、様々な宗教が分かれて出てきたからです。それゆえ、もろもろの宗教を一つに統一するために、神様が地上に文鮮明先生を遣わされたのです。その師は、「すべての宗教の教理は、間違っているわけではないので、みな一つになろう」という真理を掲げられました。私、孔子は、各宗教が自分だけに固執して正しいと主張するため、今日の人類の現実がこのように複雑であると考えます。それゆえ、少しずつ譲歩し、他宗教の教えも包容する姿勢が切実に求められる時であると考えます。地上でいくら雑多に騒いだとしても、この天上世界の宗教の代表たちは、一つになりました。何によって一つになったのでしょうか。一つの真理を中心として一つになったのです。私たちはみな、神様を父母として侍って生きようと堅く決意しました。地上の儒教徒の皆さんは、どうしますか。皆さんも一つの真理を中心として一つになるべきでしょう。
仏教徒の皆さん、あなた方の最高の師、お釈迦様が神様を人類の父母様としてお迎えしました。そして神様は、皆さんの最高の弥勒仏になることでしょう。地上の皆さんは、私心を離れ、この無形世界で過ごすことになる皆さん自身の姿を、点検しながら生活してください。人類は一つであり、一民族であり、一血族です。唯一なる神様に仕えるため、その法度を教えるため、神様は文鮮明先生を皆さんに遣わされました。八十歳の御高齢の身であるにもかかわらず、人類解放のために、そのお方が今、何をされているか確認してごらんなさい。
地上の皆さん、皆さんがとどまる所、永遠なる居場所は天上です。地上は、瞬間的な生の訓練所にすぎません。結実期には、混じり物のない穀類だけが倉庫に入っていきます。皆さんは、成熟した生を備えなければなりません。
儒教徒の皆さん、最近のイエス様のメッセージ、お釈迦様のメッセージ、私、孔子のメッセージ、その他の聖賢たちのメッセージを参考にして、賢明に判断し、皆さんの態度をはっきりするようにお願いします。
(2001年4月7日)
ムハンマド様のメッセージ
神様は、人間を創造され、「その姿一つ―つをすべて、神様の喜びの実体対象として造られた」と言われました。しかし、神様の本来のみ旨に反し、人間始祖が過ちを犯すことにより、人類は出発から神様のもとを離れてしまい、横道にそれた歴史が流れるようになりました。
ここから人種が分かれ、宗派も生まれ、文化も分かれ、地域ごとに生活様相も多様に分かれ、変化するようになりました。しかし、私たち人間の創造主としていらっしゃるお方は、唯一、神様お一人でした。人間を創造された主人公は、お一人であるのに、宗教と宗教、人種と人種の間で数えきれないほど闘争があるため、地上を眺める神様の心境は、いかばかりでしょうか。息子たちが毎日、互いに争い、自分のものを主張し、正邪を分けながら争い合っているとき、人類の父母の立場にあられる神様にあって、子女たちのこうした姿を眺める心情は、いかばかりでしょうか。地上人が神様の全体的な歴史の方向や流れ、また神様と人間の関係を詳しく知らないがゆえに、長い間、宗教の和合が成されなかったのです。
神様は、人類の父母様です。私たちが主張する教理や真理の根本を突っ込んで考えてみると、すべてが一つなのです。どんな宗教であれ、悪をあがめ奉れという教えがあるでしょうか。方法は違っても、根本は、すべて善を志向する真理であり、教理なのです。それは、神様が絶対善と絶対愛の本体であられ、各宗教の教理には「愛し合いなさい」という教えが内包されているからです。
ですから、各宗教の根本的な教えは、すべて同一です。各宗教の教えを包容して一つの宗教に統一するのが、神様の根本のみ旨です。それが、神様に平安のうちに侍ることなのです。神様は、数多くの日々を待ちわびて地上に文鮮明先生を遣わし、そのお方の教えを通して、宗教を統一されることを願われます。それゆえに、このお方は「統一原理」を解明されたのです。
