み言

目次
  1. み言に学ぶ統一原理【前編】
  2. 総序について
    1. 人間の幸福と矛盾性
    2. 人間の無知と淫乱の弊害
    3. 宗教と科学
    4. 新しい真理の使命
    5. 「統一原理」とは
  3. 創造原理について
  4. 神の二性性相と被造世界
    1. 神の二性性相
    2. 神と被造世界との関係
  5. 万有原力と授受作用および四位基台
    1. 万有原力
    2. 授受作用
    3. 正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
  6. 創造目的
    1. 被造世界を創造された目的
    2. 神の喜びの為の善の対象
    3. 第一祝福 個性完成
    4. 第二祝福 子女繁殖
    5. 第三祝福 万物主管
  7. 創造本然の価値
    1. 創造本然の価値の決定とその価値の基準
    2. 創造本然の知情意と創造本然の真美善
    3. 愛と美
  8. 被造世界の創造過程とその成長期間
    1. 被造世界の創造過程
    2. 被造物の成長期間
  9. 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界
    1. 無形実体世界と有形実体世界
    2. 被造世界における人間の位置
    3. 肉身と霊人体との相対的関係
  10. 堕落論について
  11. 罪の根
    1. 生命の木と善悪を知る木
    2. 蛇の正体
    3. 天使の堕落と人間の堕落
    4. 善悪の実
    5. 罪の根
  12. 堕落の動機と経路
    1. 天使の創造とその使命および人間との関係
    2. 霊的堕落と肉的堕落
  13. 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
    1. 愛の力と原理の力から見た堕落
    2. 信仰の為の戒めを下さった目的
    3. 信仰の戒めが必要な期間
  14. 人間堕落の結果
    1. サタンと堕落人間
    2. 人間世界に対するサタンの活動
    3. 目的性から見た善と悪
    4. 善神の業と悪神の業
    5. 堕落性本性
  15. 自由と堕落
    1. 自由の原理的意義
    2. 自由と人間の堕落
  16. 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
    1. 創造原理の絶対性と完全無欠性のために
    2. 神のみ創造主であらせられるために
    3. 人間を万物の主管位に立たせるために
  17. 人類歴史の終末論について
    1. 神の創造目的完成と人間の堕落
  18. 救いの摂理
    1. 救いの摂理はすなわち復帰摂理である
    2. 復帰摂理の目的
    3. 人類歴史はすなわち復帰摂理歴史である
  19. 終末
    1. 終末の意義
    2. 終末の兆候に関する聖句
    3. 終末と現世
  20. 終末と新しいみ言と我々の姿勢
    1. 終末と新しい真理
    2. 終末に際して我々がとるべき態度
  21. メシアの降臨とその再臨の目的について
  22. 十字架による救いの摂理
    1. メシヤとして降臨されたイエスの目的
    2. 十字架の贖罪により救いの摂理は完成されただろうか
    3. イエスの十字架の死
    4. 十字架の贖罪による救いの限界とイエス再臨の目的
    5. 十字架に対する預言の両面
    6. 十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句
  23. エリヤの再臨と洗礼ヨハネ
    1. エリヤの再臨を中心とするユダヤ人たちの心的動向
    2. ユダヤ民族の行く道
    3. 洗礼ヨハネの不信
    4. 洗礼者ヨハネがエリヤになった理由
    5. 聖書に対する我々の態度

み言に学ぶ統一原理【前編】

総序について

人間の幸福と矛盾性

人間は誰もが幸福な生活を追求しています。幸福を享受しようとすることは、誰も抑えることのできない人間の欲望であり理想です。数千年の人類歴史において、このような理想を持たない人は一人もいないでしょう。(1972・11・26)

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人々が願う希望の中心とは何でしょうか。幸福です。幸福な世界です。その幸福を中心として平和や自由や理想が連結されるのです。それでは、その幸福をなぜ今、私たちが願い、求めるようになったのでしょうか。なぜ最初からその幸福が始まらなかったのでしょうか。このようなすべてのことが問題です。(1980・4・15)

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人間の不幸の原因とは何でしょうか。今まで人間たちは、この不幸の原因を解明し、完全に喜び、幸福でいられる時を迎える前に、幸福という言葉を使ってきました。しかし、幸福という言葉を使うことはできても、実際には幸福な生活ができなかったということは、歴史的な過程を通してよく体験してきていることです。

それでは、人間たちは、どうして幸福と満足を得られなかったのでしょうか。それは、私たちが表現し難い負債を背負っているからです。これが核心的な問題です。私たちが背負っている負債を清算しなければ、個人と家庭、国家、世界に幸福が訪れることはありません。

皆さんが生まれる前から、想像もできない悲しみの歴史、闘争の歴史が展開してきたことをよく知っているでしょう。そして、自分の人生を中心として見てみるとき、その心と体を中心として、無限な闘争の交叉路を経ながら生きていることもよく知っているはずです。(1958・4・28)

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私たち人間は、その個体の中で、悪の欲望を達成しようとする邪心の指向性と、善の欲望を成就しようとする本心の指向性が、それぞれ異なる欲望を前面に立てて、熾烈な闘争を展開していることを感じながら生きています。私の体であり私の心なのですが、心と体が分裂している自分であることが分かるのです。(1998・6・11)

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神様は絶対者でいらっしゃるので、目的とするところも一つです。絶対的です。神様が絶対的な目的をもって人を造ったのなら、その造られた人がどうして二つの目的を持つようになったのかということです。心が目的とすることと体が目的とすることが、なぜ異なるのかということです。宗教はこれを、堕落したからだと言っています。(1971・1・8)

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人間の心と体が葛藤しているという矛盾性は、正に人間始祖の堕落のためです。このような心と体の分裂、相克は、家庭と社会、さらには国家、世界、天宙の分裂と不幸へと引き続いてきたのです。(1998・6・11)

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思いもよらない人間の堕落によって、神様の創造の動機と目的を蹂躙した結果になってしまいました。堕落は苦痛と悲しみと不幸の源泉となり、人間たちが嫌うあらゆる怨讐の原因となりました。これこそが人類の怨讐であり、万物の怨讐であり、創造主の怨讐です。(1962・4・17)

人間の無知と淫乱の弊害

堕落は、サタンの利己的な偽りの愛によって天道に背いたことであり、結果的には、神様と真の愛を知らない無知に陥ってしまったことです。こうして人間はサタンに従い、神様を失って本然の価値も失ってしまったのです。幸福の根本要因である、真の愛を中心とする真の家庭を成し遂げられませんでした。(1998・6・11)

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真理を忘却させたのが堕落でした。そして、神様に讒訴できるサタンが出てきたのが堕落した世界です。僕の立場にいたサタンの根本を突き止めなければなりません。聖書には「真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)とあります。無知のままでは完成できません。(1972・11・13)

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全世界が今、宗教圏も含めてすべてめちゃくちゃになっています。キリスト教であれ、仏教であれ、ユダヤ教であれ、イスラームであれ、すべて男女関係がめちゃくちゃです。日本もそうです。宗教を信じていても、宗教の集会の場に行くと、若い男性と女性たちはそこを恋愛の場だと考え、何度か付き合っては問題を起こしています。宗教自体も、フリーセックスの風潮や男女問題の混乱を収拾できる方法がありません。乗り越えて、それを解放する方法がないのです。(1994・3・14)

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アメリカのようなキリスト教国家が、どうしてこのように青少年の堕落時代になったのでしょうか。それが謎です。これはなぜかと尋ねても、どの神学者も答えられません。キリスト教は伝統的な文化を中心として家庭倫理を立てており、聖書を見れば淫乱というものは赦すことのできない骨の中の罪だと規定しているのに、聖書観を中心として信仰するこのようなキリスト教文化圏を代表するアメリカが、どうしてこのように個人主義化し、このような淫乱にはまっていったのかというのです。(1990・12・30)

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青少年の淪落と家庭破綻の問題に、いかなる政府も手を出すことができません。神様も堕落していくアダムとエバに手を出すことができなかったのですから、これに手を出して治めることのできる存在はいないというのです。いくら政治的な理念をもっていても、教育理念や思想理念をもっていたとしても、青少年の淪落と家庭破綻を防備する道がありません。(2000・8・31)

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今日のアメリカ、ヨーロッパ、日本など、世界の先進諸国を見てください。東西四方に押し寄せるフリーセックスと淫乱の波を、誰が防ぐことができますか。子供たちの問題で苦痛を受け、苦しんでいるではないですか。これが大問題だというのです。末梢神経の刺激を追い求めていく享楽主義、便覧な愛にも満足せず、麻薬や幻覚剤を求めていく、そのような世界になっています。それは、すべて体が死亡へと引っ張って行く道です。決して心が行こうとする道ではありません。(1990・3・30)

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堕落が淫乱によって起きたことを知りましたが、それではなぜ心と体がこのように闘うのでしょうか。それは、心は神様に属しているのですが、堕落することによって、体がサタンに属するようになったからです。(1994・12・4)

宗教と科学

宗教は、人間の心と体を統一して救援するための修理工場として生じたものです。ですから、宗教が教示する教理には、その方法が示されています。それは何でしょうか?心を中心として体を打つ、というものです。心と体が闘っているので、宗教というものは、心を中心として体を治めようとするのです。体を弱くするということです。それで、断食せよ、眠りを克服せよ、独身生活をせよ、と言うのです。体が好むことをすべて拒否します。そして、愛というものをすべて淫乱なもの、悪いものとして扱ってきたのです。愛の問題で天下が滅びたからです。(1990・2・21)

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人は心と体という、それぞれ異なる二つの存在を持っています。これが互いに一つにならなければなりません。互いが完全に一つになるためには、完全に同じにならなければなりません。完全に知らなければならないということです。心が知らず、体が知らない、これではいけません。これが必ず一つにならなければならないのです。このように考えるとき、今まで科学が外的な世界の知識を発展させてきたのであり、宗教が内的な世界の知識を発展させたのですが、これが分かれているのです。これが一つになるためには、科学者も宗教を知らなければならず、宗教者も科学を知らなければなりません。(1979・3・25)

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私たち人間を見てみれば、体があり、心があります。体は外的であり、心は内的です。横的に見れば、人間は外的、内的にできています。神様も同じです。どのようになっているかというと、神様も体と同じものがあるということです。また、心と同じものがあるというのです。それで、人間はこの地上において一つになり、神様は霊的な面で一つになります。科学が横的な面で出会えば、宗教は縦的な面で出会わなければならないということです。そのように考えるとき、科学を通しても神様を求めることができ、宗教を通しても神様を求めることができるのです。(1979・3・25)

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十六世紀の後半に宗教と科学が分かれましたが、終末である今日に至ると、再び一つの目的を達成できる帰一の段階に越えてきています。ここで先に科学が統一の形態をとっていますが、これはなぜかというと、アダムが完全な人として創造されるまでには、まず体が造られ、あとから生気が吹き入れられたように、創造の原則がそのようになっているからです。今日の宗教と科学は、互いに対立する立場におかれていますが、原則はそうではないというのです。終末には必ず体を造ったあとに生気を吹き入れ、神様の代わりに立ち得るアダムを造られたのと同じように、この歴史の終末的な現象も、そのように帰一されなければならないのです。(1957・10・6)

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人間が科学を発達させた動機には、様々なものがありますが、究極的にはあくまでも、人類共同の福利、すなわち人類共同の平和と繁栄を実現することにあると見て間違いないでしょう。しかし、科学の領域が細分化されて、その方法がより一層分析主義に流れたために、人類共同の福利という価値的な方向とは少し異なる方向に発展してきました。

人間が科学に期待したことは、人類共同の福利だったのであり、主体である人間の幸福でしたが、これに対して、科学が挙げた成果は、対象としての物質的環境の改善また生活手段の開発だったのではないでしょうか。つまり人間が望んだことは、主体の福利でしたが、科学が成就したことは、対象の改善だったのです。したがって、人間の要望と科学の成就(成果)との不一致を見るとき、人間の主体性の喪失がもたらされているといえます。

科学では、生活環境と手段の改善、開発のような対象の問題解決に力を注ぎながら、同時に、主体性の問題も共に扱うのが望ましいことです。物質的および分析的な方法とともに、精神的および統一的な方法を併用し、さらには、人間の尊厳性を肯定しながら、一定の道徳的価値観の土台の上で科学が扱われなければなりません。人間の尊厳性が尊重される科学的風土が造成されるとき、公害のような不安な問題は、未然に防止できるのです。(1973・11・26)

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人間を含む万物は、質量的な側面と形相的な側面を共に備えた統一的存在です。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体の統一体であり、植物は、生命と物質の統一体であり、そして機物は、作用と物質の統一体です。したがって、人間の生活を向上させるにおいても、肉身の物質的生活だけを改善させていくことでは、完全な幸福は実現されません。物質的、精神的、両面の生活を統一的に同時に改善していくとき、初めて本当の幸福が到来するようになるのです。(1972・11・26)

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今日では、すべてのものが限界に至りました。政治なら政治、哲学なら哲学、宗教なら宗教、すべてが限界に至っているのです。今まで宗教は宗教としての使命を苦労しながら遂行してきましたが、究極的に探し立てなければならなかった一つの基準は、いまだに紹介できずにいます。政治もそうであり、哲学もそうであり、文化的な歴史路程もやはりそうです。

しかし、今この時は、どのみち全宇宙が一つの目的を通じた統一の理念を中心として動いていかなければならない時です。宇宙を創造された創造主がいらっしゃる以上、それは必然的な課題なので、創造主の理念に通じるようになるそのときには、今まで信じてきたその正道、今まであがめてきたそのいかなる文化的な条件をもってしても、そのような問題を打開しようにも、到底打開し得ないのです。

言い換えれば、今まで長い歴史過程を通して人間の良心を中心として、また体を中心としてそのような問題を解決しようとしましたが、完全に解決することはできませんでした。つまり、そのような人間の究極的問題を解決しようとすれば、今までの宗教、今までの哲学、今までの科学では到底できないということです。

ですから、いくら二十世紀の科学文明を誇っている現代人だとしても、新しい宗教の理念を探し出すことのできる新しい科学、哲学それ自体にとどまることのない新しい理念の哲学、今までのすべての宗教が持つことのできなかった新しい理念をもつ宗教を探し求めなければなりません。(1957・9・29)

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新しい真理の使命

宗教は何を教えてあげなければならないのでしょうか。すべての宗教はまず神様について教えなければなりません。神様について教えてあげない宗教は宗教ではありません。神様について教えてあげるときにも、漠然とした内容を教える宗教は不確実な宗教です。

それでは、どのように教えてあげる宗教が真の宗教なのでしょうか。神様がいらっしゃるならどのような方なのか、神様の人格はどのようなものなのか、また、神様の愛はどのようなものなのかについて教える宗教が真の宗教です。

多くの宗教の教主たちが求めていく所は、心が永遠にとどまることのできる所です。もし彼らの宗教にも真理があるとすれば、その真理は、神様をはっきりと教えてあげ得るものでなければなりません。また、神様と人間との関係をはっきりと教えてあげ得るものでなければなりません。そして、教えてあげるときにも、愛を中心として教えなければ、それは流言飛語にすぎません。(1967・5・28)

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宗教を中心とした既存の価値体系は、なぜ崩壊していきましたか。それは、宗教自体が本来の任務を忘れたまま、分裂と紛争がやむ暇がなく、そのために現実に対する指導力を喪失したからです。既存の宗教が神様と人生と宇宙について明確に教えられなかった結果、善と悪、義と不義の区別をはっきりさせることができず、特に神様が存在するかどうかということに対する質問に、明快な答えを与えられませんでした。宗教が無力化すると同時に、物質は人間の前に手段ではなく目的と化したのであり、享楽が当然のこととなり、人間性は肉欲と物欲によって麻痺し、動物化しました。このような土壌の上に、真の愛と奉仕、そして義や神聖さなどの価値観が引き続き存立することはできないのです。

なおかつ、現代社会の組織化、大型化、機械化の傾向は、非人間化、あるいは人間疎外の現象を加速化し、個人の矮小化、部品化の趨勢をあおり立てています。人間の創造本性が塞がれているこの状況と束縛の中で、人類を解放する新しい価値観の出現は、私たちすべての絶対的要求と言わざるを得ません。

新しい価値観は、現代の問題を解消し、現代人を説得し得る新しい宗教に根拠を置かなければなりません。神様が人類の父母であられることを教育し、宇宙の始原が物質ではないことを究明し、人間には霊性と人格があり、神様の相続者として宇宙を治める権限があることを明らかにしなければなりません。また、創造本然の愛の理想を確認させ、森羅万象が二重目的の連体になっており、宇宙の大秩序の中では調和のみが存在するようになっていた太初の理想を明らかにするなどの役目を、新しい価値観は果たさなければなりません。(1984・11・12)

「統一原理」とは

真理とは、世俗的な真理ではなく、神様の愛のみ言葉を言います。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して啓示として地上に伝えられます。神様の真理は絶対真理です。絶対真理は万能キーのようなもので、この真理を適用すれば、いかなる難問も解けるようになります。(1985・12・16)

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宇宙はごく小さなものからとても大きなものまで、すべて関係と連関性を持っています。今日、科学が発達したのも、様々な公式と法則を発見し、それによって活動してきたからです。そのため、今日のような文明世界が成し遂げられたのです。

科学文明の世界の実現を早めたのは、法則を中心とした一つの公式でした。公式は全体の分野にどれほど適用させ得るかによって、採択されるかどうかが決まります。神は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、その公式を知らなければなりません。このような公式的な法度を教えてくれるのが統一教会であり、この公式的な法度が含まれているものが統一教会の原理です。統一教会の原理は、過去から現在まで復帰摂理歴史がどのように続いてきたのかを、明確に教えてくれています。(1966・1・2)

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真理はあらゆる根本問題を解決できる内容を備えなければなりません。それが「統一原理」です。この「統一原理」は文総裁が発表しましたが、文先生のものではありません。統一教会のものでもありません。天のものであると同時に、人類が行くべき理想的な内容を展開したものです。(1998・2・1)

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十六歳になった年に、私は北朝鮮の地にいて、とても意義深い霊的な経験をしました。私が幼いときに体験したこの経験を、言葉一言で表現するのはとても難しいことです。突然私の前に霊的な世界が広がり、私は自由にその霊的な世界にいる聖者たちと心ゆくまで通信できるようになりました。北朝鮮の静かな山中で、私は何度もイエス・キリストと直接対話を交わしました。そのときに啓示された真理の内容が今の「統一原理」の核心です。(1982・10・5)

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「統一原理」の「統一」という言葉の意味は、心と体が一つになり、神様と一つになり、父母様と一つになり、夫と一つになり、息子、娘と一つになり、そして家庭を中心として社会が一つになる、ということです。ですから、「統一原理」の「統一」とは家庭を中心とするものです。(1985・11・13)

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「統一原理」には、キリスト教の内容だけでなく、仏教の内容も新たに明らかにされています。仏教で備えられていない内容が、具体的により明確に完備されているのです。それだけでなく、父母に孝行しなさいという儒教思想はもちろん、政治的な内容や、そのほかのあらゆる内容がすべて「統一原理」に含まれています。また、老子の道教の内容も「統一原理」に入っています。このように、あらゆる内容が備わったものが「統一原理」です。このように「統一原理」は、キリスト教だけでなく、世界のあらゆる宗教を糾合して余りあるのです。(1970・12・27)

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「統一原理」は、一つの哲学でもなく、学説でもなく、その言葉どおり神様の原理です。これは神様の不変の真理です。一度その真理が明らかにされれば、その原理どおりに生きなければならず、その原理を中心として行動しなければなりません。(1977・2・3)

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『原理講論』は人間から出てきたものではありません。これは神様の原理です。神様の直接的な教えなのです。サタン世界ではこれを知ることができないので、強いてでもこれを教えなければなりません。(2007・6・3)

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『原理講論』は、実体世界を思いのままに移していくことができ、思いのままに処断し得る内容です。これは統一教会の教理ではありません。神様の心の中にある「主流憲法」です。そして、主流憲法は、各省庁によって守られ得る法を完備させるので、これを壊せる者はいません。(2005・1・1)

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自分を絶対否定しなければ、新しい世界に行けません。しかし、それを自分ではできません。ですから、先生が作った「剣」でするのです。それが『原理講論』です。『原理講論』は、天的な宣言です。「統一原理」というものは、天的なものです。(2005・1・1)

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「統一原理」の部分的な多くの事項は、これから新しい表現が試みられるでしょう。しかし、初めから最後まで、啓示の基本的な内容は少しも変更しません。例えば「創造原理」「堕落論」「メシアの降臨とその再臨の目的」などで見られる中心思想は、決して変わりません。(1977・2・3)

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これからは『天聖経』以外はありません。『平和神経』、「家庭盟誓」、『天聖経』以外にはないのです。『原理原本』は皆知っていますね。その次に『原理解説』、そして『原理講論』です。『原理講論』が出てきたあとに『原理解説』を読みましたか。今度『原理本体論』が出てきたあとに『原理講論』を忘れてしまったとしても、『原理本体論』の中にそれがすべて入っているのです。(2009・1・2)

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(『原理本体論』の基となるものは)欠けることなくすべての内容が揃っています。『原理本体論』は、先生の未来に関することを添付し、この最後に『原理講論』の骨子をそのまま入れて新しい時代と連結させたものです。(2008・10・14)

創造原理について

神の二性性相と被造世界

神の二性性相

私たちにとって現在問題となっているのは、神様に対する見解が明確になっていないことです。明確な神観が定められ、その神観に基づく人生観や唯心史観が新しく設定されなければ、人類の新しい未来は現れません。私たちがはっきりと神様を知れば、中世から没落し始めた不明確な神観や、現世の人本主義思想、唯物主義思想に関するすべての問題が解決します。 (1975・4・14)

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世界には数多くの問題が存在しますが、最も大きな問題は、神様を知らないことにあります。男性は男性としての自分を知らず、女性は女性としての自分を知りません。神様を中心とする男性と女性を統合した価値を知らないがゆえに問題が生じているのであって、それを完全に知れば、世界のあらゆる問題が解決するのです。(1992・3・27)

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子女が父母に似るように、結果は原因に似るものです。したがって、万物を観察することで、その原因である神様を究明できるのです。(1976・11・27)

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先生は「統一原理」の80%以上を自然から学びました。ですから、自然から学ぼうというのです。(1996・5・1)

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被造物はすべてペアになっています。動物界、植物界、鉱物界、すべてが主体と対象の関係で成り立っており、互いによく授受作用を行い調和を成すことで、それらが存在し繁殖する力、そして愛と善の基盤となります。