ムスリム(イスラム教徒)の皆さん!あなた方も神様の子女として生まれたので、今こそ一つの思想に統一されることを願います。その理由は、神様、大いなる神様が一つに統一されることを切に願われるからです。ムハンマドの時代の神様も、今の神様も、 不変なる私たちの神様であり、私たちの父母様です。今は、全人類が一つの兄弟愛を享受し、平和世界を具現すべき時代です。神様は常に、それを願われます。
宗教の統一なくして人類の平和実現は、ほど遠いのです。ムスリムの皆さん!ムハンマドはお願いします。独特な私たちの信仰と教理をもって、他の宗教に痛みを与えることなく、心をみな開いて、もろ手を挙げて、すべてを受け入れなさい。そうして対話の門を開き、教理の門を開いて、一つに束ねてしまいなさい。イエス様もお釈迦様を受け入れ、お釈迦様もイエス様を受け入れ、四大聖人、聖賢たちすべてが、一つの思想に統一されました。このようなセミナーの様子を見て喜ばれる神様の姿を、私たちは体験しました。こうした中で私たちは、互いに誓い、決意しました。
地上に来られた文鮮明先生は、神様のみ旨を代わりに伝え、人類の前に真の父母として現れ、これまでばらばらに分かれていた人類を統一するため、メシヤとして来られたお方です。私たちムスリムも、謙虚な姿勢で、そのお方のみ旨を受け入れるよう願うものです。これまで皆さんが仕えてきた神様は、神様の愛そのものだったのです。神様の愛を受け入れたのち、一日も早く他の宗教の信者と一つになって働くとき、神様もムハンマドも、あなた方を高く称賛することでしょう。
そして、静かに落ち着いて「統一原理」を精読し、分析してごらんなさい。私、ムハンマドも、原理セミナーで「統一原理」が人生の真なる指針書であることを悟り、心をさっと開きました。これは、一朝一夕にできるものではないでしょう。しかし、いずれにしろ行かなければならない道なので、近道を選び、短い人生の道で落伍者にならないよう切に願うものです。
(2001年4月9日)
ソクラテス様のメッセージ
私、ソクラテスは、アテネの元老たちから審判を受けることになりました。私が主張したすべての理論が当時の市民の精神を混乱させたとしても、彼らが一人の人間の生命をもう少し大切に、高貴に感じていたら、という考えに浸ることが多くありました。人間の一生命は、肉眼で見えるもので判断すべきでないからです。一握りの微々たる万物 であれ、神様の創造のみ手によらない創造物がどこにあるでしょうか。 そして人間は、神様の作品の内、 最も大切で崇高な存在として、あらゆる知性と誠意をくして造られた神様の子女ではないでしょうか。
神様の子女として造られた人間は、それを知らずに生きてきました。地上での父母と子女の関係を考えてごらんなさい。父母と子女は常に慕わしさの中で、お互いの出会いと離別に、どれほど胸を痛めるでしょうか!父母と子女は、l つ屋根の下で愛情を交えて対話し、幸福に生きるべきではないでしょうか。神様も、そのように生きることを願われることでしょう。人間の創造主であられる神様は、愛の本体であり、情の塊自体ですが、人間の創造以後、誤った歴史が流れる中で、神様と人間の関係が断絶されたのです。このような状態にある神様の心情は、いかばかりでしょうか。
知性人の皆さん!私、ソクラテスは、アテネの陪審員たちから不信され、裏切られた男でした。当時の悔しさと悲しみは、語り尽くせませんが、この神様の傍らに来てみると、さらにもう一つ悲しくて悔しいことがあるのを知りました。それは、神様と人間の関係を知らなかったということです。これより悲しく悔しい事情が、どこにあるでしょうか!自らの父母を知らず、人間をこの上なく愛してこられた神様の愛を知らず、悠久なる歳月をかけて子女を待たれる神様の痛みを、私たち人類は知らなかったのです。 今や、こうした事実を知ったソクラテスの痛みは、表現するすべがありません。