人間もこの同じ原則に従って創造され、個人は心と体で成り立ち、人間は男性と女性で構成されています。神様の理想は、神様の愛を中心として心と体が一つになった個人と、そのように完成した男性と女性が一つになる家庭でした。このようになれば、人間は神様の神性を正しく反映し、神様の真の愛の対象となり、子孫に神様の真の愛、真の生命、真の血統を伝えられるようになるのです。(1997・11・27)

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あらゆる植物の種を見ると、その内部には二つの相対的なものがあり、完全に一体となって、一つの殻の中で胚子を通じて生命を繁殖します。卵を見ても、黄身と白身の間に胚子があり、一つの殻に包まれたまま一体となっています。人間の胎児も同様です。

すべての生物は、主体と対象が一体化すれば、その原因に似て繁殖し、最終的に根本に還元されるのです。すべてが究極の第一原因に似ているとすれば、その第一原因的存在も主体と対象が完全に一体化した基本形態であり、あらゆる存在に対して主体格を持っているという結論になります。(1976・11・27)

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なぜ主体と対象という存在が必要なのでしょうか。それは、すべてのレベルにおいて、愛を中心として成立しなければならないからです。愛がなければ、愛という新しい運動圏を生み出すことはできません。運動圏は一方向に限らず、四方八方から広がり、立体的で球形の運動があり、これが宇宙構造の核心に相当します。(1992・4・12)

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主体という位置とは、全体の責任を自分が担うことです。相対が進む道において障害となるすべてのものを取り除き、その道を築いてあげるのです。彼らが順応しようとしなくても、自動的に従ってくることができる道を築く者こそが、責任者としての任務を果たすことになるのです。これが原理的な結論です。(1975・12・29)

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主体というものは、強い生命力を持たなければなりません。そうでなければ主体にはなれません。また、主体は愛を内包していなければなりません。愛を内包していなければ主体となることはできず、相対を率いることもできません。リーダーとなるためには、真理を中心として真の愛が必要なのです。(1974・7・1)

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「統一原理」で論じられている二性性相の主体である神様は、どのような方なのでしょうか。神様は二性性相の神であると同時に、二性性相の中和的主体でもあります。その主体の本質は愛です。絶対的な愛です。(1985・12・20)

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二性性相の中和的主体は、何を中心として主体であるのでしょうか。神様は真の愛を中心とする中和的主体なのです。神様は二性性相の中和的存在であり、格においては主体的存在です。では、神様が何を中心として主体であり、何を中心として中和的存在であるかというと、それは真の愛なのです。(1989・12・31)

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神様は、二性性相の中和的主体であり、格位においては男性格です。なぜ男性格なのでしょうか。それは、神様が主体の立場にいらっしゃるからです。主体とは、常に与える存在でなければなりません。受けようとする者は主体ではありません。

したがって、与えることができる立場にある者が主体です。神様も主体的な立場にあるので、もし神様が宇宙から何かを受け取る立場にあれば、天地は生まれません。神様はご自身をすべて投入し、あらゆる万物に力を注ぎ、すべての恩讐を分立して愛を投入するので存在しているのです。神様がそのような主体的作用を全体に及ぼす方であるため、格においては男性格だという話が成立するのです。(1988・5・13)

神と被造世界との関係

「統一原理」の中で、最も愛を基準とする原理とは何でしょうか。それは、主体と対象の原理であり、類似性の原理です。自然を見れば、すべてが主体と対象の関係にあります。海は青く、陸地も青々としていて、どちらも似ています。青い色は、昼に見ても夜に見ても、夏に見ても冬に見ても、いつでも慰労と慰安の色です。このように、私たちの性格も、そのような性格でなければならないのです。

では、言葉とは何でしょうか。言葉は、原理を通して人が目的を実践するための中間表示物です。主体と対象の関係を結ぶために言葉を話し、似るために言葉を使います。神様が言葉で万物を創造したというのは、自分に似せるために、自分の対象を作ったということです。(1980・6・8)

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神様がみ言を通して六日間で創造したすべての存在は、み言を成就するための対象でした。言い換えれば、すべての万物は神様の言葉の実体対象です。それでは、万物が言葉を通して実体対象として現れた後には、神様は何を願ったのでしょうか。それは、神様の愛を中心に、神様が動けば万物も動き、神様が静まれば万物も静まるという、ひとつの仲保、ひとつの中心が残ったのです。(1958・2・2)

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神様は、天と相対するものとして地を造り、ご自身の代身であり、実体対象として私たち人類の祖先を創造されました。神様はご自身の形に基づいて人間を造り、その象徴として万物を先に創造されたのです。(1961・1・1)

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一人の男性と一人の女性は、無形の神様の実体対象として現れた神様の息子、娘です。男性は神様のプラスの性稟を、女性は神様のマイナスの性稟を表す実体対象です。創造の理念は、両性の中和体として存在する神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合成一体化することです。男性と女性はそれぞれ神様の一性に似て生まれてきました。したがって、男性と女性の結合は、神様のプラスの性質とマイナスの性質が一つになることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。ですから、人間の夫婦は神様の全体を表す結合体なのです。(1960・4・16)

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見た目がいくらみすぼらしい人でも、その人には神様の愛があふれるように流れていて、神様の生命のみ言が芽生え、神様の愛の歌を詠むことができるのです。堕落した人間には想像もできないほど、神様を中心とする高貴な価値を持っているのが人間です。その姿は個人の姿でありながら、神様は宇宙を代表する存在としてその人を見ざるをえないというのです。なぜでしょうか?すべての精誠を尽くして創造された存在だからです。それが人類の始祖の姿でした。

周囲のすべての万物は、人間にとって刺激的な象徴体でした。鳥の鳴き声はアダムの心情に響き、波動を引き起こす動機となり、それ以外の万物もすべてアダムとエバを愛さざるを得ないような象徴体として創られました。

風が吹き、水が流れ、野原に生える一本の草も、すべてがアダムとエバを愛していることを象徴する実体として創られました。人間は万物の中心に置かれて創造されたのです。このような人間の位置は、どれほど恵まれたものでしょうか。神様が誇りに思い、永遠に手放したくないと思われたのが人間の始祖なのです。(1968・6・9)

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神様は、絶対的であり、唯一であり、不変であり、永遠である方です。これが神様の四大属性です。ですから、すべての創造物も絶対的であり、唯一なのです。万物はそれぞれの位置にあり、勝手に混ざり合ったりしません。種の区別や愛の道はすべて唯一であり、不変であり、永遠です。このような意味で、すべての存在は個性真理体です。個性真理体とは、個性が真理を中心にして完成されるということです。(1996・8・4)

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人は六十億の中から、自分に似た人を見つけることができるでしょうか。もう一度考えてみてください。自分とまったく同じ個性を持つ人がいると思いますか?神様は正分合作用を通して、今も永遠の個性真理体を創造し続けています。これが神様の創造原理なのです。(2006・12・8)

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私たちは父母から生まれましたが、父母とは異なる個性を持っています。もしその本性が違うことなく、特性をもたなければ、存在する意味がありません。神様が多様な個性真理体をこの地に置きたいと思われ、私たちはそのような存在として生まれました。ですから、神様がいくら偉大でも、私たち一人ひとりとの関係によって、神様の全体の喜びが完成されるのです。こう考えると、平等な自由と平等な価値がここにあることがわかります。(1983・11・20)

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人間は対象的な価値を持つように創られています。個性真理体であることを知らなければなりません。人間は神様の延長ではなく、対象です。そしてその対象の価値は、良心から育てられるのです。良心は神様の対象として育つものであり、神様が主体なら、良心は対象です。(1994・1・23)

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良心は神様に優ります。私が何かをする前に、良心が先に知るのです。行動した後で、神様がそれを知るようになっています。なぜなら、私は神様とは別の人格だからです。統一教会では、これを個性真理体と呼びます。神様が私と同時に知るならば、私は神様の属性となり、相対関係が消えてしまうのです。(1994・3・16)

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各自が個性真理体として、自分自身の良心を中心に、第二の神様として立つのです。第一の神様に対しては相対的な立場ですが、自分に対しては第一の神様です。ですから、ほかに祈祷したりする必要がなく、自分の良心と相談するようになっています。(1993・12・29)

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良心の三大要素は何でしょうか。第一に、良心は父母に優る、第二に、良心は師に優る、第三に、良心は神様に優る。この三つです。良心は第二の神様であり、神様に対しては相対的な立場に立ちますが、一体となればその良心が神様そのものです。ですから、神様の命令を聞かなくても、良心自体が個性真理体を成すのです。(1993・12・29)

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絶対的な良心は、絶対的な神様の立場です。神様に尋ねる必要はありません。良心に教育者がいるでしょうか?父母は良心に命令することはできません。体が過ちを犯したので父母の干渉を受けるのであって、良心は父母に優るよいうのです。ですから、良心は父母にも、教師にも、そして神様にさえ優る存在なのです。すべてを教わった良心を、私たちは絶対視しなければなりません。そうでなければ、心と体を一つにする道は永遠にありません。(1994・1・1)

万有原力と授受作用および四位基台

万有原力

すべての核心は同じです。それはペア・システムです。原理で言うなら、この全体を連結しているのが万有原力です。すべてのものに神様の二性性相が宿っており、それが万有原力となっています。たとえば、皆さんの髪の毛を一本抜いてみても、万有原力によって必ずプラスとマイナスのバランスがとれています。ペア・システムになっているため、髪の毛一本一本がそのように構成されています。レベルが低い存在であっても、すべて神様に似ています。したがって、万有原力は授受作用を引き起こす力なのです。(1998・5・1)

授受作用

存在するためには力が必要であり、力が必要となれば何が求められるでしょうか。それは相対的要件です。相対的要件が必要であるため、神様は一人では存在することができません。主体と対象、二性性相が現れるということです。(1967・4・10)

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力が存在する前に何が必要でしょうか。力が存在するためには、相対基準がなければなりません。相対基準を成立させるためには、主体と対象の概念が必要です。主体と対象、プラスとマイナスが授受作用を行うためには、共通目的の基準がなくてはなりません。ですから、作用や力の現象は共通目的を中心として生じるのです。(1965・10・7)

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電波はどこにでも作用するわけではありません。必ず受信機がある場所でのみ作用します。相対基準があればどこでも作用します。人間も同じです。真の良心と真の心情的な基準、天の心情的基台を持つ人がいれば、その人はどこに行っても、無念で悲しい状況にあっても、いつの間にか生きる道が開かれます。誤解される立場にあっても、生きる道が生じるのです。(1959・10・18)

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主体と対象が相対基準を結び、うまく授け、うまく受ければ、力が生まれます。力が生まれると、互いに一つになり、一つになれば繁殖が始まります。主体だけでは絶対に作用できません。誰かを好きになるということも同じで、互いの力が作用しているのです。それは、その人と自分の心が一致したことを意味します。好きになると、理由もなく心が行ったり来たりします。その心がどれほど強いか、「この人でなければ私は生きていけない」と感じ、死をも乗り越えて体を引っ張り回します。これは、世に言う「運命」というものの力がそのように作用するからです。(1967・5・28)

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相対的関係とは、「正」の基準に「反」が向き合い、それが一つに統一される正反合の関係ではなく、主体に対象が応じる関係です。つまり、主体と対象が応じ合い、共通の目的を中心に作用することを意味します。これが完全な授受作用を果たし、相対圏に到達すると力が現れ、そのとき初めて中心が決定するのです。(1965・2・7)

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授受作用を行うと中心点が生じます。この中心が神様の臨在する場所です。一つになった基準、それが中心です。創造原則がそのように設定されているため、授受作用によって中心点が現れる場所で、神様の摂理の道が開かれるのです。(1990・7・7)

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主体と対象が授受作用を行う目的は、神様をお迎えし、神様の愛をそこに移すためです。一つの国家において、主権者と国民が授受作用を行えば、主権者と国民は一つになります。そのようになれば、その国家は世界の運勢に乗るようになります。このように、一つの理念を中心に主権者と国民が一つになれば、その国家には世界の運勢が訪れるのです。したがって、神様の御心を中心に一つの国家が一つになれば、そこに天運が臨むようになります。(1970・1・1)

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統一教会では「授受作用」という言葉が使われますが、「授」と「受」のどちらが先でしょうか。与えることが先です。父母が子女のために与えるのでしょうか、それとも子女が父母のために与えるのでしょうか。父母が与えるのです。これを見ると、存在の最初の起源である方から与えることが始まり、作用が連結されていることがわかります。(1992・11・23)

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相対基準から相対基台が展開します。相対基準とは、単に基準が結ばれている状態ですが、相対基台とは、すでに定着していることを意味します。相対基準が力を作用し、中心を中心として定着すれば、相対基台が展開するのです。相対基準だけでは位置が定まりません。移動してしまうこともあります。引っ張られやすいのです。(1990・11・13)

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主体と対象が互いに「ために生きる」ことで相対的基盤が築かれます。私が主体であれば、対象のために生きることで相対圏ができ、理想的な愛の相対基台が形成されます。相対基準を超えて相対基台ができ、互いに「ために生きる」ことが、互いの利益となり得る世界に発展していくのです。(1988・8・22)

正分合作用による三対象目的を完成した四位基台

すべてのものは主体と対象で成り立っています。目も一つだけあっても駄目です。眉毛を中心として二つの目がぴたっと合うときによく見えるのです。耳も二つの鼓膜が左右で響くようになっています。鼻も同じです。すべて二重の目的を持っているのです。それで統一教会では、「正分合作用」という偉大な原理を探し出したのです。(1971・2・15)

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男性は神様の陽性の性稟(せいひん)を、女性は神様の陰性の性稟を代表した主体と対象です。神様の創造理念は、両性の中和体としていらっしゃる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化するのです。真の夫婦は、神様の二性をそれぞれ代表しており、天と地を代表する立場で互いに調和し一体を成すために生まれました。すなわち、男性も女性も、本来自分のために、自分中心的に生きるように創造されたのではなく、相対のために存在するように創造されたということです。(1998・6・11)

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「何のために生まれたのか」というとき、男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。それでは、男性と女性はなぜ生まれたのですか?それは「愛のために生まれた」となります。これはどうすることもできません。愛のために生まれたのです。愛のために二人が生まれましたが、愛して何をするのですか?その愛によって神様を占領できるのです。

これが「正分合理論」です。ひとつから二つに分かれたものがひとつに合わさるのですが、どこでひとつにならなければならないか。それは、ちょうど真ん中に行って出会わなければなりません。垂直線で出会わなければならないのです。男性と女性が出会って結婚するようになるのですが、なぜ一生において結婚が最も重要なことなのかというと、愛を中心として神様と関係を結べるからです。(1990・11・15)

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家庭での日常生活は、正分合作用を具現するものです。つまり、朝それぞれの仕事のために分かれていくときも喜びで分かれ、夜にまた会うときも喜びで出会うのです。また、家庭に帰ってくれば、その日にあったことを妻と子女たちに話し、相談し、間違ったことは直すようにしなければなりません。家庭全体を愛で連結させ、笑いで連結させるのです。(1970・4・4)

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ひとつの家庭圏で正分合の創造過程が展開します。祖父母が正であれば、父母は分となり、再び合になる位置には子女が立つのです。したがって、祖父母を愛して侍ることによって、私たちは過去を学び、相続します。父母を愛し侍りながら、子女たちは現在を学び、習得します。また、祖父母と父母は、孫と孫娘、子女を愛することで未来を感じ、希望を持つようになるのです。

本来、アダムとエバが完成していたならば、アダムは完成した天国の父であり王となり、エバは完成した天国の母であり王妃になっていました。彼らは家庭の主人となり、家庭的王権、民族的王権、国家的王権、世界的王権が生じていたでしょう。神様は天上天国の王であり、アダムは神様の実体を持った地上天国の王になっていたというのです。

したがって、皆さんの家庭において、祖父母は神様が派遣された天の全権大使だと言えます。祖父母を神様のように侍り、仕えなければならない理由がここにあります。そして、天に侍る父母は、六十億人類をひとつの家庭として抱く家庭の王と王妃です。

未来に責任を持つべき子女たちは、天の伝統を固守し、王である父母に孝道と忠誠を尽くし、善の王を伝授されなければなりません。さらには、天の三代圏の完成を平面的に一代の家庭で総体的に完成するのが、真の家庭主義の始まりです。このように、本然の家庭は、神様が創造目的として立てられた地上・天上天国の典型になるのです。言い換えれば、四大心情圏と三大王権を完成した家庭こそ、人類が願う平和王国をこの地上に創建し得る土台になるというのです。(2004・12・11)

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存在するものは三対象基準を持たなければなりません。相対と対象はどのように違うのか?相対と対象は違います。相対はただ向き合うことです。何であっても、存在の位置を持てば、必ず相対基準を造成しなければなりません。ですから、相対はただ向き合うことを意味します。しかし、対象というものは、何かを授け受けすることによって、共同目的の価値的過程を経ることを意味するのです。(1961・4・15)

三対象目的は、家庭倫理を中心として、愛を中心として語る言葉です。私の愛を求めようとすれば、必ず三対象を経なければなりません。そうしてこそ、私の愛が訪れるのです。そうでなければ訪れません。愛を中心とする家庭理想の倫理を語ってこそ、三対象目的を語れるのです。原理講義をするときはそれを抜かしてはいけません。誰が尋ねても、そのように答えなければならないのです。(1987・10・25)

三対象目的とは何ですか?神様を中心として見れば、アダムに向かう愛の道があります。その次には、エバに向かう愛の道があります。そして子女に向かう愛の道があるのです。この愛が行くことによって、結局ひとつの実を結びます。子女として実を結ぶのです。

ですから、子女とは何ですか?子女は父母の愛の結実であり、神様の愛の結実だと見るのです。真の子女を持つということは何を意味するのでしょうか?それは、宇宙全体の愛と向き合える位置に初めて立つことを意味するのです。(1976・2・1)

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三対象目的は宇宙構想の原則です。ですから、神様自身が核の位置に入り、上下関係、父子関係、夫婦関係、子女関係、兄弟関係をすべて経なければ公認されないのです。

アダムとエバが完成した位置とは、無形の神様が完成したものと、実体が完成して心と体がひとつになることによって、見えない神様があの国でもこの地上の世界でも、形状、体をまとって現れ得るということです。それで、あの国では神様は心の立場で存在し、この地では体を持つのです。二つの世界がひとつになったその実体がアダムとエバなのです。

この二つの世界を連結するアダムとエバの実体になったとしても、孫を持つことによって初めて三対象目的が展開します。この場を中心として上下が連結されます。上下、左右、前後がすべてひとつになり得る位置に立つことによって、無形の神様と有形のアダムの愛を中心として、これが種となり、アダムとエバの息子、娘になるのです。(1998・12・1)

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創造理想とは四位基台の完成です。それでは、四位基台とは何でしょうか?それは、父母を中心とした真の愛の起源を意味します。父母と子女が、完全な愛の一体を成した真の家庭は、永遠であると同時に絶対的です。その愛の起点は、唯一であり、不変であり、絶対的です。そのような愛は、神様にだけあるのではなく、父にだけあるのでもなく、母にだけあるのでもありません。家庭基盤の上で成立するのです。(1979・12、9)

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原理的な見解から見れば、個人が復帰されて安息するためには、家庭が三代以上を経なければなりません。三代以上を経るためには、子女を生んで四位基台を復帰しなければなりません。この四位基台は、息子、娘を生んだからといって成されるのではありません。その息子、娘が、父母の代身となる位置に立たなければならないのです。( 1970・2、25)

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家庭を見れば三代です。神様を中心として、アダムとその子女までで結局三代です。なぜ四位基台を必要とするのですか?これができればみ旨が成し遂げられるからです。しかし、四位基台が完成しなければ、縦横が一致する世界は成し遂げられません。四位基台とは三代が一致することを意味するのです。(1970・1・4)

創造目的

被造世界を創造された目的

情の本体でいらっしゃる神様の創造目的は、喜びを享受することです。この喜びは一人では感じられません。主体が喜びを感じるためには、必ずその対象が必要です。喜びの中でも最高の喜びは、主体と対象が愛を授受するときに感じられるものです。

人間は、神様が無限の愛をもって永遠に喜びを享受するために創造された、神様の最も愛する対象である子女です。このように、神様は人間の始祖として一男一女を造られました。彼らを聖書ではアダムとエバと呼びます。絶対的な神様は、その愛の対象として一男一女以外に、別の真の愛の対象を作ることはできません。名前が何であろうとも、神様の真の愛の対象である人間は、ただ一組の始祖から増え広がりました。

もし私たちの始祖であるアダムとエバが神様の愛を完成させ、互いに真の愛を授受し、善の子孫を繁殖していたら、どのような世界になっていたでしょうか。彼らは、創造主である神様を無形の縦的な父母として侍り、愛の夫婦となり、横的な真の父母となる理想家庭を築いていたでしょう。その真の家庭を根源として繁殖した一族、つまりアダム一族の民族が増え広がり、彼らが築いた国家や世界は、神様の愛と善が満ちた幸福な文化世界となっていたに違いありません。このような世界が、すなわち天国です。

人類は始祖を根とし、全人類は本来、地上天国で暮らし、その後霊魂が天上天国に行くようになっていたのです。このように、神様の創造目的は、人類が神様を中心として大きな家庭を築き、人類全体が一つの兄弟、一つの眷属となることでした。神様を中心とする始祖アダムの家庭にある善の家法が、そのまま伝統として代々受け継がれ、一つの根から出た一つの言語、一つの文化、一つの天の主権が存在する統一世界が築かれていたのです。(1989・6・23)

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旧約聖書の創世記第一章二十七節には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」というみ言があります。この節を帰納的に推測すれば、神様は一人の男性と一人の女性を合わせた存在であるという結論が導かれます。このような神様が、「独りでいるのはよくない」と思われ、御自身の対象として創造されたのが被造世界でした。すなわち、宇宙の万象は形状的な対象として位置づけられ、その中心には、実体的な対象として人間が創造されたのです。このように、神様の実体対象として創造された最初の男性格の代表がアダムであり、女性格の代表がエバです。

神様がこのように一男一女を分立して創造されたのには目的があります。第一に、二性性相の中和的主体として自存される無形の神様が、実体世界に相対するためには体が必要でした。男性の体だけでなく、女性の体だけでもなく、アダムとエバの体をまとって、実体世界と自由自在に往来し、作用するためでした。無形の神様としてだけでは、有形実体世界に対するには限界があったためです。

心の中に神様をお迎えし、一体となって完成したアダムとエバが、結婚して子女をもうけ、家庭を築いたならば、アダムとエバは外的かつ横的な実体の真の父母になり、神様は内的かつ縦的な実体の真の父母となっていたことでしょう。そうなれば、アダムとエバは神様に内外両面で完全に似た立場に立つことができたはずです。このようにして、神様に完全に似たアダムとエバが人類の真の父母となったならば、人類は彼らの姿を通して日常生活の中で神様の実体を感じながら生きるようになっていたでしょう。

第二には、愛の完成のためです。アダムとエバが完成し、完全一体となった愛の実体になれば、そこに神様が臨在し、人類の真の愛の父母になろうとされたのです。神様の形状的な実体の父母の立場に立つアダムとエバは、実体の子女を繁殖し、理想家庭と理想世界を成し遂げていたでしょう。そうなれば、人間を通して霊界と地上界が連結されることになります。このように、神様は霊界と地上界を連結する目的で人間を創造された、という結論を下すことができます。(2006・3・25)

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主体と対象が完全に授受すれば、必ず新しい繁殖、すなわち第三の結果をもたらします。その第三の結果は、主体の目的だけでなく、対象の目的、すなわち二重目的を持つ結果として現れるのです。(1971・2・7)

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すべての存在は二重目的を備えた連体です。存在の中心には、全体のために生きようとする性相的な目的と、自己を保存し、自身のために生きようとする形状的な目的があります。このように二重構造になっています。

例えば、陽子と電子の作用によって原子が存在し、その原子が分子を構成し、その分子が栄養素となって植物を育てます。その植物が繁殖し、動物の餌となりますが、動物と植物は、酸素と炭酸ガスを交換しながら共存しています。すべてこのように、相対を尊重しながら生きているのです。
天体を見ても、太陽と惑星がお互いに授受作用をして、一定の距離を保ちながら公転と自転によって運行されています。秩序が存在するのです。(2002・6・12)

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二重目的を正しく理解しなければなりません。人間には自分一個人としての目的があります。結婚もしなければならないし、子供も育てなければならないし、食事も必要です。しかし、これとは別に全体的な目的もあります。例えば、日本の国民であれば国のための目的があり、日本には日本自体のための目的と、世界のための目的という二重目的があるのです。(1965・2・8)

神の喜びの為の善の対象

第一祝福 個性完成

神様は、子女として創造された人間に「生めよ」という第一祝福を下さいました。その第一祝福は、人間が神様の真の愛の完全な相対、すなわち「真の人になりなさい」という祝福でした。相対が自分よりも優れていることを願うのです。神様は、真の愛の相対である人間に対して、投入して忘れ、また投入して忘れ、無限に与えたいと思っていらっしゃる真の父であられます。(2002・10・29)

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もしアダムとエバが堕落せず、み言を完成した実体として立っていたなら、神様がアダムに臨在され、アダムは神様の実体、すなわちみ言の化身になっていたでしょう。つまり、アダムの体の中に神様が臨在され、アダムの心は神様の心として、アダムの心情も神様の心情として、アダムが感じる感情も神様の感情として現れていたでしょう。(1959・1・11)

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理想の完成や個性の完成とは何か?それは、真の男性となり、真の女性となることです。そのようになるためにはどうすればよいのでしょうか。それは、神様との愛の因縁を結ばなければなりません。(1973・8・5)

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神様の愛を受ける真の息子・娘となれば、地上で天国を築いて暮らすことができます。このような人になってこそ、地上天国に暮らす者として「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)というみ言にふさわしい者となります。そして、神様が愛する息子・娘となり、世界が喜び、国が喜び、家庭が喜び、個人が喜ぶ人になりなさいというのです。これが個性の完成であり、人格の完成です。(1972・10・29)

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父母は、長男・長女がいれば、その弟妹たちに尊敬されるようにつなげてあげなければならず、そのように結びつけてあげなければなりません。アダムとエバ、個体復帰の完成を中心に、四大原則は絶対男性、唯一男性、不変男性、永遠男性、また絶対女性、唯一女性、不変女性、永遠女性になることです。そのような男女となって祝福を受け、真の夫婦にならなければなりません。(1998・8・29)

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アダムとエバが生まれたとき、彼らは子女として相対になっていましたが、兄弟の因縁の中には相対がいませんでした。女性は女性一人で教育を受けて女性として完成しなければならず、男性は男性一人で教育を受けて男性として完成しなければなりません。その教育を受ける材料は天地間に豊富にあります。すべてのものがペア・システムになっているので、男性はそれを見て「自分もあのように大きくならなければならないのだな」と悟り、女性もそれを見て「自分もあのように大きくならなければならないな」と自覚するようになるのです。愛に関するすべての教材を、自然界が博物館のように見せてくれています。(1992・7・5)

第二祝福 子女繁殖

結婚とは何か。それは創造理想の完成の場です。神様の子女が完成する場であり、兄弟が完成する場であり、男性と女性が理想的に完成する場です。男性と女性が理想の場で一つになることは、創造の前にアダムとエバが二性性相の性相と形状で存在していたものが、実体として一つになることを意味します。(1993・11・14)

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神様は、「ふえよ」という第二祝福を下さいました。人間の先祖であるアダムとエバが成長して完成し、神様と一体心情圏のもとで真の夫婦となり、真の愛、真の生命、真の血統を神様から相続し、それを子女に伝えることによって実体の真の父母となるのです。

このように、神様の創造理想は、最初の家庭から真の愛を縦横で完成するようになっていました。神様の愛が絶対、唯一、不変、永遠であるように、神様に仕える家庭も、真の愛を中心として絶対、唯一、不変、永遠の家庭となるのです。(2002・10・29)

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結婚することによって、子女としての完成、兄弟としての完成、そして夫と妻としての完成がなされます。そして、これが一つになれば、神様と似た存在となり、神様が創造されたように再創造の役事を行うのです。それが子女の繁殖です。これが宇宙の根本です。ですから、子女の繁殖とは、子女を創造することであり、実体が霊的なものに完全に似ることによって、ここから創造が始まるのです。(1993・3・7)

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結婚して男女が初めて愛し合う瞬間、つまり関係を持つ時こそ、子女の愛が完成する場です。それは、兄弟の心情の完成の場、夫婦の心情の完成の場であり、未来の父母の心情が完成する出発点です。ですから、女性の生殖器は愛の本宮であり、愛の根源です。そこから愛が始まるのであって、空中から始まるわけではありません。(1995・3・13)

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子女を繁殖することによって、父母の位置に到達するのですが、これは神様が人間を創造した全体、アダムとエバを創られた父母の喜びを相続するための第二創造主の資格を付与されることを意味します。子女を生むことによって、神様が人間を愛された喜びを体験し、神様の心情を理解できるのです。神様がどのように人間を愛されたかが分かります。これは、子女を生んで初めて父母のありがたさがわかるのと同じです。(1993・11・14)

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見えない神様の喜びの心情を、実体を通して体恤することによって、相対的な喜びを感じ、平衡的基準で神様の代理としての第二創造主の権利を持つようになるのが、私たち人間です。子女を持つことで、神様が感じられた幼少期、兄弟期、夫婦期を実体として感じることができ、神様と同等な同位圏の価値を持つことができるのです。それゆえ、私たちは神様と共に永遠に存続することができるのです。(1994・7・23)

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夫婦が一体となり、子女を生むことで、永続することができます。それにより、創造した創造主の位置に上がっていき、息子、娘を生んでみることによって、神様が創造された喜びを平面世界で私たちも体感することができるのです。だからこそ、自分の妻は、息子、娘と同じでなければなりません。息子、娘と兄弟の位置を合わせたものです。ですから、その関係は分かつことができません。

愛とは、いい加減なものではありません。息子や娘を生むためには、伝統を経て、きちんとした過程を経たのちに子女を生んでこそ、神様が創造理想として願われた本然的基準に到達するのです。ですから、家庭こそが天国の基盤となるのです。(1991・11・7)

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父子関係の真の愛は縦的であり、夫婦の真の愛は横的であり、兄弟の真の愛は前後の関係として成り立ちます。球形の真の愛の理想が願われるのです。すなわち、縦には上弦下弦、横には左弦右弦、それをすべて連結した中心点で統一がなされるのです。その点が、球形体の中心点となります。いつ四大心情圏の子女、兄弟、夫婦、父母が一体を完成するのかというと、神様を中心として、人間が結婚して初愛を結ぶ位置が、すべての完成の結実点であり、中心になるのです。したがって、結婚は天地人の合徳であり、縦横、左右、前後、全体を完成するのです。(1994・3・27)

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結婚して初めての愛の関係を結ぶその位置こそが、すべての愛の完成の中心の位置です。結婚して初愛の関係を結ぶ、凹凸がひとつになる位置です。男女が初めて愛を交わすその瞬間から、子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛の目的が完成されるのであり、そして父母の愛が出発するようになるのです。四大心情圏が一つになる位置です。それを考えたみたことがありますか。それは兄弟の愛が完成する位置であり、夫婦の愛が完成する位置であり、父母の愛が始まる位置なのです。(1994・2・15)

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このように完成された家庭こそが、真の家庭です。神様はおじいさんの立場にいらっしゃいます。アダムは現在の家庭を代表し、息子・娘は未来を象徴します。神様は過去の象徴であり、父母は現在の象徴、息子・娘は未来の象徴です。この愛の理念を中心として、家庭内で四大心情圏と三大王権が展開されなければなりません。この心情圏が完成すれば、神様が地上に現れ、家庭において祖父の立場に立ってその家庭を統治され、天上天国と地上天国を一つにして完成されるのです。そうして生まれた子女たちは、天国の相続者として連結されるのです。(1992・11・8)

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人間は、神様の創造理想である八段階の真の愛のモデルを完成するように創造されています。すなわち、腹中時代、幼児時代、兄弟時代、思春期時代(婚約時代)、夫婦時代、父母時代、真の祖父母時代、そして真の王と王妃の時代を経て、永遠に変わらない真の愛の伝統を立てていくのです。これにより、父子関係における真の愛のモデルが完成するようになるのです。

神様の真の愛、真の生命、真の血統は絶対、唯一、不変、永遠であり、子孫万代にわたって不変の真の愛を中心としたモデルを相続するのです。真の愛を中心として、父子一体、夫婦一体、兄弟一体が成り立ちます。父を愛の主人にしてくれるのは息子であり、夫を愛の主人にしてくれるのは妻であり、兄を愛の主人にしてくれるのは弟です。

反対に、子女に父母がいなければ、妻に夫がいなければ、兄に弟がいなければ、愛の主人としての立場を見出すことができません。真の愛の主人になるためには、相対を自分よりも高め、他のために生きなければならないのです。

ですから、個人としては心身の一体化、家庭では夫婦の一体化、兄弟の一体化、そして国家の一体圏を形成し、八段階の理想的な愛の圏を完成していくのです。(2000・2・13)

第三祝福 万物主管

神様は人間に「万物を主管しなさい」と祝福されました。それでは、なぜ神様が人間を造り、その人間に万物を主管するように祝福されたのでしょうか。それは、神様ご自身が直接主管されるのではなく、人間を通して万物を主管することにより、神様が万物を創造された心情を人間に伝えるためです。つまり、神様が万物を創造された際の事情や心情を人間に体恤させるために、万物を主管しなさいと祝福されたのです。(1959・2・15)

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神様は幼いアダムとエバを造り、彼らが成長した後、天地のすべての万物を主管することを望まれました。それは言葉だけで主管するのではなく、神様の心情を中心とした愛によって主管することを望まれたのです。(1960・5・1)

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神様は、このすべての被造物を誰のために造られたのでしょうか。それは人間、すなわち男性と女性のために造られました。神様が創造された万物は、神様が創造された時以上の喜びをもって人間に与えたいと願われたのです。人間も同様で、何かを創造した時、その創造物を他者が愛してくれるとき、さらに喜びを感じます。神様も、創造した万物を人間に与え、彼らがそれを愛し、喜んで主管することを望まれたのです。だからこそ、「万物を愛しなさい」と言われるのです。これは、生活における基本的な規範です。(1994・8・23)

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人間を中心として見る時、相対を愛で主管すると同時に、万物までも主管しなければなりません。人間と万物は主体と対象の関係にあります。この関係において、愛を中心とした主管が展開されると、そこから統一が始まります。たとえば、皆さんが妻を愛する場合、単に妻だけを愛するのではなく、妻に関わるすべてのものを愛する立場に立たなければなりません。そうすることで、妻が自動的に皆さんの主管圏内に入るのです。(1971・1・1)

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万物主管は一人ではできません。必ず父母が子女を生み、家庭を築き、四位基台が復帰された基盤の上で万物を主管するのです。一人では主管できないのです。ですから、イエス様もこの地に来て万物を主管し、この世界を主管しようとされましたが、成し遂げることができませんでした。神様は、アダムとエバを祝福してくださったのであって、アダムだけを祝福されたわけではありません。(1969・11、10)

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父母がいてこそ子女が存在し、子女が存在することによって万物を主管することができるのです。万物を主管するためには「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」を成して主管するようになっています。アダムとエバだけが主管するのではなく、子女が横的な基盤を築き、父母は縦的な基盤を築くことで、家庭全体として万物を主管するのです。ですから、父母は地上における神様の代身です。この縦的な基台を備えてこそ、万物を主管できるのです。(1970・1・1)

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家庭におけるすべての財産は、たとえ法的には父母の名義になっていたとしても、実質的には父母と子女、すなわち家族全員の共同所有です。それと同時に、家族の個々人は、各自の部屋や衣服、小遣いを持つようになります。このように、家庭では全体目的と個体目的が調和を成しているのです。このような愛が基盤となった家庭の理想的な所有形態が、理想社会においては社会、国家、世界へと拡大されます。

神様と人間の本然の関係は、真の愛を中心とする関係です。神様と私たちとの共同所有、全体と私たちとの共同所有、隣人との共同所有など、様々な形態がありますが、すべては神様の真の愛を中心に感謝の心で共同所有するようになっています。(1995・8・22)

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神様の愛を完成した人間が成し遂げる理想世界では、全体目的と個体目的が自然に調和します。人間は欲望を持っており、また愛の自律性も備えているため、個人所有や個体目的が許されます。しかし、それは無制限な個人所有ではなく、全体目的を損なうような個体目的を追求することはありません。完成した人間は、自らの良心と本性に基づいて、自分にふさわしい範囲の所有を持つのです。

特に、真の愛を中心とした万物の真の主人となる理想的な人間の経済活動は、愛と感謝を土台としています。そのため、過剰な欲望や不正が生じることはありません。同時に、全体の利益に反する地域や国家利益を強調することもなく、経済活動の目的が個人の利益ではなく、全体の福祉に焦点を当てるのです。(1995・8・22)

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世の中の歴史の中で、最も醜い歴史をもっているのはお金の歴史です。お金のために子女が父母に不孝を行い、お金のために親子関係も変わり、またお金のために父母を殺す人がいて、お金のために兄弟を殺す人もいて、あらゆる人がいます。それだけでなく、お金は世界全体の人を病にかからせました。そのようなお金は、名前が出るのを恥ずかしく思うでしょう。そして、「私が行って近くにとどまる所では、いつも人が変わってしまう」と思うのです。お金をもつようになった人は、友達も相手にせず、父母も相手にしなくなります。ですから、「私が行く所には、変わっていく姿ばかりがある!」このようにお金は思うのです。お金は悪魔よりも力をもっています。

それでは、このお金に希望があるとすれば何でしょうか。「お金である私は、個人も所有してみたし、家庭も所有してみたし、国も所有してみたし、他界も所有してみたし、王も所有してみたし、すべてを所有してみた。所有してみなかったものがない。世の中で良いというものは、すべて所有してみた。しかし、一つ所有してみたことがないものがある。清いものを所有してみたことがない。そして変わらないものを所有してみたことがない。そして、すべてを失ってみたことがない。そのような人、そのような主義、そのような何かがあれば、それを所有してみたい。」お金がこのように言うのです。そのような人を求め、そのような主義を求めたいと思うのです。

そのような人がどこにいるでしょうか。清い人というのは正直な人のことです。お金は、正直な人、変わらない人、すべてを失っても喜べる人を願うというのです。

今後、活動してお金が増えれば増えるほど、自信があればあるほど、そのようになれる皆さんになれば、皆さんは間違いなく偉大な人です!お金だけでなく、すべての万物世界、天地が公認するということを、私たちはこのような内容を通して推し量れます。そうすれば、お金は、自分をいくら冷遇しても、自分を踏みつけて使っても、「ありがとうございます!」と言うのです。

このように考えるとき、「私は本当のお金の主人だ。天地が願う本当の主人に一度なってみよう」という皆さんになれば、皆さんは間違いなく世界を支配できるのです。なぜですか。お金がついてくるからです。間違いなくそのようになります。ですから、お金を稼ぐのは私のためではありません。より大きなもののために、全体のために稼ぐのです。そのように稼げば、お金たちが、一銭のお金であってもどれほど喜ぶかというのです。その喜んでいるお金が、出ていくことをどれほど嫌うか考えてみてください。このようなことを理解して、皆さんは、入ってきたお金を使うときには、「かわいそうだが、私が昼食を食べなければならないから、自分の世界に一度戻ってまた帰ってきなさい」このように言わなければなりません。

お金はこのようなものだということを理解して、皆さんがそのような主人になれば、世の中で発展すると思うのです。正直で、変わることなく、何もない中で、主人の振る舞いができなければなりません。ですから、主人として大切に使うことができる皆さんになりなさいというのです。一銭でも大切に使うのです。先生は自分のためにお金を使わないことで、とても有名です。しかし、食口たちのためには、み旨のためには、惜しみなく使う人なのです。(1974・6・23)

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真の国を地上天国と呼びます。その国ができてこそ、神様が本然のアダムとエバに「完成した時に、あなた方は、万物を主管しなさい」と祝福されたそのみ旨を成し、人間は初めて、この地の真の主人として現れることができます。また、その時に初めて人類は、お互いに真の兄弟になることができるのです。その時に初めて私たちは、神様の真の息子、娘になり、天のお父様に対しては真の孝子、孝女になり、主人に対しては忠臣になり、この宇宙万物に対しては真の主人になるのです。そのようになれば、神様は、私たちに全権を委ねられるのですが、外的な全権だけではなく、内的な全体の心情の中心まで移してくださるようになります。神様がすべてのものを委ねられても安心できる息子、娘になるというのです。(1959・3・1)

創造本然の価値

創造本然の価値の決定とその価値の基準

創造理想世界の復帰という言葉を中心に考えると、すべての所有は神様の所有となった後に私の所有となり、すべての価値の決定は神様の価値の決定を基盤として行われます。そのような観点から見るとき、私の存在意識も、私の存在価値も、神様を中心とするところで決定されるのです。(1971・11・4)

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「あの人は立派な人だ」と言うとき、何を基準に立派だと言っているのでしょうか。それは、真の愛にどのくらい合わせられる人格者として現れているかを基準に、その人の人格を評価するのです。その家庭を中心に、家庭が真の愛と相対関係を結び、どのくらい一つになれるかによって、その価値が決定します。個人はこのように愛し、家庭はこのように愛し、社会はこのように愛し、国家はこのように愛し、世界はこのように愛して、花咲く宇宙をつくろうという神様の計画があります。その計画が真の愛の心と結びつく道であり、この道とどのように通じるかという問題を中心に、個人の人格、家庭の人格、氏族、民族、国家、世界の人格観が左右されるのです。(1973・5・5)

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全体の願いの中心とは何でしょうか。それは真の愛であるという結論が出ています。この真の愛について考えるとき、真の人かそうでないかという真理によって評価されることもありますが、根本的な問題は、真の神様の愛を中心にすべてが比較・評価されるということです。真の基準が愛であるため、その愛に符合する度合いによって真の価値が決定します。(1981・5・10)

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創造本然の知情意と創造本然の真美善

人間には知情意があります。「知」という字を見ると、「口」はみ言を表すので「み言の矢」という意味になります。これは標的を作ることを意味します。知識を得ることによって、標的を中心とした環境と関係を結ぶことができるのです。ですから、学ぶことが必要です。「情」は「心が青い」と書き、春夏秋冬、変わらないことを意味します。真の愛は変わらないのです。「意」は、愛を中心とする「意」であり、「立」と「日」と「心」で構成されます。これは「意」を表します。み言の心を立てるのが「意」ということです。人間はそのようなものを持たなければなりません。そこに必要な相対的な価値とは何でしょうか。それは真善美です。真であり、美しく、善であることが求められます。これは人格としての相対的な関係です。(2000・4・2)

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善と美という言葉には、どちらにも「羊」が含まれています。羊は犠牲を意味します。真善美を探し出すためには、真善美自体が犠牲になることが要求されるのです。それが知情意の人格、個人の人格、家庭の夫婦の人格です。そのような男性と女性が真の愛で一つになることで家庭が生まれます。絶対、唯一、不変、永遠性、創造性、主体性、関係性、統一性を中心に、知情意の観点や価値がここに集まります。結婚とは神様と人間が一つになることです。内外のすべてが一つになって家庭を成し、すべてのものが真の愛を中心に、本然の対象圏としての価値観を完成するのです。知情意はプラスであり、真善美はマイナスです。この二つが一つになって、家庭が形成されるのです。(2000・4・2)

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世界の平和は個人の平和から始まり、家庭的平和を経て、社会や国家の平和に拡大した後に初めて樹立されることが明確にわかります。この観点から絶対愛と絶対価値について考えると、真善美などの価値は愛を土台として形成されます。たとえば、真の愛の実践は善として評価されます。すなわち、真の愛が実践されるとき、それは善として現れます。ですから、神様の愛である絶対愛を実践することで、そこに絶対善が現れるのは自明のことです。

平和のために絶対愛を実践する個人の行為は、善(絶対善)です。同様に、平和のために真の愛を実践する家庭の行為もまた善です。社会や国家、世界においても同様です。言い換えれば、個人、家庭、社会、国家を問わず、真の平和を樹立するためには、絶対価値、すなわち絶対真、絶対善、絶対美を実現することが必要です。特に、絶対的な善の実践が切実に求められています。(1980・11・27)