知性人の皆さん!父母と子女の間で、知識と学問を自慢して生きてきましたか?人間の生活において最も大切なのは、父子の関係を回復し、維持していくことです。これは、いかなる学問の発見よりも偉大なことです。しかし、肉身を支えるために、地上であらゆる知性社会の中心的立場がとても大切であることを、私が知らないはずがあるでしょうか。しかし、自らの父母を大切にし、敬うことは、いかなるものとも比べようのない、高貴なことです。それを肝に銘じなさい。この神様の傍らで、ほかに何が必要だというのでしょうか。「神様は私の父母であり、私は神様の子女だ」ということは、血統の立場が最高位にあることを意味します。
知性人の皆さん!肉身は、地上で生活するときだけ必要であり、皆さんのもつ知識と学問もまた、大体そのようなものです。それゆえ、ここに入籍する来世の準備のためにも、内的な知識を備えなければなりません。あまりに無知で何も知らないまま、自身の学問だけに執着し、ある日、突然に肉身と霊魂が分離すれば、その霊魂は、どこに行くのでしょうか。これは深く考えてみるべき問題です。来世は間違いなく存在し、私たちの霊魂は、ここで永存するという事実を、肝に銘じなさい。 したがって、備えなき霊魂は、ここではとどまる所がありません。地上で、道端の乞食を見たことがありますか。乞食は、自分の居場所がないため、道端が自分の居場所です。皆さんの霊魂は、とどまる居場所を地上で備えなければなりません。
私、ソクラテスは、地上生活において、人間の外的な学問と知識も貴重でしたが、それよりも人間の内的な良識と真理、いわゆる哲学を常に追求しました。これを解明するために、どれほど多くの時間を投入したか分かりません。地上で、刹那的な生活を送るためではなく、人間の内的真理を追求しているうち、知性人の立場にゴールインしたのです。永遠なる居場所に来るのに、どうして苦労と努力の代価が不要でしょうか。その苦労と努力と投資の結実として、ここで永遠なる幸福の立場にとどまるようになったのです。
私が知性人にこのようにお願いするまで、幾度かの苦い峠を通過しました。それはどうしてでしょうか。ここも、地上のように様々な姿で生きているのです。そして、地上のように多様な宗教と宗派があるのです。ところが、ここの知性人たちの集いで、「人生の行くべき道」をテーマに、「統一原理」の講義を聞くことになりました。ここで私は新しい真理に触れたのですが、それは人間の根本なる生き方を悟らせる真理でした。この真理によって実に驚くほど変わっていく自らの姿に、自尊心がとても傷つくこともありました。幾度も首を横に振って、この真理を否定したく思いました。それが真理でないことを願いました。この途方もない原理が、どこから出てきたのかを知って、幾度か心の葛藤が起きました。知性人としての威信と体面が根こそぎ吹っ飛んでしまう私自身が、とても恥ずかしくもありました。しかし、これは間違いなく真理なので、どうしようもありません!それで、私、ソクラテスは、自分のすべてを捨てたのです。知性も自尊心も、みな捨てました。そして、この真理の前にすべてを投入するつもりで、地上の皆さんにメッセージを伝えるのです。
知性人の皆さん!皆さんの知性を総動員するとしても、神様の知性と比較することができるでしょうか。天地万物を創造されるとき、何らの考えや計画もなく万物がぽんぽんと生じたのでしょうか。皆さんの知性と能力をすべて売っても、神様の能力と知性を買うことはできません。科学の力がいくら発達したとしても、自然のことわりを変えることができるでしょうか。科学の主人公は、正に神様です。ソクラテスが発見した神様の能力と神性を、すべて表現しきることはできません。それだけではありません。今、このレポートをしている女性は地上人であり、ソクラテスは霊人です。この事実についても知性人は、理解できるでしょうか。この事実もまた、神様の能力です。時が来たので、天の秘密を地上人に告げ、神様の子女たちを正しく導くためです。