愛と美

恩恵を受けた人、神様の愛を受ける人は美しく見えるのです。愛を受ければ美しく見えます。どれほど美しく見えるのでしょうか。光のように見えるのです。ですから、光を発することができます。このように、すべての存在がそのような光を発するようになれば、美しくない人、醜い人はいないというのです。(1970・8・9)
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日常生活において、美を現わすためには、いつも自分が相対的立場に立たなければなりません。天に対していつも侍る気持ちが必要です。親から見て子供はなぜ美しいのでしょうか。いつでも懐に抱かれる準備ができています。そのような基準をいつも保つのです。その基準から美の位置が決定します。愛は動的であり、美は静的です。そこで、初めて動と静が調和をなすのです。(1965・10・7)
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神様の愛というものは、被造世界に存在する物の生命の原則であり、生命の源泉です。ですから、いかなる存在であれ、その愛を離れて存在したいとは思わず、その愛と関係を結びたくないと思う物がありません。(1973・11・12)
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神様の愛とは何でしょうか。夫婦の愛、父母の愛、子女の愛を一つにしたものです。理論的にすべて総合してきちんと検証してみて、間違いないのでこのような結論を下しました。それでは、神様の創造目的とは何でしょうか。真の愛を中心として四位基台を完成することです。(1976・2・8)
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どのように四位基台がつくられるのでしょうか。真の愛を中心としてつくられていくのです。愛が抜けては何にもなりません。その愛はアダムだけの愛ではありません。エバだけの愛ではありません。アダムとエバが統一されたその場に立ち、神様の愛を連結させなければならないのです。神様の愛を連結させたその場には、アダムとエバの愛があると同時に、息子、娘の愛が介在します。三対象理想という言葉も、アダムを中心として見てみれば、天があり、妻がいて、子女がいるということです。これは、三掛ける四は十二で、十二数の対象圏を意味するのです。(1987・11・8)
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家庭において父母のために自らの生命を捧げて孝の道理を尽くし、夫と妻が各々烈男烈女の道理を尽くし、国王のために忠臣の道理を尽くす人が、正にその家庭の主人であり、その国家の主人です。

このような心が皆さんの心の中から湧き出てきて、体と一つになり、サタンまでも皆さんを尊敬して従うようになる時、初めて皆さんは、その国とその義を探し立てる民として立つことができるのです。(1957・10・13)
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孝は、不変の真の愛を中心としてなされます。忠も同じであり、聖子の家庭も同じです。聖子も同じです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、宇宙のすべてのものが連結されるセンターが真の愛です。その愛のセンターに連結されなければ、復帰の世界が成し遂げられません。それは、神様の愛の世界と連結されないというのです。そのようになれば、きれいに消えてしまいます。絶対家庭、絶対忠孝を神様は願われるのです。

今まで、そのような絶対的な忠孝が出てきませんでした。絶対聖子、神様の息子のような、そのような世界的な基盤がなければ、神様が地上に降臨できません。神様お一人では、地上において何の役事もできないのです。ですから、悲しい神様、かわいそうな神様だと言うのです(1998・11・20)
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孝の道を行く人は、自分の生活の中で良いことがあれば、まず父母のことを思います。良いものを見たのに、先に自分の夫や妻を思うのは堕落した世の中ですることです。先に自分の父母に貴いものを買ってさしあげなければ、自分の妻に買ってあげることはできません。皆さんの中には、このような話を聞いて引っ掛かる人が多いでしょう。自分の妻に服を着せようと思えば、まず父母にしてさしあげなければなりません。それまでは、自分の妻にも着せることはできないのです。その妻も、自分の夫が父母にしてあげていないにもかかわらず、「これが気に入ったので、あなたが私を愛しているなら、一つ買ってください」と言うことはできません。食べる物もそうです。男性たちも同じように、自分が服を買って着ようと思えば、まず父母に買ってさしあげてから自分が着て、妻にも着せてあげなければなりません。

御飯を食べるときも、父母に侍って食べなければなりません。サタン世界の父母が亡くなっても、三年の喪に服すのが韓国の風習です。ですから、この地で三年以上精誠を尽くして父母に侍らなければ、天上世界に行って大韓民国の子孫だと言うことはできないのです。昔の孝子たちは、父母の三年の喪に服するとき、墓に小屋を建て、そこで寝起きしながら孝の道理を果たしたのです。それが韓国の礼法ではないですか。私たちは、それ以上にしなければなりません。お粥を食べて暮らしていたとしても、そのような心をもたなければならないのです。夫婦だけよければ祝福家庭なのですか。お互いによい面を備えて、父母に侍る生活をしなければなりません。(1969・11・10)

被造世界の創造過程とその成長期間

被造世界の創造過程

神様ご自身の創造過程を中心として見ると、三段階の原則があります。まず神様の考えがあり、次にその考えを心を通して表し、最後にその実現が展開します。このような三段階を経て創造物が形成されたのです。み言を実践する際も、心だけでは不十分です。ここでもやはり神様を中心として、神様の心と体が一つにならなければなりません。そして、「このようになれ、このように創造されよ」と言って初めて創造が実現するのです。

私たち人間も、何かをするときには神様の創造と同じように、心と体が一つになって働いた結果が現れます。今日の社会組織や国家を見ても、あることを成し遂げるためには、まず文章で計画を表します。言葉の代わりに表示するのが文章です。したがって、言葉で立てた計画を文章で示し、その計画通りに実践すれば、その目的が達成されるのです。(1972年8月18日)

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聖書によれば、神様はみ言で被造万物を創造されたとされています。しかし、考える段階からみ言で創造する段階に移行するのは飛躍です。なぜなら、考えというものが体系化され、一つの目的を指向するようになったものをみ言の形態で現れるようにするには、そこに新しい何かが加えられなければ、それ以上の発展が不可能だからです。

また、み言だけではすべてが成し遂げられません。み言と一致する実体的な内容が必要です。言い換えれば、み言に基づいて実体を構成する力が必要なのです。み言を中心に見るとき、この実体はより発展的な蘇生の形態であることに違いありません。このような実体が現れたとき、初めて喜びが生まれます。喜びが生じれば、そこから和動の役事が広がります。そして、現れた実体がある段階まで発展すると、初めて愛が加わるのです。

これが、神様が被造万物を創造された過程です。まず考えがあり、そこにみ言が加わって実体を成し、その実体の上に愛が加わります。

このような創造過程を経て万物が生成されました。考える段階から体系的なみ言の段階に移行したとき、つまり「これこれこのように創造しなければならない」と漠然と考える段階から、具体的な内容を添付して一つの理論的体系を備えたみ言の実体を成したとき、言葉で表し難い喜びが生じるのです。

したがって、今日の私たち人間について考えると、神様が天地創造の理念を中心として人間を創造するために無限の努力をされたと考えられます。どのような過程を通じてどのような形に造るかを考えられたのです。人間もみ言で創造されました。「理想のとおりに人間をこのような形態で造ろう」と決心され、「目はこうで、鼻はこうで、手はこうで、足はこうで …」と考えて造られたのが人間です。人間を造られる前に、人間の形はこうだと説明できる体系を模索したのち、その基盤の上で実体的な万物と連結させて人間を創造されたのです。(1970年3月13日)

被造物の成長期間

人間は成長期間を通して、神様の真の愛を段階的に体得しながら成熟するようになっています。真の愛によって生まれた人間は、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の子女の愛を順次的に体得しながら完成するのです。

個体についてみれば、心と体が一つになるところで真の愛が現れるようになります。次に、心身一体となった完成した男女が真の夫婦の真の愛で愛し合い、次に、彼らが真の神様の真の愛と連結して、子女を正しく愛することのできる真の父母にならなければなりません。夫婦の心と体の中に神様の真の愛が臨み、その真の夫婦が一つになって息子、娘を生むようになっています。そうしてこそ、完全な理想的家庭が築かれるのです。(1998・6・2)

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神様の真の愛は、人間の幸福と喜びの源泉であり、人間はこの真の愛を体得することによって完成するようになっています。愛は経験と生活を通して体得できるのですが、人間の成長期間はまさに愛を段階的に体得する貴重な期間です。(1995・8・22)

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絶対的な無限の価値の基準にまで到達するためには、ただそのまま成長するのではいけないのです。すべての万物が原理結果主管圏を通って直接主管圏で完成するようになっているので、あらゆる万物の霊長である人間もその過程を経て完成しなければなりません。その過程で堕落したのです。神様の愛が分からずに堕落しました。天地の始まりがどこで、過程を経てどのように自分が定着できるのかということを知らないまま堕落したのです。(1995・10・13)

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私たち人間はどこで堕落したのでしょうか。原理で教えているように、長成期完成級で堕落しました。長成期完成級で堕落したので、完成段階を経て完成するまでには七年路程が必要です。七年路程を経なければなりません。ですから、まだ完成段階が残っているのです。途中で転がり落ちました。すべて上がりきっていれば落ちないというのです。(1972・6・11)

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神様の直接主管圏に連結できる神様の愛圏に行くためには、間接主管圏で何をしなければなりませんか。完成するためには、自分の責任分担を完成しなければなりません。人間には責任分担があるのです。神様が人間に責任分担を与えた目的は何でしょうか。創造の偉業に同参させるためです。九五パーセントは神様がつくり、五パーセントは人間がつくることによって、人間を創造するときに神様だけが創造するのではなく、人間も自ら創造したという条件になるのです。このような同等な価値圏を賦与するためのものが責任分担です。これが偉大なのです。人間だけに責任分担があるのです。(1986・1・31)

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男性はアダムの代身であり、女性はエバの代身でなければなりません。それでは、そのアダムはどのようになるのですか。本来は堕落せずに神様と完全に一つになり、サタンではない天使長が完全に仕え得る位置に立ったアダムにならなければなりません。エバも、そのような位置に立ったエバにならなければなりません。そのような使命を、今日この世界に生きているすべての人たちが果たさなければならないのです。これが神様を求めていく路程において、私たちがしなければならない責任分担です。(1976・5・23)

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人間に責任分担という基準を立ててあげたのは、愛の理想を完成するためであり、神様が創造過程で人間に五パーセントの責任分担を必要としたのは、その対象圏が必要だからです。愛は一人ではできません。いくら全知全能の神様でも、対象がなければ愛が顕現できないのです。(1983・12・11)

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直接主管圏は、アダムとエバが愛を中心として同参できるところです。ですから間接主管圏は、責任分担未完成圏です。責任分担完成と同時にアダムとエバが愛を中心として夫婦になり、神様は内的父になり、アダムとエバは外的父母となって内外に一つになる時に、初めて直接主管圏が設定されるのです。ですからこの過程では、結婚が絶対に必要だというのです。独身では越えていけません。(1986・1・31)

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天国はどこから始まるのでしょうか。サタンを分立しただけのところで始まるのではありません。責任分担完成圏から始まるのです。それは直接主管圏と間接主管圏が責任分担を完成したアダムとエバを通じて初めて連結され、天の愛が地上の愛に連結されるのです。これが原理です。それができていないので、サタンはこれを妨げるのです。天の愛の道を妨害するのがサタンです。(1986・10・9)

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間接主管圏と直接主管圏を連結させるために責任分担を完成しなければなりません。責任分担完成というものは、男性が成熟し、女性も成熟しなければならないのです。男性と女性が完成するとはどういうことですか。エデンの園での完成は、神様しか知らないのです。神様を第一に愛さなければなりません。その次に、男性は女性を第二に思い、女性は男性を第二に思う、そういう人にならなければなりません。このようになるとき、責任分担を完成して間接主管圏から直接主管圏内に行ける新しい次元に越えていくのです。(1987・5・20)

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神様の愛を中心として、神様の完全な愛が顕現するとき、サタンは現れることができません。それが責任分担完成です。責任分担を完成したならば、間接主管圏と直接主管圏において愛の因縁が結ばれるのです。そこで縦的愛と横的愛が連結されるのです。そうなれば、その縦横の愛を通じて神様の血統的な因縁、すなわち血縁ができるのです。血統が生じます。神様の愛を中心として一つになり、縦横の愛と因縁を結んで生まれた血統は、サタンが干渉できないのです。サタンとの因縁がありません。ですから、心情を受け継ぐためには、純粋な神様の愛を中心とした本然の伝統的血統を受け継がなければならないというのです。(1988・2・21)

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人間は、誰もが生まれてから成長過程を経ていくようになります。父母の愛と保護のもと、比較的安全で無難な幼少年時代を経たのち、周囲のすべての人たちはもちろん、万物万象と共に、新しい次元の関係を結び、新しく躍動的な人生を出発する青少年期に入っていきます。それは外的に成人になるだけでなく、内的に人格完成を通じた絶対人間の道に入っていく瞬間です。ここで、人間なら誰でも例外なく守るべき絶対必要条件が、まさに純潔です。人間にとって純潔がモデルとしての絶対「性」であり、必要条件なのは、神様が創造理想を成し遂げるために、御自身の子女に与えられた宿命的責任であり、義務であり、天道の道がまさにモデルとしての絶対「性」の完成の道だからです。

神様が人間始祖のアダムとエバを創造して与えてくださった唯一の戒めとは何だったでしょうか。天が許諾する時までは、お互いの性を絶対的基準で守りなさいという戒めであり、祝福でした。善悪の実を取って食べれば必ず死に、取って食べずに天の戒めを守れば、人格完成はもちろん、創造主であられる神様と同等な共同創造主の隊列に立つようになり、さらには、万物を主管し、永遠で理想的な幸福を謳歌する宇宙の主人になるという聖書の御言は、まさにこの点を踏まえて語ったことです。婚前純潔を守り、真の子女として天の祝福のもとで結婚をし、真の夫婦となり、真の子女を生んで真の父母になりなさいという祝福だったのです。これは、神様の創造原則である絶対「性」を離れてなされるものではないという事実を確認させてくれる内容です。すなわち、神様のこの戒めの中には、人間が歴史を通して神様の子女として個性を完成し、万物の主管位に立つためには、神様の創造理想のモデルとしての性を相続しなければならないという深い意味が隠されていたのです。

絶対「性」は、このように天が人間に賦与された最高の祝福です。絶対「性」の基準を固守しなければ、人格完成、すなわち完成人間の道が不可能だからです。さらには、神様も人格神・実体神の位相を立てるためには、完成人間を通して真の家庭的絶対「性」の基盤を確保しなければ不可能だからです。絶対者であられる神様が、私たちの人生を直接主管され、私たちと同居し、共に楽しまれるためには、御自身の相対であり、子女として創造した人間が、神様のように絶対「性」的基準で完成した家庭の姿を備えなければならないということです。絶対「性」を中心とする家庭の枠の中でこそ、祖父母、父母、子女、孫と孫娘、このように三代圏を含む人間の本然の人生の理想的モデルとしての性関係が創出されるのです。この基台の上でこそ、神様の永生はもちろん、人間の永生も可能になるのです。

したがって、絶対「性」を中心とするアダムとエバが、神様の御旨のとおりに個人完成、すなわち人格完成を成し、神様の祝福の中で夫婦関係を結び、神様と完全一体を成し遂げていたならば、神様が彼らの中に臨在し得る因縁が決定していたでしょう。さらには、彼らの子女にも、神様と直接的に父子の因縁を結び得る愛の基準が連結されていたでしょう。言い換えれば、完成したアダムとエバの絶対「性」を中心とする結婚は、神様御自身の結婚になっていたのです。神様でありアダムでもあり、エバであり神様でもあり、アダムとエバが神様の体になり、神様は彼らの心の位置に安着され、共に有形・無形の二つの世界で絶対「性」を中心とする人類の真の父母になっていたでしょう。(2006・11・21)

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全人類は八段階の復帰過程を経て、神様の子女の立場を取り戻さなければならないのです。すなわち、腹中時代を経て、幼児時代、兄弟時代、婚約時代、夫婦時代、父母時代、祖父母時代を経て、王と王妃の時代までの八段階を復帰しなければなりません。結局、人間は神様の子女として、王子・王女として、天地の大主人になるという目的で生まれたのです。

このように、私たち人間は本来、成長して、男性は女性に出会って王となり、女性は男性に出会って王妃となり、天の国の王子・王女として、天の国のすべてのものを相続される相続者の位置にまで行かなければなりません。(2000・2・2)

人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界

無形実体世界と有形実体世界

人間の構造をよく見てみると、神様は人間を二重構造で創造されたことが分かります。有形世界である現象世界の縮小体として肉身を創造され、無形世界の代表であり、主人として立てるために霊人体を創造されました。したがって、人間は地上界で百年くらい生きて肉身の機能が終われば、自然に、そして自動的に無形世界の霊界に入っていくようになっているのです。このように霊界は、肉身を土台として生きている私たちの目では見ることができないだけであって、地上生活の自動的で必然的な延長なのです。神様が創造してくださった人間の永遠の本郷です。

霊界は、このように厳然として存在します。妄想の世界でもなく、想像の世界でもありません。これは人間の選択権の外にあるのです。良いからといって行き、嫌だからといって行かなくてもよい、そのような世界ではありません。神様が永遠不変の方であられるように、御自身が創造された霊界も永遠不変なのです。私たちが地上界で肉身をもって現象世界と様々な関係を結んで暮らすのと同じように、霊界でも人間は霊人体をもって霊界のすべての現象と密接な関係を維持して生きていかなければならない宿命的路程にあるのです。(2006・4・10)

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私たちはこの世に生きていますが、この世だけがあるのではなく霊界があるのです。この世と霊界は、二つの世界ではなく、真の愛を中心とする一つの世界として連結されなければなりません。私たちは肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって進んでいます。人生は、永遠の世界に入るために準備する貴い教育期間なのです。(2005・2・14)

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人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をするのです。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されるのです。理想的な愛が供給されるというのです。(1999・1・17)

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霊界は、どのような組織になっているでしょうか。あの世では、空気が愛です。愛か空気になっています。この地上で愛の感触を受けて体と心が和合できる要素として愛を体恤しなければなりません。愛の体恤圏をつくっておくようになれば、ただそのまま通じない所がないのです。木の樹液が木の芽と木の根を通じるように、通じるのです。神様が喜ぶのを自然に自分が感じるのです。東方に向かって、神様のうたげが繰り広げられるということが分かるのです。(1987・4・17)

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霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気でいっぱいです。ですから私たちは、この地上世界から愛の息をする、もう一つのパイプ装置を設けなければなりません。そして霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないというのです。

霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。したがって完全な愛の人格を成し遂げなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じません。門を通ったとしても一つの門だけを通らなければならないのと同じです。

春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて暮らせる資格を備えようとするなら、完全な愛の人格を具備しなければなりません。ですから三時代を経ていくように人間を造りました。(1999・1・17)

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とんぼも幼虫が水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらくはい回ります。その次にはひらひらと飛び回り、食べるとは思いもしなかった虫を陸地で捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように昆虫類の中では翼があって三段階世界を経るものが多いのです。

昆虫も、このように水と陸地での生を経て空中で暮らします。ましてや万物の霊長である私たち人間は、もっと次元の高い翼をもっているのです。私たちは神様の代わりに愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生んで、愛の目的地に到達して永遠に神様と共に生きるために神様のところに帰るのです。すなわち私たちの一生とは、愛で始まり、愛で熟し、愛の実として収められるのです。人が死ぬということは、愛の実を収めることです。(1999・1・17)

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私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛することによって、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすべてを、一生をかけて実を結んで収め、あの世にいくのです。したがって私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさってこのような三段階の愛を完全に成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心とした夫婦が死ねば、そのようになるのです。そのように神様で始まって神様で締めくくるようになっています。(1999・1・17)

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人間が死ななければならない理由は、体をもっていては制限された愛でしか愛せないからです。無限大の神様の愛の対象的実権をもって現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから無形の霊にならざるを得ません。

さらに、愛の理想を全天地と同一化するためです。ですから、死は苦痛の道ではなく、宇宙的な愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間です。死ぬということは、歩き回る陸地の世界から飛び回って暮らせる世界に移ることです。

全宇宙を自分の舞台にして、愛で楽しめる旅行の資格になり、そのような世界にようになっています。入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることなのです。(1999・1・17)

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私たちは、初め母親の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、すべて蹴飛ばし、破ってしまって生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを切ってしまって飛んでいくのです。したがって人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠の真の愛の世界で暮らすようになるのです。(1999・1・17)

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霊界では生命の要素が愛なので、愛を通じた命令には、すべてに不可能がなく、即座に実現します。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物を準備して、あっという間に宴会ができます。そのとき列席する貴賓たちが、みな王女、王子になりたいというときは、本物の王女、王子になるのです。それが可能です。

皆さん、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいですか、あの世に行きたいですか。腹中にいるときは「腹中が一番いい」と言いながら、腹中でひたすら足で蹴飛ばしながら暮らします。途中で引き出そうとすれば嫌だと言うでしょう。そしてお母さんのおなかの中から外に出るときは、死んだような立場から目覚めます。地上での死というものも、死んでから目覚めるのと同じ作用なのです。したがって死とは、正に第二のお産です。(1999・1・17)

被造世界における人間の位置

本来、神様の創造過程を考えてみれば、神様は万物をつくって人間を造られました。そして、神様を中心としてすべてのものが始まったのです。人を造ることによって、神様と人間と万物が平衡的な立場で統一することを顧われたのが、神様の創造のみ旨でした。神様がいて、この被造世界には地があり、その中に人がいるのです。このような中間的な立場に立ったのが人間なので、人間は霊界と肉界を接触させる媒介体だというのです。(1973・6・1)

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地球が地軸を中心として回転するのと同じように、神様の心情と目的を中心に創造された被造物も、その目的を中心に授受作用しなければなりません。このような授受作用をするときに、その媒介体になるのが人間です。こうして三点を成すのです。すなわち主点と客点、そしてそれを連結する中心基準の人間、これらが三点を成すのです。(1965・2・7)

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人間は、和動の中心体です。和動するためには、絶対的な中心基準が設定されていなければなりません。それは、大勢の人が拍子を合わせようとすれば、指揮者を中心として上下関係がよく連結されていなければならないのと同じです。

この宇宙の和動の中心体が人間だということを、私たちは原理を通して学びました。ですから、このような人間は、絶対的基準と一致した位置にいるので、その人間がとどまる所にとどまるのであり、存在世界がそれを中心として作用するのです。そして、その作用によって存在世界に力が生じるようになるのです。(1970・2・26)

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神様は、御自身のために万物をつくられたのではありません。人間のためにつくられたのです。人間は、存在世界の中心的な存在として造られたのです。ですから、人間には、存在世界のすべての要素と性稟が入っているのです。したがって、堕落した人間が完全な中心として決定したというときは、天地が公認するのです。このような人間は、宇宙の和動の中心体の位置に立つようになります。(1970・2・26)

肉身と霊人体との相対的関係

生心とは何かというと、縦的主体であられる神様が横的なアダムの心の中に臨在されるとき、その神様をお迎えする心です。それを生心というのです。(1971・10・24)

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生心とは、心と霊が一つになり、新しい一つの目的に向かって動く存在です。神様を中心として私たちの良心と一つになり、霊肉を中心とした理想的な私をつくりだす動機に当たる心です。ですから、その生心がなくては、霊界と理想と真の愛とすべてのものと関係を結び得る自らの根源を見いだせません。(1977・2・6)

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人間の霊人体と肉身の関係について見てみるとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は百年くらい生きて死にますが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。いくら地上界で良い服を着て、良い物を食べ、裕福に暮らした人であっても、結局、死ぬのです。したがって、私たちの人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を成して暮らしてから逝かなければなりません。現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させるべき責任があるということです。だからといって、霊人体の完成が自動的にやって来るのではありません。必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体となった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実っていくのです。

秋になって、倉庫に入っていくよく熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と主人の細やかな世話が絶対に必要です。無精で見識のない主人に出遭った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟せないまま落果したり、虫に食われた果物として分類されたりしてしまうでしょう。果物は果物ですが、すべて同じ果物ではありません。市場に出して売れる完成品にはなれないのです。

木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入っていくのです。言い換えれば、人間は、肉身をもって暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入城するようになるのです。

地上界で暮らす間、私たちの一挙手一投足は、このような天の公法を基準として、一つ残らず私たちの霊人体に記録されます。したがって、霊界に入っていく私たちの姿は、肉界での人生を100パーセント収録した霊人体の姿です。よく熟した善の人生だったのか、虫に食われ腐った悪の人生だったのかは、私たちの霊人体に赤裸々に現れるのです。神様が私たちの審判主ではなく、私たち自らが自分の審判官になると、このような途方もなく恐ろしい天理を知れば、どうしてあえて地上界の人生を、あらゆるサタンの誘惑に陥り、利己的で、快楽ばかりを追い求める背徳の人生で終えることができるでしょうか。私たちの霊人体に傷を負わせ、傷痕をつけることは、命を懸けて慎まなければなりません。天国行きと地獄行きが、今日この時間、私たちの考えと言行で決定されるのです。

だからといって、霊人体自体が真の愛の人生を主導し、実践できるのではありません。私たちの霊人体は、必ず体と心の円滑な授受作用によって展開する肉身の人生を土台とした、真の愛の人生を通してこそ成長し、完熟し、完成するのです。ところが、私たちの中では、外なる人と内なる人が絶えず葛藤し、争っていることを否定し得ないでしょう。あとどのくらいこの争いを継続されますか。十年ですか。百年ですか。宇宙のすべての存在には、厳然とした秩序があります。神様は、私たち人間を、そのように不完全な状態で創造されたのではないというのです。外なる人である肉身の誘惑を果敢に振り切ってしまい、内なる人である良心の道に従って人生の勝利を達成することが、人間である私たちの義務であり、責任だということを知らなければなりません。このような人生を生きる人には、天運も共にあり、霊人体の完成も見ることができるのです。(2006・4・10)

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霊人体と肉身はいつ一つになるのでしょうか。これが問題です。これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じように共鳴するのと同じ道理で、神様の愛の作用が私たちの心に来れば、自動的に体に反応するということです。ですから、体と心を100パーセント共鳴させ得る圏内に追い込めるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛です。愛だけだというのです。(1986・1・24)

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人が完成すれば、霊人体と肉身が、心情圏で共鳴する共鳴圏が、初めて設定されます。人間世界において霊人体と肉身が何を中心として共鳴するのでしょうか。共鳴は、他のものでなされるのではありません。知識でも共鳴しません。理性でも、喜びでも共鳴しません。物質的な喜び、世の中の所有欲を通した喜びでは、霊人体と肉身が共鳴しないのです。愛を中心としたものによってのみ共鳴します。

ですから、男性がいれば絶対に女性が必要です。絶対に必要です。男性に相対である女性がいなければ、男性の霊人体と肉身が共鳴する道がありません。周波数が同じであってこそ共鳴するのです。男性一人では、いくら信仰生活を一生懸命にやったとしても、共鳴する道がありません。女性と一つになるときに共鳴するようになるのです。女性の完成した霊人体と肉身や男性の完成した霊人体と肉身も、愛を中心として共鳴するようになっているのであって、ほかのものでは共鳴しません。その愛が根源となって神様を中心として連結されるようになっているのです。(1988・1・9)

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私たちは地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界に向かって進んでいます。私たちはこの世に生まれると、十代、二十代、三十代、そして中年と壮年と老年時代を通過します。このように青春時代を過ぎて壮年時代を経、老年の峠を越えつつ、日が沈むように人生を終えていくのです。しかし霊界があるという事実を知っている人々は、地上で肉身をもって生きる一生はわずかなもので、死んだのち、私たちが迎えるべき世界は永遠だということをよく知っているのです。ですから地上での生涯というものは、永遠の世界に行く準備をするための期間です

学生を例に挙げれば、学生が一学期あるいは一学年を終えるときには、学校が定めた取得すべき単位の基準があります。その最高基準を百点とするとき、その基準にその学生の単位がどれほど到達したかという割合によって、学校から認められる割合が決まるのです。しかし単位が足りない比率が高ければ高いほど、その学生は学校が立てたその価値基準から遠ざかるのです。

このようにすべてのものは、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっています。私たちが一生の間肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校でいい点数を取るために準備する期間と同じようなものです。言い換えれば、私たちの生涯すべてを懸けて単位を取る準備期間だということです。すなわち私たちの一生において責任を追及するある基準の前に、私たちがどれほど一致するかという基準値を中心として、私たちは日々の生涯路程を歩んでいるのです。ところがほとんどのこの世の人々は、本来人間がこの世に生まれて生き、求めていくべき本然の世界がどこなのかをはっきりと知らずにいるのです。すなわち死後の世界があるかないか、神様が存在するかしないかも知らずに生きています。(1998・12・19)

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霊界に行く時までに、私たちは何をしなければならないのでしょうか。その時になって、その世界に適応できるように、私たち自身を訓練しなければなりません。父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子供を愛しながら、この地上世界で訓練をしなければなりません。そうして時が来れば、永遠の世界へ入り、永遠に神様に侍って生きるようになるのです。(1998・12・19)

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人間はどのみち死にます。私たちは、善なる自己を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ちゃんとして生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活も、よく準備しなければなりません。神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習いつつ、大きくならなければなりません。大きくなってからは、また命を懸けて越えていかなければなりません。したがってどんなに恐ろしい暴風雨がやって来ても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。よくやっていても、境界線の前で倒れてはなりません。

私たちがこのような人生の境界線に立つとき、私たちは果たして何をしなければならないのでしょうか。思いをしっかりして頑張っても最後まで行けるかどうか分からないのですから、あたふたしていたら、途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になれません。

人として生まれ、一度やってみるだけの価値のあることです。いくら後ろで反対し、横から迫害したとしても、自分の行く道を行けばいいのです。人が反対することに関与している余地はありません。一歩ずつでも早く行って、この運命の道を通過していこうという人が、最後の境界線を越えていけるのです。私たちはみな、そのように行かなければなりません。

ですから私たちは、私自身を見つけなければなりません。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母に、そうだと認定されなければなりません。その土台の上に私たちは親戚、一族、一国、このように発展させていき、私たちの生活環境を拡大していくのです。(1998・12・19)

堕落論について

罪の根

人間が罪を犯すようになった動機は、私たち人間自体にあるのではなく、罪を犯させた主体的な悪の存在がいて、その悪の主体が動機になったのです。この罪を犯させた主体が誰かといえば、聖書に現れている悪魔サタンです。(1972・3・11)

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サタンの正体について、はっきりと知らなければなりません。サタンは、なぜサタンになったのでしょうか。今日、既成教会の信徒たちは、サタンの正体について知りません。病気になれば、その病気を治すためには、病気の原因をはっきり究明し、それに見合った処方を通して投薬がされなければならないのであって、盲目的に「そのようなものだ」と考えていてはいけません。(1986・3・13)

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このサタンという存在が問題となって人類が堕落したので、これに関することを私たちははっきりと知らなければなりません。サタンの犯した罪がどのようなものなのかをはっきりと分かれば、神様の前にすぐに讒訴できるのです。世の中で罪を犯した殺人強盗も、自分が罪を犯しても、世の中の人たちがその事実をはっきりと知るまでは、どこに行っても堂々と振る舞えます。しかし、自分が殺人強盗だということを知る人がいれば、その人がいくら幼い少年だとしても、その前に頭を下げなければなりません。(1972・2・6)

生命の木と善悪を知る木

創世記を見ると、エデンの園には二本の木があったのですが、一本は生命の木であり、もう一本は善悪を知る木と言いました。その木は何でしょうか。神様が取り戻さなければならない真の男性と真の女性です。真の父母になり得る男性と女性を失ってしまったので、それは真の父母を象徴する言葉です。(1985・4・7)

蛇の正体

サタンがどのようにしてサタンになったのかということを、聖書を通して調べてみましょう。ヨハネの黙示録第十二章九節を見ると、「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび」という言葉があります。「巨大な龍」のことを「年を経たへび」と言っています。この「年を経たへび」とは何かというと、人類を堕落させた根本となる蛇を指摘しているのです。その蛇の正体は龍なのですが、この龍を「悪魔」とか「サタン」と呼ぶというのです。

サタンである「年を経たへび」は「地に投げ落され」とあります。「年を経たへび」の本来の居所は、地ではなく天です。霊的な世界から追い出されたので、彼が霊的な存在であることは間違いありません。エデンの園で蛇がエバを騙したと言いますが、それは比喩です。サタンは、神様とアダムの会話の内容と約束したことをすべて知っていました。ですから、サタンは神様とアダムとエバと最も近い位置にいた存在であることは間違いありません。(1972・2・10)

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創世記に出てくる蛇は、地上に這い回っている蛇のことではありません。その蛇は、神様とアダム、エバが話すことをすべて理解していました。このことから考えてみるとき、それは誰よりも近い所にいる存在なのですが、その存在とは何だったのかが問題です。それは天使しかいないというのです。(1972・2・13)

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それでは、この悪魔サタンがもとからいたのか、そうでなければ、神様の創造物の中のある存在が横から入ってきて、人間を堕落させることによって悪魔サタンになったのか、これが問題です。皆さんの中で、神様はいるか、あるいはサタンはいるかについて考えたこともない人には、これは理解し難い問題かもしれません。しかし、皆さんが神様に対して真剣に祈れば、必ず妨害する存在がいることを体験できるはずです。そのような存在がいて、神様と人間が関係を結べないように反対作用をしているのです。

今まで、六千年という人類歴史を中心として、人間を苦痛の中に閉じ込めてきたサタン、神様が救援摂理をしているにもかかわらず、その救援摂理を成就できないようにしてきたサタン、神様に反対するこのサタンという存在がどれほど巧妙であるかということを私たちは考えざるを得ません。そのようなサタンが神様と同じように最初から存在していたとすれば、今日、堕落した私たち人間が、そのサタンに勝利して天国に行くということは、これ以上ないほど難しいことです。

そのような立場に立てば、二元論になるのです。そのようになれば、目的が二つになります。相反する目的が二つになるので、一つに統一するということは、いつまでたっても不可能です。その間に挟まっている私たち人間が、神様の願う目的に行くというのも至難の業です。ですから、私たちが願う理想世界は、夢にも訪れません。したがって、もとからサタンがいたと見ることはできないのです。このように見れば、サタンは、何かの事故により、途中で横から入ってきた存在だということを認めざるを得ません。(1972・3・6)

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神学的な立場でも、もとから悪魔サタンがいたのか、いなかったのかが問題となっています。もしサタンがもとからいたとすれば、問題が大きいのです。全知全能である神様の摂理に対して、六千年間、反抗しながらそれを遮ってきた、巧妙で抜け目のないサタンがもとからいたとすれば、このサタンを退治し、除去できる人は存在し得ないのです。

サタンがもとからいたとすれば、堕落した人間が救いを受けて天国に行っても、再び堕落する可能性があるということです。ですから、サタンがもとからいたとすれば、私たちが救いを受けて完成したいという希望を成し遂げることは不可能です。もしサタンがいることを知って、神様がこの世界をつくられたとすれば、その神様は、おかしな神様と言わざるを得ません。

このような点から見れば、サタンは、もとからいたのではないというのです。そして、人間は、完成したあとに堕落したのではなく、未完成期に過ちを犯して堕落したという論拠を、私たちは見いだすことができます。(1972・3・11)

天使の堕落と人間の堕落

蛇、つまり悪魔サタンが人類始祖を堕落させたのですが、いったい何の罪を犯したのでしょうか。これが問題です。ユダ書六節を見ると、「自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑を受け、人々の見せしめにされている」とあります。これを見るとき、悪魔サタンが罪を犯した動機は何か、犯行の内容は何かというと、姦淫であることが分かります。(1972・2・21)

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サタンは姦淫によって堕落したのですが、これは人間の堕落と通じます。エバが堕落したあと、どうなりましたか。見て、取って、食べて、口を塞いだのではなく、手を止めたのでもなく、なぜ腰を隠したのか、これが問題です。

聖書のイエス様の言葉を見ると、ヨハネによる福音書第八章四十四節に、不信する者たちに対して「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者」と記されています。サタンと人間との関係において行われた淫行を神様も赦すことはできません。淫行関係によって血統が汚されました。これは否定できません。ですから、私たちの先祖は結局、堕落して血統を汚してしまったのです。(1972・4・23)

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アダムとエバの堕落は神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪です。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。蛇で表示された天使長の誘いを受け、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って肉的な堕落をしてしまったのです。

本然の園で神様と対話しながら、楽しくはしゃぎ回って暮らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みないで犯し得る可能性のある犯罪は、間違った愛の犯罪しかないのです。人類の先祖の初愛の結合は、神様自身の愛の完成でもあったので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中に酔う幸福な宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が人間の中で出発しながら定着する幸福な儀式でなければなりません。

ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて、不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。こうして堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれる時から原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が紊乱(びんらん)した社会の中で、本心が願わない生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。(1996・4・16)

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堕落は間違いなく淫乱によって始まったことを認めなければなりません。堕落したことを知らなければならず、淫乱によって堕落したことを知らなければならないのです。第一は堕落したこと、第二は淫乱によって堕落したこと、第三はそのような堕落したサタンの武器がこの地を覆っていることを知らなければなりません。(1992・9・20)

善悪の実

聖書では、エデンの園で人類始祖が善悪の実を取って食べたことが堕落の起源になったといいます。しかし、これは、聖書の重要な部分がそうであるように、文字どおりの果物ではなく、比喩と象徴で説明したものです。『マタイによる福音書』第十五章十一節で語られているように、「口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」とあります。(2001年5月8日)

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取って食べてはならないと言われた善悪の実とは、未完成なエバの貞操のことであり、さらにはエバの生殖器を指し示しているのです。人間にとって生殖器は、神様が最も心血を注いで創造されたものであり、真の愛の王宮であり、真の生命の王宮であり、さらには真の血統の王宮として創造されたのです。善悪の実とは、文字どおりに王と関係を持てば王子を生むのであり、マフィアと関係を持てばマフィアの子女を生むのです。種を蒔いたとおりに収めるようになります。それで、善と悪を分ける「善悪の実」というのです。(2001年7月3日)

罪の根

善悪の実を手で取って食べたことが罪なのでは、絶対にありません。他の問題を除いても、善悪の実を取って食べて堕落したというのは、絶対に違うというのです。愛の問題でなければ死を超越することはできません。これは常識的に考えてもそうです。今までの牧師たちは、善悪の実を取って食べて人間が堕落して原罪が生じたと言いました。それでは、原罪とはいったい何ですか。これを考えてみるとき、愛の問題で堕落したというのです。(1969年5月11日)

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「私たちはイエス様を信じ、その血の功労によって完全な救援を得た」と考えるクリスチャンたちが多いと思います。よく信じて完全な救援を得たという牧師、神父、あるいは教区長がいるとすれば、彼らが生んだ息子、娘は、イエス様を信じなくても天国に行けるのかというのです。行けません。この上なくイエス様を信じる使徒ヨハネのような人が結婚して生んだ息子、娘だとしても、やはりイエス様を信じて初めて救援を得るのです。それを見るとき、私たち人間の中から罪の根を完全には抜き得なかったことを皆さんは知らなければなりません。

このように罪の根を植えておいた堕落の起源が何であるがゆえに、それほどまでにひどいものなのかという問題を考えてみるとき、血統的な問題にその原因があるという事実を否定できません。ですから、悪魔サタンは姦淫をしたというのです。(1972年2月22日)

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どこで天国と地獄が分かれるか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。正に皆様の生殖器です!深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実をだれが否定できますか。レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に、説明がなされています。疑問に思うなら神様に尋ねてみてください。皆さんには夢にも想像できない内容と理論をもって体系立てておいたレバレンド・ムーンの原理の本に、誰も反対することはできないのです。(1996年8月1日)

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千代万代の子孫が罪人になる善悪の実とは何でしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。(1969年5月18日)

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サタンの血統は、どの部分から連結されたのでしょうか。キスを通じてですか。愛を通じてです。それはどこですか。その起点がどこですか。生殖器です。神様の視点から見るとき、この生殖器が恐ろしい器官だというのです。(1999年9月5日)

堕落の動機と経路

天使の創造とその使命および人間との関係

天使長の本分は創造に協助することです。一創造の偉業に協助するようになっています。その次には何ですか!頌栄を捧げることです。協助して頌栄を捧げ、その使命を果たしながら神様の相談相手になるようになっています。(1975・1・26)

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神様は、アダムも愛され、天使長も愛されます。ところが、天使長は神様の僕なのです。神様の僕なので、天使長は神様と父子の関係にあるアダムの僕にもなるのです。(1970・8・29)

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神様の息子、娘の位置は、アダムとエバが堕落したその位置よりも高い位置です。言い換えれば、堕落する前のアダムとエバよりも高い位置なのです。つまり天使長に命令すれば、天使長が「はい」と言って順応しなければならない位置であり、神様の子女として栄光を謳歌できる位置であり、神様のこの上ない愛を受けることのできる位置です。(1969・1・1)

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コリント人への第一の手紙第六章三節を見ると、「あなたがたは知らないのか、私たちは御使をさえさばく者である」という聖句があります。人間は天使までも審判しなければなりません。このように途方もなく高貴な人間なのですが、今日の人間たちは、美人や美しいものがあると、「ああ!天使のようにきれいだ」と言います。本来は、天使など比べ物にならないというのです。(1972・2・13)

霊的堕落と肉的堕落

悪魔は本来、天使長でした。天使を創造するとき、補助役としてつくられた被造物です。そのような存在として、神様がアダムとエバを愛していることを知り、アダムとエバが神様の息子、娘として造られたことを知っていました。ところが、神様がアダムとエバを愛しているのを見ながら、天使長自身が愛の減少感を感じたのです。それだけでなく、天地のすべてのものが自分を中心としてつくられたのに、アダムとエバを造ってからは、それがすべてアダムとエバのものになっていくというのです。 (1990・2・21)

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サタンが、アダムとエバに対して、愛の減少感を感じたことが堕落の動機になりました。サタンは、人間が造られる前から、長い間神様の愛を独占していました。ところが、アダムとエバが神様の愛を受けるようになると、彼らを堕落させ、神様の愛を独占しようとしたのです。これが堕落の動機です。(1969・1・1)

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エデンの園には五人の男性がいました。それは、すべての被造世界の男性格主体であられる神様をはじめとして、アダム、そしてルーシェル、ガブリエル、ミカエルの三人の天使長でした。女性は、エバ一人だけだったのです。エデンの園で彼らは、恥ずかしく思うことなく裸で過ごしながら、相対関係になっている昆虫や動物などの生態系を見て何を感じたでしょうか。それで、創世記第二章十七節の「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言われた戒めは、エバの愛の問題を強く警告したものでした。エバは、神様を中心として個性完成して、神様が許諾なさる祝福結婚をする時までは、絶対に純潔を守って神様の永遠の愛と生命と血統を繁殖すべきだったのです。しかし、エバは、僕である自分の立場を忘れて過分な欲望をもった天使長ルーシェルと不倫な関係を結んで堕落してしまったのです。(2001・5・8)

ーーーーー

エデンの園では裸で暮らしていました。アダムとエバの生活というのは、男性と女性の生活です。女性は日陰に座って休もうとし、男性は動物などの万物を主管する主人にならなければならないので、春の季節になると野山を駆け回り、あらゆるものを探索しようとします。エバはついていけません。ですから、兄に当たるアダムについていこうとして「お兄ちゃん、私も連れていって」と言いながら毎日たくさん泣いていたのです。

このようなエバと誰が友達になってくれたのかというと、天使長がなってくれました。エバが十歳になり、十代になって動物たちを見てみると、雄と雌が一つになって子供を産んで仲良く暮らしています。花もそうで、すべてそうです。女性のエバは男性よりもそのようなことに対して理解するのが早いのです。天使長はそのことを知っていました。泣くエバを裸のまま抱きかかえてあげると、天使長の局部とエバの局部が触れるのです。そのようなところで力を入れれば終わりです。ですから、何を警戒し、注意しなさいと言ったかというと、愛の関係に注意しなさいと言ったのです。それがエデンの園で神様が最も心配していたことです。(1995・10・13)

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もしエバが自分に直面してきたその誘惑の手を正しく分別していれば、堕落していなかったでしょう。神様のみ言を中心として、命懸けで最後までサタンに対して闘っていたならエバは堕落しなかったというのです。ところが、時ならぬ時に時のものを願う不倫な欲望をもつことによって堕落してしまいました。(1957・11・1)

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アダムとエバが、彼らが堕落する前に神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこうするのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そうしていたならば、神様が答えたはずです。この、尋ねてみることが責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねないで横的関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねないで行動したので問題が起こったのです。(1970・8・16)

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エデンの園でアダムとエバが堕落した経路を、もう一度考えてみましょう。エバが善悪の実を見ると、美しく食べるには好ましいと思いました。それで、取って食べてしまいました。ところがエバが罪を犯してみると、大変なことになったというのです。その天使長は自分の夫ではないことが分かり、分別のない十代の青少年だったアダムに愛を強要するようになったのです。アダムに対して「取って食べなさい」と強要しました。(1972・3・22)