神様の心情を確認したので、この霊界では、すべてが簡単に解決されます。方向も一様に同一です。しかし、地上人においては、すべてが大変複雑です。それは、正しく方向が設定されていないからです。
知性人の皆さん!神様は、子女を正しく立てるために、様々な方法を動員して苦労していらっしゃいます。皆さんは、神様を見ましたか。神様は無形で、体のないお方です。しかし、子女を探そうとする神様の一念は、数千年が過ぎても変わることはありませんでした。そうして、神様は、そのみ旨を果たすために文鮮明先生を地上に遣わし、人間が歩むべき方向を定めるために、私たち人類に「統一原理」を明らかにしてくださいました。その「原理」とは、人間の知性で書かれたものではなく、文鮮明先生が神様と議論し、サタンと血闘を繰り広げて探し出した、人類救世の書なのです。それを精読してごらんなさい。そこには、人生のすべてが含まれています。それを精読してごらんなさい。そうすれば、皆さんの知性が皆さんの霊魂を、どの程度呼び覚ましたかが分析でき、皆さんがどのように生活すべきで、生活の方向をどこに定めるべきかを悟れることでしょう。
知性人の皆さん!皆さんが考えた偉大な人物、偉大な尊敬の対象とは誰でしょうか。自問自答してごらんなさい。彼らの大部分は、地上生活に必要な内容を残した聖人たちであることでしょう。しかし、皆さんの来世の生活にまで責任を負おうとする偉大なる師を、皆さんはいまだに探せずにいるのです。文鮮明先生は、私たちに来世の永存を悟らせてくださり、私たちの霊魂にまで責任をもとうとされる、神様に代わる使命をもって、人類を永遠なる平和の道に導いていらっしゃるのです。
そのお方を研究してごらんなさい。そして、そのお方よりも偉大な師がいるか、比較して探してごらんなさい。もし、地上に来られた偉大なる師として、このお方より偉大な師がいないと思うなら、皆さんはどうしますか。深刻な立場であり、深刻な時間であり、皆さんの人生に重大な決断を要する時間になるのです。人生は長くはありません。来世は明らかに存在します。それならば、真の師に会って来世を研究し、備えるのが賢明だと考えるべきではないでしょうか。
皆さんの学問も知性も、神様に誇るものとはなりません。謙虚な者のみが、神様と共にとどまることができるのです。そのお方の偉大な真理を学び、皆さんのものとして消化して、永遠なるこの場に来るとき、無知な乞食の姿になることは避けなければなりません。最高の知性人とは、神様を自らの父母様として迎え入れる人でしょう。そのような人のみが、最高の知性人だと結論づけたいと思います。
(2001年4月10日)
アウグスティヌス様のメッセージ
私、アウグスティヌスは、神様に仕えることにおいて、誰にも劣らない最高の立場に立ちたいと思っていました。ところが、こちらに来て知ってみると、誠に恥ずかしく、愚かな立場になってしまいました。私は、神様に父母として侍ることができず、ただ最高の神様としてのみ侍り、父子の関係など念頭にも置くことができなかったのです。私の信仰と思想は、神様の前に極めて小さな価値をもって残っているのみです。
地上で熱心に信仰するキリスト教徒たちともろもろの宗教者の皆さん!四大聖人や聖賢たちのメッセージを何度も読んで、多くの覚醒があらんことを願うものです。私たち聖賢と四大聖人たちの集いは、周期的に開かれます。この霊界で、宗派の集いを開くのは、それを通じて、様々な次元に分裂した人々に神様の思想を知らしめるためです。
地上人たちは、イエス様がキリスト教徒だけを訪ねると考えますが、そうではありません。宗派の代表者たちは、教派を超越し、各宗派の教理と教えについて、各自の見解を交換します。そしてついには、すべての宗教は一つに統一されなければならないという結論に達します。各宗派をあまねく巡りながら、信徒たちと対話して共に礼拝を捧げたのち、互いに経験した事実を中心として、四大聖人と聖賢たちはセミナーを開きます。その際、多様な主題が出されますが、私たちは互いに和気あいあいとした雰囲気の中で、それぞれの主題を論議します。