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堕落したエバはアダムに対して、「善悪の実を取って食べなさい、取って食べなさい」と言いました。それはどういうことですか。「愛し合おう、愛し合おう」ということです。それでは、神様の「取って食べてはいけない」という戒めを知っているアダムは、エバが「取って食べなさい」と言ってきたときに何と言ったでしょうか。「ああ、それはいけない!」と言いましたが、そのように言いながらも取って食べてしまったのです。

エバは目を見開いて「取って食べなさい」と言い、アダムは「嫌だ、嫌だ」と言ったのですが、エバがすがりついて哀願してくるので、見るに見かねて仕方なく「好きなようにしなさい」と言ってしまったのです。アダムは「嫌だ」と言い、エバは「食べましょう」と言い合いながら争いが起き、そこで争いの種を受けたので、その血統を受け継いだその子孫たちも争いを起こさざるを得ません。

心と体が争うようになった動機とその出所も、それが起源です。ですから、偽りの父母を中心として、偽りの愛によって偽りの生命、偽りの血統、偽りの良心を受け継いだのが今日の堕落した人類なのです。(1994・11・20)

愛の力と原理の力および信仰のための戒め

愛の力と原理の力から見た堕落

本来、人間は愛で主管されるようになっています。愛の因縁さえ結べば、少しも身動きできずに主管されるようになっているのです。愛によって一つになれば、分けることができません。(1971・1・10)

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神様は愛だと言いますが、その愛は過去を収拾できるものであり、時代を主管できるものであり、未来を開拓できるものです。その愛によって苦労も克服できるのであり、困難な環境も消化できます。また、愛の力は強いので、その力と一つになれる起源を備えた人がいれば、その人はいくら困難なことがぶつかってきても、十分に消化でき、十分に主管して余りあるのです。愛はこのような力の母体です。(1970・7・19)

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なぜ愛の力が強いのかというと、すべての細胞が一つになった力によって作用するからです。愛の力は、宇宙も止められません。宇宙のほうが動くのです。ですから、愛の相対者を見ながら笑って暮らす人は、年を取らないというのです。この愛の力こそが宇宙を春の愛の花園にするのです。(1976・4・18)

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人生の目的は神様の愛を占領することです。神様の愛を占領できなければ、人間がいくら希望を成し遂げたとしても、それは希望を成し遂げたことになりません。いくら幸福だとしても、その幸福は永遠の幸福にはなり得ないのです。

それでは、なぜ神様の愛が永遠の幸福になるのでしょうか。力というものを見ると、作用をすれば必ず消耗することが分かります。モーターのようなものを見ても、入力イコール出力ではありません。常に入力が大きいのです。時間がたつにつれて、そこで消耗される分だけ補給してあげて、初めてその力が維持されます。

ところが、この原則が当てはまらない一つの力があります。それが何かというと愛の力です。愛の作用だけはこの原則が当てはまりません。例えば、甲という人が私に真実の愛を十くれたのに、私は九だけ返してあげなければならないと考える人がいますか。本当に私を愛したことが分かれば、より多くの愛をプラスして返したいと思いますか、減らして返したいと思いますか。減らして返せば愛ではありません。

十の本当の愛を受ければ、それに加えて十一、十二を返したいと思うのです。ですから、愛の力は与えて戻ってくるときには、必ず大きくなって戻ってきます。他の力とは反対です。愛の力はもっと大きくなっていくのです。したがって、神様も愛がなければ、永存できないという結論が出てきます。(1971・1・8)

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神様の愛はどのような愛でしょうか。与えて満足するものではなく、与えてもまた与えたいと思って、与えきっていないことを恥ずかしく感じる、そのような愛です。与えて恥ずかしく感じる人であるほど、本当の愛の主人です。父母は子供に服を着せてあげても、もっと良い服を着せてあげられずに申し訳なく思います。与えて満足するのではなく、不足だと感じるので、愛を通してそれを補充してあげるのです。ですから、与えきれなくても、完全なものとして戻ってくるのが愛なのです。(1971・1・8)

信仰の為の戒めを下さった目的

創造主と人間との真の愛を中心とした完全、完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。それで、神様は人間始祖に与える戒めが必要だったのです。人間が成長期間を育っていく未完成段階にいたことを御存じの神様は、子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげるための条件として戒めを下さったのです。(1996・4・16)

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神様がアダムとエバに戒めを与えたのは、絶対信仰の上に与えたのです。絶対信仰の上に立ちなさいということです。神様があらゆる万物を創造するときには、絶対信仰の上でつくられました。むやみに作られたのではありません。いい加減に作られたのではなく、絶対信仰の上でつくられたのです。また、絶対愛の上でつくられました。万物を創造するにおいて、御自身の愛の対象として創造されました。その愛の対象の価値を連結させてすべての万物をつくられたので、つくられたすべてのものは愛の主人のために存在するようになります。

アダムとエバが完成すれば、神様を絶対的に愛するのです。その次に絶対服従します。絶対服従というのは、自分の存在意識がありません。完全に真空状態に入っていきます。自分のすべてのものを投入して絶対真空状態に入っていくことによって運動が起きます。

そのように宇宙を創造されたので、アダムとエバの家庭に神様が戒めを下さったのは、主体と対象になろうとすれば、主体である神様と同じ立場に立ちなさいということなのです。そこには自分の存在意識があってはいけません。神様が行くなら行き、神様が来るなら来て、自己主張はあり得ないというのです。(1995・10・13)

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創造当時、神様がどれほど精誠を尽くして愛の対象である被造物をつくられたでしょうか。その精誠の限りを尽くしてつくった存在がアダムとエバなのですが、彼らが御自身の代身者になることを願われたので戒めを与えたのです。戒めとは何かというと、絶対信仰することです。そうしてこそ、絶対信仰をもって創造したその目的実体になるのです。同じ立場に立つということです。絶対信仰の立場に立って私を絶対に信じなさいというのです。(1996・7・24)

信仰の戒めが必要な期間

神様の愛を受け得る人間始祖になれずにサタンに引っ張られていったのですが、神様から愛を受け得る段階に入っていけば、サタンはそれに干渉できません。そこからサタンと永遠に離別するのです。ですから、サタンの干渉を受ける位置、つまり間接主管圏から直接主管圏に越えていくということは、神様の愛を中心として干渉を受け得る圏内に入っていくということです。それでは、サタンはどの限界線まで反対できるでしょうか。原理結果主管圏内までです。責任分担を果たせていないその段階にいるとき、サタンは讒訴して干渉することができるのです。

原理結果主管圏内を越えるとすぐに直接主管圏内に入っていくのですが、直接主管圏内は神様の愛を受けて、初めて入っていけます。ですから、そのようになれば、サタンはそこに存在することができません。公法がそのようになっています。(1986・3・16)

人間堕落の結果

サタンと堕落人間

悪魔サタンが人類始祖を堕落させることによって何になったのですか。聖書のヨハネによる福音書第十二章三十一節を見れば、「この世の君」とあります。この宇宙をつくられた主人公が神様であるにもかかわらず、その主人公を押しのけて、どうしてサタンが人類を主管し、世界を支配できる「君」になったのか、これが大きな問題です。したがって、この世界は、善の神様が主管する善主権の世界ではなく、悪のサタンが主管する悪主権の世界です。私たち人間は、悪主権、サタンのもとで支配されていることを知らなければなりません。(1972・2・21)

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人類始祖が堕落したのち、歴史は神様が主管されたのではなく、サタンが主管したことを、私たちは知るようになりました。しかし、本来この世の主人には、神様がならなければならなかったのです。神様と愛の関係を結んだ直系の血統の子女、その子女たちによって構成された真の家庭を中心として、氏族と国家と世界が成されていたならば、それこそ神様が主管できる世界であり、神様が主管できる国であり、神様が主管できる家庭であり、神様が主管できる個人になっていたのです。ところが、人間が堕落することによって、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、このように全体が神様と反対の立場に立つようになったのです。これが堕落の歴史であり、堕落の世界です。(2003・2・5)

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不幸にも、人間始祖の堕落によって、人類は、抜け出すことのできない絶望の奈落に落ちてしまいました。本来、人間は、霊的五官を通して神様と直接交流しながら暮らし、肉的五官を通しては、万物を自由自在に主管し、それと同時に霊界と肉界を代表した真の主人であり、真の父母であり、真の王になっていなければならなかったのです。

しかし、彼らは、堕落によって霊的五官が完全にまひしてしまい、青盲(目は開いているが見えない人)の立場に転落してしまいました。肉的五官のみに頼って生きなければならない半人前の人間になってしまったのです。父母である神様を見ることも、声を聞くことも、感じることもできなくなったので、どうして父母の愛を知り、事情を知ることができるでしょうか。

元来、神様が立たなければならない真の父母の位置に、サタンが押し入ってきて偽りの父母となり、あたかも自分が父母であるかのように振る舞いながら人類を徹底的に拘束し、奴隷にしてしまいました。したがって、今日私たちがもっている愛、生命、血統は、すべてサタンがアダムとエバに蒔いておいた偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだものとならざるを得ないのです。(2004・1・27)

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人間は、堕落することによって神様の愛を失ってしまいました。神様の愛がない状態で関係を結んだのが堕落なので、今日私たちが世の中で結ぶ愛の因縁は、本性の人間が慕えない愛です。その愛は、地上ですべて溶けてなくなってしまうのです。ですから、いくら地上で仲の良い夫婦でも、霊界に行けば他人になってしまうのです。間違いなく別れてしまいます。しかし、もともと堕落せずに神様の愛で結合して出発した夫婦ならば、永遠に別れることはありません。(1967・8・13)

人間世界に対するサタンの活動

堕落は本来どこから出てきたのですか。不平不満から始まりました。不平不満をもち、不幸になって悪い者になり、悲しむようになりました。これはサタンが人間に侵犯して入ってくる公式経路です。不平不満は不幸に通じ、不幸は悲しみに通じます。(1966・11・6)

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サタンは他の所にいるのではありません。堕落圏内である地上世界が地獄圏です。ここにいるのです。どのように存在しているのでしょうか。自分たちと同じ欲心をもち、良心をすべて蹴飛ばして肉身の欲望どおりに動く人は完全にサタン側なので、そこにすべて絡みつくのです。肉身の欲望を中心とするものは、道理に従って基盤を築くのではなく、強制的に逆説的な方法を選ぶので、そこに結ばれたあらゆる事件や思考には、自分の先祖たちを中心として悪の霊人たちが順番に絡みついているのです。(1997・3・12)

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アダムとエバがエデンの園で堕落するとき、天使長が現れて「園にあるどの木からも取って食べるなと、本当に神が言われたのですか」(創世記3一1)と言ったとき、エバは「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」(創世記3一2~3)と答えました。それを聞いた天使長は「あななたちは決して死ぬことはないでしょう」(創世記3一4)と言って、中心である神様のみ言を否定したのです。中心を否定することが悪の起源だというのです。ですから、悪とは何でしょうか。中心を否定するものであり、方向をずらすのが悪です。(1972・6・4)

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人間が発展しようとすれば、神様の愛の段階を万物から訪ねていくのと同じように、地上世界のすべてのサタンは、現象世界を中心として万物にくっついています。霊界に行っていないというのです。しかし、万物では復帰されないので、人にくっついていこうとするのです。復帰できる人にくっつくのです。これはなぜでしょうか。すべての万物の愛を代表するのが人間だからです。人間が愛を完成できる道であり、すべての愛の段階を越えることができる本体なので、そこにくっついて自分も解放されようとするのです。霊界が空っぽになっているという話はここから出てきます。ですから、地上が問題です。(1998・6・1)

目的性から見た善と悪

善は常に絶対者でいらっしゃる神様を中心として相対的立場に立つものであり、悪は自分を中心として主体的な立場に立つものです。ですから、善とは何でしょうか。自分を犠牲にして全体目的にプラスになるようにするのが善です。それでは悪は何でしょうか。全体を自分に引っ張り込むことです。善と悪は方向が異なるのです。体は自分が願うことばかりをしようとし、心は体が願うことをできないようにしようとします。方向が違います。(1966・1・2)

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私が善と悪の分岐点です。それでは、善とは何でしょうか。公的なものです。悪とは何でしょうか。私的なものです。それでは、公的なものとは何でしょうか。これは、より大きなものを重要視することです。私的なものとは何でしょうか。より大きなものを否定して、私を重要視することです。公的なものは拡大するためのものであり、私的なものは拡大したその舞台を縮小させるためのものです。ですから、公的な道を行けば繁栄しますが、私的な道を行けば、結果は終末が近づき、滅びます。興亡盛衰も、善悪を基準として左右されるのです。(1980・11・2)

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真の愛と偽りの愛とは何でしょうか。これを知らなければなりません。真と偽りとは何か、これを知らないために社会に混乱が起きるのです。道徳観念が沈滞し、退化するのもこれを知らないからです。悪とは何でしょうか。悪は自分を中心としてすべてのものを手に入れようとします。世界の歴史過程において悪神と善神が闘争していますが、その闘争において悪の側になる人、サタン側に引っ張られていく人と、善の側、神側に引っ張られていく人とでは、どのように違うのでしょうか。自分を中心としてすべて手に入れようとする人は、悪魔サタンの素性に似ているので悪の側です。反対に、全体のために自分から与えようとする人は、善の側になるのです。(1986・2・19)

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「信仰する人は絶対的に神様を信じよ! 絶対的に神様に帰依せよ! 神様を中心として完全に立ちなさい!」というのが信仰の第一条です。いかなる宗教でも、これが信仰する人にとっての第一条です。その次に何かというと、神様が立てた法度と完全に一つになりなさいということです。

このような観点から見れば、神様は独裁者のようだという思いがすぐに出てきます。しかし、そうではないということを知らなければなりません。それでは、神様を中心として完全に一つになりなさいということ、原理と一つになりなさいということは誰のためなのでしょうか。それは神様のためではなく、私のためです。観点が違うのです。

今日の世の中で「独裁者」といえば、国民をすべて掌握し、自分を中心として一つになれと言いながら、自分のために国民を利用する人のことです。自国の国民の目的のためではなく、自分の目的のために国民を利用し、自分の目的のために国民に苦痛を与えるとき、そこにおいて独裁というものが成立するのです。

しかし、いくら強く主管したとしても、彼をより立派にし、輝かせるために自分が加担して苦労させればさせるほど、それは条件になるというのです。

例えば、父母が愛する子供の生活に朝も夜もすべて干渉し、勉強をしなければ、勉強しなさいとむち打って強制的にさせたとしても、それは父母の道のためではありません。子供の将来のために父母自身が困難に耐え、犠牲になりながらそのようなことをするのです。その時は分かりませんが、いつかそれが自分の栄光のためのものとなり、祝福の起源になることが分かるようになります。子供が成功したとき、「ああ、私の両親は独裁者だった」と言うでしょうか。「ああ、本当に私のためによくしてくださった」と言うのです。

それでは悪とは何でしょうか。善と悪はどこで分かれるのですか。行動は同じようでも内容が違うときは天地の差です。むち打つとしても、誰のために打つのかが問題です。彼らのために、彼らの将来と彼らの祝福のために打つときは善になりますが、自分のために、自分の利益のために打つときは悪になるというのです。(1976・5・23)

善神の業と悪神の業

私たちが知らなければならないことは、善神と悪神に関することです。それを知らなければ、最後に訪れてくる歴史的な終末時代を酌み取れません。この地には、神様のみ旨がある反面、サタンの意思もあるのです。(1992・12・20)

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今霊界でも、善の霊人と悪の霊人が闘争しています。霊界にも闘争があるのです。善霊は悪霊を先導して、人間が良い所に行けないように妨害する行為をやめさせる闘いを続けています。サタンを中心として悪霊が連結しているのですが、その悪霊の統治圏内に今日、地球の人間が生きているのです。なぜでしょうか。今まで逝った先祖は善霊でも悪霊でもすべて霊界に行っていますが、その善霊も堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てたために善のほうに立っているだけなのです。しかし、神様が御覧になる時、完全な善の位置に立っていないのです。(1985・1・1)

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悪神と善神の闘争は、何を中心として行われるのでしょうか。愛を中心として行われるのです。人のために、より大きなもののために犠牲になる時、犠牲になろうとする愛の心をもっていく時には善神が管理するのです。一方、自分を中心として人を犠牲にさせて自分を愛する人は、反対に悪神が管理するのです。このようにはっきり分かれます。しかし今日、これを区別できていません。このようなことを私たちは区別してきちんと整理しなければなりません。(1972・5・21)

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悪神の役事も善神の役事も出発は同じです。ただ結果が違うのです。(悪神の役事は)恐れ、騒ぎ立て、ひっくり返される、そのようなことが起きるのです。悪神も神霊の役事をしますが、結局は役事してどこに向かっていくのでしょうか。自分の利益として戻ってくるようにするのです。世界の利益や天地の利益ではなく、自分の利益として戻ってくるのです。

これではいけません。そのようになれば、必ず挫折していきます。自分を中心として個人的な利益や、自分の家庭を中心とする利益として戻ってくるようにしてはいけないのです。(1987・5・1)

罪とは、サタンの讒訴を許諾することです。サタンが人間を讒訴できるのは、人間が血統的な因縁があるからです。(1969・5・19)

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人類の先祖であるアダムとエバは、自分たちを中心とする誤った愛によって堕落しました。自分たち同士の愛を中心として、天使長を介入させて堕落することによって、神様を追放し、本然の真のアダムの人格を追放し、本然の真のエバの人格を追放するという結果をもたらしたのです。このように、神様が許諾していない愛の因縁を導入することによって、私たち人間には何が生じたのかというと、原罪というものが生じました。(1970・10・19)

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私たち統一教会では、原罪とは何だと言っていますか。それは、誤った愛をしたことです。神様の愛と、神様の生命と、神様の血統が連結されなければならないのに、悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血統が連結されてしまったのです。アダムとエバが悪魔の生命体になり、悪魔の血統を残したので、今まで恨めしい歴史となったのです。(1990・12・28)

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誰が責任分担を果たせなかったのでしょうか。アダムとエバが果たせませんでした。その責任を果たせなかったことは、アダムとエバだけのこととして終わるのではなく、アダムとエバが一つの根となり、幹となり、枝となり、葉となる全人類が責任を果たしていない、そのような位置にとどまるようになったのです。責任を果たせなかった人が、責任を果たした位置に立てないのは、この世の中の道理を見ても当然のことです。(1976・5・23)

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人間始祖が堕落することによって、私たち人間は原罪を持つようになりました。この原罪は、悪魔サタンが動機となって侵入してきたものです。アダムとエバが犯したこの原罪は、数千年間にわたって代を引き継いで遺伝してきました。私たちが罪の中に陥っているために、救世主が必要な立場にいるのです。この原罪を抜き取ってしまわなければ、私たちは神様の国に入っていけません。(1972・3・1)

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罪には、原罪があり、自犯罪があり、連帯罪があり、先祖から受け継いだ遺伝的罪があります。それを清算していかなければなりません。主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っています。統一教会に入ってきても、すべてそのまま同じではありません。ある人は苦労して、ある人は死にそうになりながら歩み、また、ある人はひどく苦労をしながら行かなければなりません。なぜでしょうか。すべて蕩減の道が違うからです。命を捧げてでも行かなければならないというその伝統基準は同じですが、行く道は違うのです。蕩減の量は違うというのです。(1993・10・17)

堕落性本性

① 神様と同じ立場に立てない

一つになるにおいて最も難しい内容とは何ですか。それは堕落性本性です。堕落性本性の第一は何ですか。神様と同じ立場に立てないということです。心は神様と同じ立場に立とうとしますが、何が神様と同じ立場に立てないのかというと、体が神様と同じ立場に立てないのです。ですから、この体は、神様が喜ばれることを感じて共に喜ぶことができません。体の言うとおりにするのではなく、神様の言うとおりに体がしなければなりません。今までこの闘いをしてきたのです。(1971・8・28)

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自分を中心として、自分の主体性の確立を強調するところから堕落が始まりました。天使長も神様の愛を自分にのみ結びつけてみたいと思ったのです。そして、エバも時ならぬ時に、「ああ、私もそのようにしてみたい」と思いました。神様を思うよりも、全体を思うよりも、自分を中心として考え、そこから滅びるようになったのがエバです。(1972・7・16)

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聖書を見ると、エバが自分を中心にアダムを堕落させました。女性が男性を堕落させたのです。誰を中心としてですか。自分を保護するために、ために生きる存在という原則を放棄し、自分を中心としてすべて行おうと思った立場から堕落しました。それが悪の世界の始祖になりました。そのような悪の立場で私たちの先祖が、その結果を引き起こしたのです。そのような先祖の子孫として生まれたので、今日の人類は、自分を中心としてすべてのことを考えるようになったのです。(1974・5・7)

② 自己の位置を離れる

堕落は自分の位置を失ったことです。神様を中心とする本来の位置を失ってしまったのが堕落です。このような事実がはっきりしているので、皆さんは自分の位置を失ってはいけません。(1966・6・19)

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上下関係と前後関係と左右関係を、貴く扱うことができなければなりません。自分の位置がどこなのかを知って、自分の位置を守らなければならないのです。堕落とは何ですか。自分の位置を守れなかったことです。前後、左右、上下の関係においての偏りをなくさなければなりません。言い換えれば、道理に通じる男性にならなければならないということです。男性なら、その男性が村でどのように過ごしているかを見れば、すぐにその人が希望的かどうか分かります。偏ることなく、年上の人を理解し、年下の人を指導し、左右の関係をすべて等しくバランスをとるようにしてあげれば、その男性は希望的だというのです。自分の守るべき位置を守らなければならないということです。(1976・3・3)

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神様の代身となるべきアダムが、誰がみ旨に背くように誘惑してきたとしても、自分は絶対にみ旨に背かないと決意し、エバを主管し、天使を主管できていれば、堕落しなかったでしょう。先に堕落したエバがいくら自分をうまく言いくるめようとしても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなかったなら、アダムは死ななかったのです。もしアダムが堕落していなければ、エバはいくらでも創造できます。(1958・2・23)

③ 主管性を転倒する

本来、アダムは神様の息子であり、天使長は神様の僕です。神様の僕は神様の息子に完全に従順屈服しなければなりません。ところが、僕である天使長が息子であるアダムに主管されるべきものが逆さまになったのです。天使長がアダムとエバを主管するようになりました。つまり主管性が転倒したのです。(1969・5・4)

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アダムが責任を果たせなかったこととは何かというと、主管性を転倒させてしまったことです。サタンが主管性を転倒してエバを主管しました。天使長がエバに対して主管性を転倒したのも、偽りの愛のためであり、エバがアダムに対して主管性を転倒したのも、血統を汚したからです。(1999・6・14)