ここで、実に興味深い出来事がありました。イエス様がお釈迦様の説教を熱心に傾聴されたのち、その説教を仏教徒が集まった他の場所で、そのままお伝えになりました。この時、仏教徒たちは、「イエス様はキリスト教の教祖なのに、私たちの師の教えを伝えるのですか」と質問しました。ところが、イエス様の返答がとてもおもしろかったのです。なんと、「私も釈迦牟尼仏になれるか試してみました」と言われたのです。このとき、ここに集まった霊人たちは、共に笑いました。イエス様は、本当に何の欲も私心もありませんでした。ひたすら神様の子女になることだけを願う、純真無垢で謙遜なイエス様の態度に、仏教徒たちも感動したようでした。
宗教者の皆さん!真理は永遠なものです。真理は一つだけです。それは、神様がただお一人であり、神様が真理の本体であるからです。神様は人類の父母であり、私たち人類は神様の子女です。このような状態で、数多くの宗派が存在する理由がどこにあるのでしょうか。各宗教ごとに真理の核心を要約してごらんなさい。究極的な終着地は、一つの方向のみです。各宗派の長所を捨てよというわけではありません。一つの共通目的のもとに統一せよというのです。神様は、様々な子女たちを見て喜ばれるでしょうが、彼らが争い合う姿を見れば、胸が痛くはないでしょうか。子女たちが互いに和睦するとき、聖霊が共にあることでしょう。
私たち四大聖人と聖賢たちは、セミナーで最終の結論を得ました。「私たちは互いに愛し合い、一つになろう」と決意しました。まず、天上で宗教の代表者たちが一つになってこそ、地上も一つになると信じています。宗教が一つに統一されなければ、神様の心も安らかではあり得ません。それゆえ、人類の平和は、神様の理念によって実現するのです。
宗教者の皆さん!もろもろの聖賢たちと四大聖人のメッセージを、肝に銘じるようにお願いします。皆さんには、こうした黄金時代は、再び訪れないでしょう。私たちが、地上人に天上の秘密を伝え続けることができると思いますか。神様の特別な配慮によって下さったこの黄金期を、皆さんはしっかり受け止めて、信仰の本質と根本を悟り、神様の子女の立場に正しく立ってください。
私、アウグスティヌスに、最後のお願いがあります。数多くのキリスト教徒と地上の宗教者の皆さん!地上で人類の平和のために、殉教者の道を歩み行かれる一人の師がいらっしゃいます。そのお方こそ、文鮮明先生であられます。ですから、その方を心から迎え入れてください。四大聖人と聖賢たちはみな、そのお方のメシヤ思想を固く信じ、その師が行かれる道を共に行こうと、しっかりと決意しました。ここでひたすら一つの方向を定めて、熱心に努力し、愛し、尊敬して、すべての宗派を超越しようと決意しました。そして私たちは、文鮮明先生の思想を教えているのです。これこそが人類を平和に導く道であり、真理の道だからです。宗教者の皆さん!争ってはなりません。互いに一つに和合してください。一つになった所に、神様は共にいらっしゃることでしょう。
(2001年4月10日)
霊界五大教団代表の決意文
一、神様は人類の父母であられることを、宣布します。
二、文鮮明先生は人類の救世主、メシヤ、再臨の主、真の父母であられることを、宣布します。
三、「統一原理」は人類救援のための平和のメッセージであり、成約時代の福音書であることを、宣布します。
四、天宙平和統一は、真の愛を中として超宗教、超国家、超人種の「ために生きる生活」を通して完成することを、宣布します。
五、五大教団代表は、真の父母に侍り、神様の国と世界平和のために和合、統一、精進することを決意し、宣布します。
2001年12月25日
キリスト教、儒教、仏教、イスラーム、ヒンドゥー教五大教団代表一同
代表者イエス