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アダムは男性として主体の立場なので、相対的立場にいるエバがいくら巧みな行動で誘惑してきたとしても、それを主管しなければならない責任がありました。それにもかかわらず、女性の言葉を聞くことによって堕落するようになったのです。このような結果から見るとき、聞かない立場に立つべき主体であるアダムが、相対のエバの言葉を聞いてあげることによって、アダムがエバの恩讐の立場に立つようになったのです。(1971・5・24)

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④犯罪行為を繁殖する

エデンにおいて、天使長とエバが一つになり、アダムまで引っ張り出してしまいました。愛の因縁を結べば所有権が決定するので、天のあらゆる存在はすべてサタンのものになってしまったのです。サタン世界に入っていってしまいました。神様が独り残り、アダムとエバをすべて失ってしまいました。(1994・10・15)

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悪神がいるとすれば、その悪神は悪の主人なので、悪を主管し、悪を繁殖させるのであって、善の行いをすることはできません。悪ばかりを行うのがサタンの本質です。(1972・2・20)

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善神に対して反対の立場は悪神ですが、その悪神はどのような立場に立っているのでしょうか。絶対的な善である神様の前に反対の立場に立っています。悪と組んでいるのがサタンです。

サタンはその本性が悪なので、過程も悪であり、結果も悪です。サタンは、善のものと悪のものを抜き出せる存在ではありません。それは悪しかありません。反対に神様は善だけです。もし人間のように悪もあり善もあれば、神様になることも、サタンになることもできません。

神様という方は、悪と妥協できる方ではないのです。最初から最後まで善です。そこには悪を容認できる何ものもありません。そのような方が神様です。その反面、サタンはどのような存在でしょうか。サタンは善のものと関係を結べる存在にはなれません。いつも善とは対峙するのです。善と和合でき、善と相対的因縁をもっていける立場に立てるのがサタンではありません。常に対立する立場に立つのがサタンです。(1972・5・18)

自由と堕落

自由の原理的意義

一般の人が言う自由とは何でしょうか。「自分の思いどおりにすることが自由だ」と言うかもしれませんが、研究室にこもって頭に鉢巻をして研究するのは自由ですか、拘束ですか。それをどのように解釈するのですか。勉強が嫌いなら、勉強するのは自由ですか拘束ですか。拘束なのになぜ勉強しようとするのですか。ですから、自由の概念というものを、どのように定めるかということが問題です。自分の思いどおりにすることが自由ではありません。

すべてのものは、起源が良いものを訪ねていくのです。また自由な所を訪ねていきます。幸福なものを訪ねていきます。それが、自由は自由、幸福は幸福、平和は平和、このようにそれぞれ別々の道を行くのではありません。これが歩調を合わせて行かなければなりません。平和の中に自由がなければならないのであって、自由の中に平和がなければならないのですか。自由の中に平和はあり得ません。平和は、二人がお互いに和合することです。それは、お互いが譲歩するときに可能です。欲心をもった人間が与えたいと思い、譲歩したいと思いますか。ですから、自由の規定を理解しなければならない時が来ました。(1988・10・16)

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原理を離れた自由はありません。統一教会では、既にそのような観点からすべて分析して規定しています。原理を離れた自由はないのです。御飯を食べるべきときに御飯を食べない、それは自由ではありません。空腹です。副作用が起きます。継続すれば自分が破壊されるのです。ですから、原理原則を離れた自由はありません。

また、自由には責任があります。自分が行動することに責任をもった以上、自分の行動を中心として、それを全体が見るときに尊敬できなければなりません。そして、自分が行動することには善の実績が残らなければなりません。

ですから、原理を離れた自由はあり得ず、責任を避けた自由はあり得ません。そして、行動すれば必ず善の実績が備えられなければならないのです。(1988・10・16)

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責任をもたなければなりません。なぜ責任をもたなければならないのですか。あなたたちが子供を生めば、「お前の好きなように育ちなさい」と言えますか。それは連帯的責任です。父母が私たちをこのように育ててくれたので、私もそのように育ててあげなければなりません。そこに自由があるのです。

女性たちが子供を生めば、胸を開いてお乳を飲ませなければなりません。男と姑の前で嫁が胸を開くこと自体はとんでもないことですが、子供にお乳を飲ませるときはそれが自由です。いくら厳格な法があっても、厳格なすべての環境を克服します。もしお乳を飲ませなければ、男と姑が「早くお乳を飲ませなさい」と言うのです。そのように、自由の世界には特権的な道が存続するのです。原理的な自由、責任的な自由、そして、そのように行動してみると、それが悪いことではなく善の実績です。子供が大きく育ちます。お乳を飲めば子供が喜びます。それが善の実績なのです。このような正しい道が自由の世界に生じなければなりません。(1988・10・16)

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愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界では、その愛の関係がすべて繁殖を前提にして初めて成されます。しかし、人間だけはその例外です。人間は夫婦の愛の関係を自由に享受します。これが万物の霊長たる特権です。神様は息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福しました。

神様が許諾した真の自由は、責任性を前提とします。もし、責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張し、実践するなら、どれほど大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を求める人間は、愛に対する責任性をもつときに完成が可能なのです。

その責任性は次の三つとして考えられます。第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修練、自己管理で自由な真の愛の主体者になる責任です。人において愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるものではなく、神様との生命的、縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に、相対から来る自分への愛が分けられることを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、父母と子供の間の縦的な愛の関係と異なり、分けられればもはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間で絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理のためです。人には絶対に自分の相対のために生きるべき愛の責任性があります。

第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は、父母の愛です。子女たちは真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生命的な要素を提供することです。家庭が貴い理由はこのためです。生活圏での経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は真の家庭以外、どこにおいても得ることはできません。(1996・4・16)

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自由というものは、それだけで存在するものではなく、必ず統一された基盤の上に自由が存在します。一つの家庭において、父母と兄弟たちが一つになっているときは、母の部屋も自分の部屋も同じです。母の部屋に行っても叱られることはなく、兄の部屋に行っても叱られることはありません。統一されて共鳴圏ができているので、叱られないのです。姉の部屋に入ったからといって、「男性なのに、姉の部屋に入るのか!」とは言いません。互いに愛で共鳴するときには、これが自由です。主体に対象が、対象に主体がいつでも合わせることができる、このような内的な共鳴圏ができているとき、その家庭は自然に統一され、その家庭には自由があるのです。

しかし、父母が一つになっていなければ、「なぜ入ってくるのか」という言葉が出てきます。夫婦が一つになれずに「なぜ入ってくるのか」と言う所には自由がありません。兄弟が和合できなければ、互いに与え合う環境がなくなるので、自由がないのです。ですから、真の愛を中心とする共鳴圏から外れては、自由がなく、幸福もありません。(1992・2・2)

自由と人間の堕落

人間は堕落によって、無限に広がっていく自由の天国を失ってしまいました。四方に因縁を結べる自由の環境を失ってしまったことが、正に堕落がもたらした報いです。言い換えれば、自由の天国を失ってしまい、四方が塞がった拘束の生活圏内に落ちたのが堕落だというのです。(1970・8・16)

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聖書に「主の霊のあるところには、自由がある」(コリントⅡ三・一七)とあるように、神様がいらっしゃる所には自由があります。しかし、人間が神様から離れた立場では、いくら自由を叫んでも自由をもつことはできません。堕落したこの世界では、本当の自由はあり得ないのです。(1970・10・4)

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堕落していなければ、愛の主人、幸福の主人、あるいは理想の主人という中心は誰かというと神様です。ですから、神様を中心として愛し、神様を中心として自由であり、神様を中心として幸福でなければならないというのが、本来人間がもつべき幸福の要件でした。ところが、堕落することによって、神様を中心として立てられるべき本来の愛というものが成立せず、本来の幸福や本来の理想というものが成立しなかったのです。それができないまま堕落して、落ちてしまったのです。(1976・6・2)

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神様を中心として生きるべき自由の本心、そこに相対できる素性、そのような本性を人間はもっているので、自由の観念は神様と共にもたなければなりません。ところが、それを知らずに人間同士の自由、あるいは愛、幸福を追求しているのが、今日の堕落した圏内にいる人間の姿です。

例えば、愛の関係を中心として見てみるとき、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛というものが神様を中心として根を下ろして出発しなければならないのですが、堕落することによって本来の愛の因縁を結べず、本来の形と反対となる立場の愛を中心として人間の家族が出発したということです。

愛の本質は永遠を追求します。永遠を中心として永遠の幸福を追求するようになっているのです。しかし、今日の人間世界は、永遠の基準を見いだすことができません。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛というものが永遠の基準に一致していないのです。

ですから、いくら愛を求め、いくら幸福を求めたとしても、それは一時的なものであって、永遠の基準に到達し得ません。したがって、人間は常に愛の道を求め、幸福の道を求めてきましたが、それが本当の永遠の幸福であり、永遠の愛だと主張できるものは、歴史上に一つもなかったというのです。(1976・6・2)

神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由

創造原理の絶対性と完全無欠性のために

罪はアダムとエバが犯しました。アダムとエバが犯したことは、神様が思いどおりにはできません。サタンは、罪を犯したアダムとエバを捕らえ、思いどおりに神様のみ旨を台無しにできるのです。


宗教を信じる人たちはこのようなことを夢にも思わず、神様は全知全能だから思いどおりにできると思っています。いくら大統領の権限があっても、定められた憲法を遵守しなければなりません。公表したのなら、自分が守らなければなりません。それと同じことです。天地創造の大原則の基準を中心として神様が決めたその法に背き、自分勝手にする神様ではないということです。

ですから、堕落したアダムとエバに干渉できないのです。干渉できる位置は完成の位置です。その位置に立って、初めて神様が収めて干渉するようになっています。堕落したアダムとエバに干渉できないのは、長成期完成級にいたからです。中間段階にいるために、まだ実を結んで種になることができないのです。それを収穫することはできません。神様は完全に結実した、完熟した実を収め、それを拡散させるようになっているのであって、完熟できていないものに干渉することはできないのです。

堕落したアダムとエバに干渉できない神様です。完成したアダムとエバを支えてあげるようになっているのであって、未完成の立場にいるアダムとエバを支えてあげることはできません。下りていって干渉すれば、神様が創造理想によって立てた完成圏が破綻するので、干渉できなかったのです。(1994・1・1)

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皆さんの良心は、自分の体が行ったことを神様よりも先に知るのです。これは重要な問題です。なぜ先に知らなければならないのですか。私という存在は、神様の愛を中心として見るとき、主体の前の対象者です。対象者で、個性真理体なので違うというのです。

男性と女性は個性が違います。個性真理体です。ですから、神様がアダムとエバのところに来て尋ねるようになっているのであって、「おい、お前は堕落して隠れているのだな」、このように言うことはできないのです。

第二の個性真理体になっているので、良心を立てておいて先に知るようになっているのに、それを無視して「おい、アダムとエバよ。お前たちはこのように堕落したのだろう?」、このようになれば、神様の分身になるのです。神様の体、手足になるというのです。ですから、神様もアダムとエバが堕落したのちに、「おい、アダムよ。どこにいるのか?」と尋ねたのです。「おい、堕落して、そのように隠れているのだな」、そのようには言えません。尋ねてみるようになっています。(1994・1・1)

神のみ創造主であらせられるために


「価値」について考えてみるとき、私が価値ある存在だとすれば、私がもっている物も私の相対的価値をもつようになります。これが創造の原則です。主体の前に対象が現れたとき、主体と対象が互いに授け受けして一つになれば、対象も主体と同等の価値圏を賦与されるのです。これが原理の教えです。

いくら小さな物でも、私がそれをつかみ取れば、それは私の対象的価値をもつので、貴い物になるというのです。ですから、有名な人が使っていたすべての物は、その国の貴い骨董品として残るのです。それがいくらぼろぼろになった服だとしても、その国の宝として残るというのです。(1971・8・17)

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神様はどのような方ですか。慈悲の神様であり、愛の神様です。そのために、罪と一緒にいられる神様だと思っている人が多いのです。慈悲深い神様であり、愛の神様でいらっしゃるのですが、罪そのものとは、手を取り合ってやり取りできる神様ではありません。

悪の存在であるサタンも、善とやり取りできる存在にはなれません。根本的に異なるのです。それは必ずぶつかります。互いに和合したり、融合したり、相対的な立場に立ったりすることはできません。常に衝突します。悪というものは、善に対して相応的ではなく、常に相克的なのです。妥協はあり得ません。譲歩もあり得ません。一歩の譲歩もあり得ないのです。それは絶対的です。(1972・5・18)

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神様は歴史始まって以来、闘いながら、打たれて奪ってくる作戦をしてきました。神様が先に打つことはできません。神様が先に打つことができるという論理を立てれば、審判できるという原則を神様が立てたという論理が起こります。善と悪を分別すべき責任を神様が負っているというとき、善悪の概念が神様自体内にあったという論理が展開されるので、二元論に落ちるのです。ですから、神様は打つことができません。(1993・1・1)

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神様は誰も打つことができません。愛の理想をもって創造し、愛の理想を実践しようという神様が、審判の鉄棒をもって打つことはできないのです。神様は打つことができません。なぜでしょうか。創造するときに愛の理想をもって創造したので、その理想が実現されなければ打てないのです。もし、打つようなことが起きれば、打つ伝統、打つ習慣が残ってしまい、これを解く道がないのです。(1991・1・1)

人間を万物の主管位に立たせるために

もし人間に責任分担がなかったならば、神様はいつでも主管できます。「取って食べてはいけない」と警告することはできますが、人間に責任分担があり、神様が干渉できない立場にいたので、人間が堕落し、サタンが活動するのを防止できなかったというのです。(1976・5・23)

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なぜ責任分担を与えたのですか。それは人間に無限で高貴な価値を賦与し、神様の創造の偉業に加担させるためです。もし人間に責任分担を与えていなければ、人間は神様の愛を受ける対象の位置に立つことができません。

神様が100パーセントつくってあげるのではなく、95パーセントは神様がつくり、5パーセントは人間自身が責任を果たすのです。そうしてこそ、100パーセントを満たすにおいて、人間がその協力者として同等な立場に立ち得ます。そうなることによって、絶対的な主体である神様の前に、相対的な資格を備えた立場で、堂々と愛を授け受けできるのです。このようになれば、真の愛の理想を形成し得るのです。責任分担がなければ、私たちだけで、神様の愛の理想を対等な立場で受けるにふさわしい威信は立てられません。威信を立てられないというのです。それで神様は、人間に神様の愛を受け得る威信を立ててあげるために責任分担を設定されたのです。(1986・3・16)

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神様は、心情と事情と希望を抱いて人間に対され、庇護されました。神様は、私たちの心情を100パーセント御存じであり、事情を100パーセント御存じであり、希望を100パーセント御存じでしたが、語ることができませんでした。これが神様の事情です。なぜできなかったのでしょうか。それを話してしまえば、サタンが先に聞いてしまうからです。

ある父と子がいて、その父親が未熟な幼子で何も分からない世間知らずの息子に、「何々の宝がここにあり、何々の宝があそこにある」と言いながら、主人に背いた僕や怨讐がいる所で相続してあげれば、彼らがそのまま息子に宝を持たせると思いますか。サタンはそのような立場です。神様がすべて話してしまえば、神様の息子、娘よりもサタンが先に知って、すべて奪ってしまうというのです。(1960・5・29)

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人間は、どのような立場で堕落したのですか。天使を天使らしく愛せなかった立場で堕落しました。ですから、これを復帰しなければなりません。神様はなぜ悪の頭である天使長に6000年間、讒訴を受けてきたのでしょうか。「この愚か者!」と言って打ってしまえばそれで終わりなのに、なぜサタンの讒訴に対して、「そうだ。お前の言うことは正しい」と言いながら受けてこられたのかというのです。それは天使を愛さなければならない原則があるからであり、神様の息子が出てきて天使を愛したという条件を立てなければならないからです。その時までは神様と人間が責任を果たしたと言うことはできないのです。このような基準が残っているために、神様もサタンを愛さなければならないのであり、人間もサタンを愛さなければならないのです。(1970・8・29)

人類歴史の終末論について

神の創造目的完成と人間の堕落

聖書に記録された神様の最初の息子、娘であったアダムとエバは、神様の真の愛の中で育ち、また結婚の祝福を受けて罪のない子女たちをもつことによって、彼ら自身が真の父母となり、天国に直接入っていくようになっていました。そのようになっていれば、この世界は地上天国となり、神様の真の愛と神様の生命と神様の血統を受け継ぎ、永遠の神様の理想家庭として始まり、国家と世界まで神様が直接主管する血族になっていたでしょ

ところが、アダムエバが未完成期に天使長と不倫な貞操関係を結ぶことによって、天使長はサタンとなり、アダムとエバは悪の先祖となって死亡の世界が始まりました。つまり、この世界はサタンの血族になってしまったのです。

このように、サタンは淫乱の神となりました。ですから、神様は淫乱を最も憎みます。ソドムとゴモラ、ローマ、そして今日のアメリカとヨーロッパも、淫乱によって滅びていく時を迎えました。アダムとエバが青少年期に淫乱の種を植えたので、今日、青少年たちを通して淫乱の実りが刈り取られているのを目撃するとき、私たちは終末になったことが分かるのです。(1990・8・16)

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アダムとエバは、自分たちをして万物を主管するようにされた神様の創造の目的がどこにあるのかを知りませんでした。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と言われたみ言を守ったあとに訪れるもの、すなわちみ言の峠を越えたあとに訪れるものを慕う心がなかったというのです。自分たちの命に対する認識と生活感情を失わずに、「取って食べるな」と言われたみ言を守ったあとには何が訪れるのか、それに対する欽慕の心情が彼らの生活を導いていたならば、アダムとエバは善悪の実を取って食べることはなかったでしょう。

その瞬間に、アダムとエバがもう一度目を覚まして「取って食べるな」と言われた神様のみ言を再認識し、「地を従わせよ」と祝福され、そのあとに自分たちに与えようとされた何かが天使長の誘惑よりも大きいと感じていたならば、堕落していなかったのです。これが人類のあらゆる曲折の根源となりました。(1959・2・15)

救いの摂理

救いの摂理はすなわち復帰摂理である

神様は、人間を創造されるとき、御自身の希望の実体として、御自身の心情を代弁する実体として造ったのですが、堕落することによって、神様の希望も理想も心情も、行くあてもなく消えてしまい、今日この地上にはサタン世界の希望とサタン世界の心情が残されたことを私たちは知っています。ですから、存在するすべての万物は神様によってつくられたのですが、願わない怨讐の懐で存在するようになりました。

神様は、人間を神様の内的心情を代表できる実体として造ったのですが、堕落することによってその存在は、神様にとって心を傷つける存在となり、後悔と怨望の象徴体になりました。

しかし、神様は、このような怨恨を残した人間をそのまま放っておくことはできません。なぜかというと、神様のみ旨を中心として天地の万物をつくり、原理の法度を通してつくったからです。父の心情が基盤となり、み旨が残っている限り、つくった万物と人間を根本から破壊することはできません。もし万物と人間を破壊してしまえば、神様は、み旨を立てたそれ以上の苦痛を受けなければならず、心情を立てたそれ以上の苦痛を受けなければならない立場に立たなければなりません。ですから、神様は、再び本然のみ旨と心情の前に立て得る万物と人間を求めてこられるのです。(1964・3・15)

復帰摂理の目的

神様の救援摂理は、神様のみ旨を成し遂げようとすることであり、御自身の心情に通じる子女を復帰し、幸福の世界、永遠に変わらない栄光の基盤、生命と愛と勝利の基盤の上で、全宇宙万物と共に喜び、共に楽しむ永遠の天国生活を成し遂げることです。このような天国の環境をつくってこそ、神様が願われる創造目的を取り戻したという立場に立てるので、これを目標として復帰歴史をしていかれるのです。(1964・3・15)

人類歴史はすなわち復帰摂理歴史である

歴史始まって以来、今に至るまで、人類歴史が復帰摂理歴史だという事実を知った人はいませんでした。歴史の背後関係を復帰という概念で定義を下したことは、統一教会の歴史に残された偉大な功績です。歴史の根本となるのは神様であり、またその神様が責任をもって今まで歴史を主管し、発展させてこられました。そのために復帰の使命を背負った多くの個人、家庭、氏族、民族、国家があったのであり、それによって歴史は段階的に発展してきたのです。(1969・2・2)

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人類歴史は、人間始祖が堕落により失ってしまった本然の世界を再び取り戻すための蕩減復帰歴史です。ですから、歴史は、神様の創造理想を実現させるという目標を中心として、サタン側と天側が善悪闘争をしてきた歴史なのです。歴史の背後ではいつも、善の側には善霊が協助し、悪の側には悪霊が協助してきました。人間の堕落により始まった分裂の歴史は、家庭、氏族、民族、国家、世界へと範囲を拡大しながら、結果的に人本主義と神本主義の根幹となった無神論と有神論の対決として現れたのです。(2000・2・10)

終末

終末の意義

終末とは、地が燃え、消滅する時をいうのではなく、子女の願いである父母がこの地上に現れる時をいいます。父母から教育され、教育された内容を中心として神様の愛と一致した立場で、善悪の主権が交替する転換期が正に終末です。(1981・5・1)

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今、世界は、どのみち大変遷を避けられない時に至りました。これを宗教的用語で表現すれば、人類歴史の終末に至ったと言うでしょう。しかし、私が言う終末という言葉は、暗澹と滅亡を意味するものではありません。

創造主でいらっしゃる神様の立場で見る終末は、誤った世界、すなわち堕落世界の終息であり、正しい世界、つまり創造本然の世界の新しい出発を意味するのです。ですから、終末はすなわち望みであり、希望なのです。(1995・8・23)

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終末は、この歴史的摂理時代において、最後の審判の時だけなのでしょうか。あるいは、歴史において何度かあったのでしょうか。聖書(創世記6・13)を見ると、ノアの時も終末であったことが分かります。その前の悪の世界が終結時代を迎えるようすべてを除去してしまい、ノアを中心として善の世界に移される、その瞬間を迎えられるように神様が摂理したのです。その時が終末です。

終末を立てるために神様は、必ず神様を絶対的に信じることのできる一人の代表者を立てます。そして、その言葉を絶対的に信じれば神様のところに永遠に行くのであり、その言葉を信じなければ地獄に行くのです。

終末になれば、必ず主が来なければならず、一人の中心人物がいなければなりません。ノアの時代も終末だったのですが、ノアが中心人物でした。ノアが何をしたのかというと、120年間、終末が来たと予告したのです。自分を信じなければ120年後に水で審判されると予告しました。

創世記第6章13節に「彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」とあります。それでは地は滅びましたか。地が壊れましたか。何か他のものに変わりましたか。不信の人だけを洪水審判してしまったのです。しかし、ノアの言葉を信じてノアに従っていった人、箱舟に入っていった8人の家族だけは生き残りました。

ですから、終末には必ず一人の中心存在がいて、その中心存在の言葉を信じなければ審判を受けるのです。み言が審判します。審判するためには、必ずある人を送って中心存在として立て、新しいみ言を告げるのですが、そのみ言に反対していけば死んでしまうのです。したがって、ノアの時から始まり、審判を終えて新しいエデンの理想を立てるための善の出発をしようとしたその時が、正に終末なのです。(1973・10・23)

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その次には、いつが終末だったのでしょうか。イエス様が来た時が終末でした。聖書のマラキ書第4章1節を見ると、「その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」とあります。すべて燃やして何も残さないというのです。

よく信じる人たちは、「ああ、その聖句はこれから訪れる終末に起きることだ」と考えるでしょう。しかし、そうではありません。なぜ違うのでしょうか。イエス様のみ言を見てみましょう。

マタイによる福音書第11章13節を見ると、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」とあります。律法と預言者の預言は洗礼ヨハネまでです。旧約聖書はすべて終わったということです。旧約の結実が洗礼ヨハネなのです。その基台の上で新約を出発しなければなりません。

アモス書第3章7節に「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあるように、終末になれば必ず預言者によって知らせてあげなければなりません。ですから、洗礼ヨハネを通して「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3・2)と教えてあげ、「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」(マタイ3・11)と告げたのです。ですから、イエス様の時も終末です。(1973・10・23)

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神様のみ旨が近ければ近いほど、この地上はサタンが主管するので、神様のみ旨に背く現象も勢いよく広がっていくようになります。そうして滅んでいくのです。ノアの時もそれで審判が起き、イエス様の時もそれで霊的に審判が起き、再臨の時もやはりそれで審判が起きるのです。(1992・12・6)

終末の兆候に関する聖句

火の審判とはいったい何でしょうか。聖書のペテロの第二の手紙第3章12節を見ると、「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」とあります。めらめらと燃えて消えてしまうというのです。イエス様の時にそのようになりましたか。なりませんでした。

それでは、イエス様のみ言を一度見てみましょう。ルカによる福音書第12章49節を見ると、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」とあります。その火がつきましたか。火を投じたのに火がつかなかったのです。その火とは何ですか。その火は何かというと、言葉を意味するのです。イエス様のみ言を意味するというのです。

それでは、聖書にそのような言葉がどこにあるでしょうか。ヤコブの手紙第3章6節を見ると、「舌は火である」とあります。また、ヨハネによる福音書第12章48節を見ると、「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」とあります。何が審判するというのですか。火ではありません。最後の日にみ言が審判すると言ったのです。火で燃やすのですか。終わりの日は何かというと、裁判の日です。裁判長が誰かというと、神様です。イエス様は弁護士であり、サタンは検事です。検事が火で焼くのですか。言葉です、言葉!(1973・10・23)

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政治に携わる人は、マスコミや新聞を最も恐れるのです。火よりも恐れます。一度たたけばみな消えていくのです。副大統領も飛んでいき、長官も飛んでいき、大統領も飛んでいくというのです。火で何をするのですか。法廷では憲法に従い、該当する法律の条文に従って判決を下すようになっています。

次に、テサロニケ人への第二の手紙第2章8節を見ると、「その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し」とあります。つまり、み言で殺すとあるのです。火でするとありますか。口の息とは何ですか。言葉です。

また、見てください。イザヤ書第11章4節を見ると、「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」とあります。口のむちとは何ですか。舌です。唇の息とは何ですか。火で焼くのではなく、唇の息です。

ヨハネによる福音書第5章24節を見ると、「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」とあります。火で燃やしてしまうのですか。み言です。

なぜみ言を信じなければ審判するのでしょうか。エデンでみ言を信じずに不信の先祖になったので、これを除去し、これ以上の信仰でみ言を信じなければならないからです。これを凌駕できる信仰がなければ、戻っていけません。旧約聖書を信じていた人たちは、イエス様のみ言に対するとき、メシヤとして立ったイエス様のみ言を絶対的に信じなければなりませんでした。絶対的に信じなければならなかったのです。(1973・10・23)

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終末とは、神様が悪を終わらせ、新しい神様の時代が出発すべき歴史上の一時です。それは古い悪の歴史と新しい善の歴史とが、交差転換する時です。この定義から考えて、なぜ聖書は、天変地異が終末のしるしだと預言するのでしょうか。預言にあることが実際に起こるのでしょうか。聖書では次のように書いてあります。

「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」(マタイ24・29)。これは何を意味し、私たちは何を予期すべきなのでしょうか。

第一に、これらのことは文字どおりに起こることはありません。神様は宇宙の中で何ものをも破壊されたりしません。神様はたびたび、その真理を比喩や象徴で表されます。ですから、これらの聖句も象徴的に成就されるのです。第二に、神様は宇宙を破壊する何らの理由ももっておられません。罪を犯したのは人間であって、宇宙ではありません。人間だけが、本来の神様の創造の理想からそれてしまったのです。なぜ神様が、神様の願いのごとくに創造の目的を達成した動物や、植物や、他の被造物を破壊しなければならないのでしょうか。神様は、それら無実のものを破壊されたりはしません。

ですから聖書は、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」(伝道の書1・4)といっています。しかしヨハネの黙示録によると、「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」(黙示録21・1)とあります。この新しい天と新しい地というのは、神様による歴史の到来、新しい主権の時を意味します。皆さんが新しい家を買えば、家族と家財道具をもって引っ越すでしょう。そして、「私は新しい家をもった」と言い、また、「その家の新しい主人になった」と言うでしょう。それと同じように、神様の子女たちがこの宇宙を支配すれば、それは新しい天と新しい地になるのです。(1973・10・28)

終末と現世

終末はどのような時かというと、夜なのか昼なのか、これが正しいのかあれが正しいのか判断ができない時です。混乱が起き、あれもこれも区別ができない時です。最近は、イエス様を信じる人が勝っているのか、信じない人が勝っているのか判断できません。かえってイエス様を信じない人がより勝っていることもあるのです。

そのようなことを考えてみるとき、皆さんの家庭で、父親が勝っているのか母親が勝っているのか、父母が勝っているのか子女が勝っているのか、社会が勝っているのか教会が勝っているのか、すべてめちゃくちゃになってしまいました。このような時になると、必ず終末が訪れてくるのです。歴史は繰り返すと言います。植えたとおりの結果が現れる時が来れば、終末が来たことを知らなければなりません。(1973・10・23)

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古い歴史の終末期である今日、世界的に起きている青少年の淪落現象やフリーセックスの波は、エデンの園において、アダムとエバが未完成時にサタンと堕落することによって貞操を蹂躙したことを、そのまま刈り入れる時期であることを自証するものです。(2001・5・8)

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ローマがなぜ滅びたのか知っていますか。淫乱のためです。これが理想を破壊した本源地であり、生命を破壊した本源地であり、血統を蹂躙した本源地です。悪魔とは神様の愛を中心とする姦夫です。これはレバレンド・ムーンが発表した歴史的宣言です。堕落した子孫である皆さんの血統には悪魔の血統が連結しています。悪魔の生命と悪魔の愛の起源をもっているのが堕落した人類です。(1990・1・19)

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子女が父母を殺したといううわさや、父母が子女を殺したといううわさが聞こえてきます。甚だしきに至っては、どのようなうわさまで聞こえてくるでしょうか。子供が母と暮らすといううわさまで聞こえてくるのです。これは最後の時だというのです。今、そのような時が来ました。

今がそのような時なので、性の問題が秩序を失ってしまい、修羅場が展開しているのです。そのような時になれば壊れていきます。父と母の関係が壊れ、親子の関係が壊れ、兄弟の関係が壊れていくのです。何がそれを壊すのかというと、性の問題、愛の問題が壊してしまうのです。愛の問題が世の中を滅ぼしてしまう終末が訪れるのですが、その時です。(1971・1・10)

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淫行によって堕落したので、終わりの日にはそのとおりになります。青少年がすべて堕落してしまうのです。先祖がそのように種を蒔いたので、収穫期には、そのように青少年が世界をカバーし、世界を滅亡させるのです。それが今日です。それを否定できません。誰がフリーセックスを主張しましたか。アダムとエバです。堕落したので、フリーセックスの先祖はアダムとエバです。

そのように種を蒔いたので、秋になって収穫の時期になれば、そのようなものが世界を覆い、世界を滅亡圏に引っ張っていき、地獄に連結していくのです。今の世界がそのようになっています。青少年たちは、それを知らずに、普通の人間として刺激的な満足であるかのように考えているのですが、そうではありません。サタンの理想を拡張し、天国の理想世界を根本的に破壊することなのです。(1994・3・13)

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家庭から世界的な平和が成されていくので、終末になって神様が求めていくのが家庭です。家庭を収拾しようとされます。これを知っているサタンは、家庭を破壊するためにフリーセックスや同性愛といったものを広めるのです。ですから、これを理解して、これに対処できる歴史的な理念体制を整えて価値観を設定しなければ、個人も、家庭も、氏族、民族、国家、すべて行く道を見いだせなくなります。(1994・6・19)

終末と新しいみ言と我々の姿勢

終末と新しい真理

新しい真理とは何でしょうか。天と地が相応し、上下、高低、前後、左右を問わず、立体的な世界にとどまるいかなる存在とも相応し得る原動力と内容が備わった世界観と人生観と生活観をもち得る主義だけが、人類世界の終末に残り得る絶対的な真理です。(1966・12・11)

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今日の現実を見つめてみると、形而上学的な真理の分野を代表する宗教があり、形而下学的な真理を代表する自然科学があるのですが、これらはすべてどこに向かっていくようになるのでしょうか。アダムとエバが堕落することによってみ言を失ってしまい、み言を失ってしまうことによって実体を失ってしまい、実体を失ってしまうことによって理念を失ってしまったので、これを終わりの日において、ある一人を中心として復帰しなければなりません。ですから、科学文明の先端に立った一つの存在が、形而上学的なすべての理念を代表した実体として、今日の人類歴史の終末時代に現れなければならないのです。(1958・1・12)

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祈祷と真理、神霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、調和して一つになる場に入りなさいというのです。私たち人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです。

そうするには、霊的世界がどのように動いており、真理とどのように関係を結ぶのかを知った上で霊界と関係を結ぶ生活をしなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。なぜかというと、私たち人間自体がそのようになっているからです。(1975・2・2)

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私たちはどこで幸福を感じるのでしょうか。真理面で感じる幸福は一方向的です。それはなぜ一方向的なのでしょうか。霊と肉、神霊と真理について考えてみると、どちらが主体ですか。神霊が主体であり真理は相対です。相対的だということは一方向的だということです。真理を通して感じるものは変わります。しかし、神霊は変わりません。中心的であり、四方性を備えているので、変わらないのです。

それでは、どちらの面を通して感じる幸福が貴いのでしょうか。真理を通して感じるものは一方向的なので変わります。長く続かないということです。しかし、神霊を通して感じるものは中心的なので長く続きます。中心が二つになることはあり得ません。真理は神霊に対して相対的立場であり、神霊は主体的立場です。主体とは中心の位置を意味するので、中心が二つあることはあり得ず、一つだというのです。中心というのは四方と向き合える立場なので、その主体的中心的立場の神霊を通した喜びというものは永遠と連結されるのです。したがって、霊的な体験を通して感じたその喜びは、一生の間忘れることがありません。これは理論的に当然の結論です。(1975・2・2)

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霊界と地上世界は、互いに断絶された別箇の世界ではありません。一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する相関関係の中にあります。私たちの協会も、もともと神霊を通して統一する神霊協会として出発しました。

神霊とは何ですか。一時的に配分された霊力や霊的な作用を意味するものではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和、共鳴を起こし得る神様の愛の力をいうのです。ために生きて投入する真の愛の生活を通して人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が統一教会の運動です。(1994・5・1)

終末に際して我々がとるべき態度

終末は驕慢な人が増え、自己中心な世界観をもった人が増える時です。真なるものが現れる前に、偽りのものが現れます。堕落した世の中では、まず偽りが真理型で現れるのが歴史的な実相でした。また、宇宙的な統一の理念を中心とする真の真理が現れる前に、世の中を混沌とさせる様々な形態の偽りの真理がたくさん現れるでしょう。

そして、統一的な生命の運動が起きる前に、様々な形態の偽りの生命運動が起き、真の愛の運動が起きる前に、偽りの愛の運動が起きるでしょう。

歴史上に現れた哲学の流れを調べてみると、理性哲学が現れたのちに生活哲学が現れました。これからは愛の哲学まで出てこなければなりません。それでは、愛の哲学の基準とは何でしょうか。人間ですか、真理ですか。人間は、これからこのような問題をもって苦心するようになるでしょう。

しかし私たちは、このような哲学が分からなくても、本心と生心に導かれて他人の事情を推し量れるならば、どのような人でも、その人を愛することができ、その人の心に合わせて与え得る余裕をもてるのです。したがって、皆さんは、悪なる人でも善なる人でも、他人の事情を理解し得る人にならなければなりません。(1957・3・17)

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神霊的なタイプと真理的なタイプ、この二つのタイプの人がいるので、自分がどちらのタイプの人なのかを知らなければなりません。知識を中心として真理を探究する人は、実践問題に入っていったときに、どのようにしなければなりませんか。これを必ず補強しなければなりません。補強するためには、必ず祈祷生活を始めなければならないのです。また、祈祷ばかりして神霊面にのみ重点をおく人は、どのようにしなければなりませんか。必ず真理について研究しなければなりません。このように両面が補強されなければなりません。

それでは、知恵深い人とはどのような人でしょうか。これを私自身が一人で調整するのは難しいので、友人をうまく選びなさいというのです。私が神霊的であれば真理的な人と一つになるということです。そして、「私の心はこうだが、あなたの心はどうか」と話すのです。タイプが違います。一人は内向的で一人は外向的なこの二人が、互いに相談し、互いに協助して完全に一つになれれば、信仰世界において互いに飛躍的な発展をもたらせるのです。(1975・1・11)

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神霊的な面に自分の素性が合う人たちは、ひたすら霊的なものに対して気になります。先生のような人は、本来生まれつきそのような人です。神様について話をすればとても気になります。御飯を食べずに24時間聞いても、聞けば聞くほど楽しくなるのです。そうだとすれば、その一方向だけではなく、真理で補強しなければなりません。このように両面を心得ていかなければならないのです。自分の素性、自分がどちらの面の人なのか各自が分かるでしょう。

ですから、反対の面を啓発するために努力しなければなりません。あるいは真理を探究し、あるいは神霊面で体値するのです。ここには必ず何が必要かというと、祈祷と真理の探究が必要です。神霊的な人は既に霊的に感じたものを真理で消化し得る基盤を築かなければならず、真理的な人、知性的な人は、その知性的な面に霊的な、神霊的な面を補強できる体恤的な基盤を築かなければなりません。そうすれば、それは必ず自分が離れることのない永遠の土台として発展できる基礎になるのです。

自分一人では大変なので、必ず自分と相対的な素性をもつ人を友人とするか、師とするかして指導を受け、協助を受けていくことが、最も正しい道であることを皆さんは知らなければなりません。

もし皆さんが何かを感じて「あ! 私も今、分かった」と思ったときは、そこで終わってはいけません。実践するのです。自分がやってみなければなりません。ですから、学校でもそうではないですか。実験をしてみるのです。専門家とは、どんな人が専門家なのですか。同じことをたくさんやってみた人です。専門家が他にいるのではありません。技術者とは、どのような人が技術者ですか。同じことをたくさんやってみた人です。ですから、多くの実験をしてみなければなりません。(1975・2・2)

メシアの降臨とその再臨の目的について

十字架による救いの摂理

メシヤとして降臨されたイエスの目的

エデンの園は、永遠であられる神様が栄光を享受され、すべての被造万物が神様に歓喜の敬拝を捧げ、喜びで暮らす園です。このような園を造ることが神様の創造目的でした。また、人間は神様が願われる希望の栄光を地上に現さなければなりませんでした。このように、神様の栄光を実体で現さなければならないのが私たちの先祖アダムとエバの責任だったのですが、彼らは堕落することによってそのみ旨を成し遂げられませんでした。

神様が創造理想を成し遂げて喜ぼうとされたその本然の園は、人間の堕落によって成し遂げられなかったのです。それで今まで全人類は、復活の栄光を希望としながら暗闇の勢力と対決し、闘いの道を歩んできているのです。これが6000年歴史の路程でした。

神様は今まで、歴史を経ながら全体的な復活の栄光と全体的な復活の偉業を成し遂げ、この地上の億兆蒼生(そうせい)と霊界の千万の天使天軍、そして被造万物までも神様の栄光を賛美し、感謝の敬拝を捧げることのできる一日を迎えようとされました。その一日を迎えるために、神様は大勢の預言者たちをこの地上に送られ、4000年の歴史が経過したのちに、神様御自身の内的心情と外的実体を備え、栄光の実体として送ってくださった方が、正にひとり子イエス・キリストだったのです。(1956・5・27)

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神様は全力を尽くしてアダムとエバを造り、彼らを通して喜びを感じようとされたのですが、彼らが堕落することによって、神様の心の中に悲しみが宿るようになりました。この悲しみを解いてさしあげるために来られた方がイエス様でした。それでは、イエス様がこの地上に来られて何をしようとされたのでしょうか。堕落していない本然の人間のように、堕落性を脱いで怨讐サタンの讒訴(ざんそ)を受けない人として、神様の前に堂々と現れ得る真の人を探し立てようとされたのです。(1957・2・17)

十字架の贖罪により救いの摂理は完成されただろうか

イエス様が来られた目的は、ユダヤ教を収拾し、イスラエル民族を収拾し、世界的なカナン福地を建設すること、神様のみ旨を成し遂げることでしたが、願っていた希望の基台がすべて崩れると、イエス様はしかたなく十字架による霊的救援の基台を立てていかれました。これは喜ばしいことではなく、憤懣(ふんまん)やる方ないことです。

ですからイエス様は、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ12・49)と語られたのです。この一節だけを解決すれば、新旧約のすべての問題が解けます。続けてイエス様は、「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう」(ルカ12・50)と語られました。この聖書の一節を内的にも外的にも完全に解決できる人は、天地を手中に収められる人です。聖書の骨子の中の骨子が、正にこの聖句です。(1964・3・15)

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今日の人々は、イエス・キリストの死を祝福し、十字架に贖罪の権限があることを信じていますが、それがすべてではありません。イエス・キリストが生前に語られたみ言に贖罪の権限があったことを、今日のキリスト教徒たちは忘却しています。もちろんキリストの十字架を信じることによって霊的な贖罪が可能なのですが、私たちが知らなければならないことは、イエス様が生前に語られたみ言を信じ、み言どおりに実践していれば、霊肉ともの贖罪と救いが成就していたということです。(1956・5・16)

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十字架によって救いを受けるのではありません。復活することによって救いを受けるのです。統一教会の救いもここにあります。十字架というものは、苦難の結実として恨を清算するための場です。復活は、十字架を離れて勝利し、再び生まれたということなので永生の場です。ですから、復活の道理を信じてそれを求めていかなければなりません。(1964・12・27)

イエスの十字架の死

私が受けた啓示の中で、最も重要なものの一つは、イエス・キリストが死ぬために来られたのではないということです。彼は地球上に天国をつくりなさいという神様から受けた救世主の責任を完遂するためにこの地に来られました。ところが、イエス様が十字架に打ちつけられて亡くなることによって、自らを不信のこの世界の祭物として捧げたのであり、また復活されることによって、霊的な救いだけを成し遂げたのです。(1977・2・3)

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四千年の基盤の上に送ったメシヤが十字架で亡くなったのは、神様の予定の中で亡くなったのではありません。サタンに引っ張られて十字架で亡くなったのです。十字架は、すべて失ってしまった立場だということを知らなければなりません。国を失ってしまい、教会も失ってしまい、洗礼ヨハネも失ってしまった立場です。そこには12使徒もすべて背信した立場であり、右側の強盗までも死んでいった立場です。一人もイエス様の側になった人や、天の側になった人がいない、すべてを失ってしまった立場だったのです。(1974・9・18)

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その当時のイスラエル民族は、どのようにしなければならなかったのでしょうか。神様の息子であるイエス様を中心として、死のうと生きようと彼と一致して、神様の願われる世界を成し遂げることに全体が一つになって協助しなければなりませんでした。それが選民を選ばれた神様の本来の目的でした。それにもかかわらず、イスラエル民族はイエス様と一つになれずに分裂してしまい、4000年歴史路程の最後の決戦でサタンに敗れることによって、イエス様は十字架を背負わざるを得なくなってしまったのです。(1965・10・17)

十字架の贖罪による救いの限界とイエス再臨の目的

イエス様の時は、イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の父母は実現されませんでした。すなわち、イエス様の誕生によって神様の血統は打ち立てられたのですが、霊肉ともの真の父母の顕現は実現されなかったのです。キリスト教の歴史は、霊的救いのみ成してきたのであり、肉的救い、すなわち肉身の贖いは実現されなかったのです。つまり今日まで、キリスト教には霊的な真の父と霊的な真の母しかいなかったということです。(1972・4・1)

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本来キリスト教の教理は、十字架の教理ではなく復活の教理です。イエス様が復活することによって救いが成立したのであって、死によって救いが成立したのではありません。ですから、キリスト教は復活の宗教です。だからといって十字架の救いを否定しているのではありません。亡くなってから3日後に復活されたイエス様のその復活の権能によって、私たちが救いを受けるのです。復活後の40日期間の基盤の上に、新しい第二イスラエル、つまりユダヤ教に代わる新しいキリスト教が出発したのです。(1964・3・15)

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万民の救世主であり、万王の王であり、万主の主であり、万人類の先祖として来られたそのイエス様を死の場に一人で送り出すのではなく、弟子たちも一緒に死ななければなりませんでした。そうしていれば、イエス様の復活とともに弟子たちも復活していたでしょう。もし使徒たちが復活していれば、キリスト教は血を流す宗教にはなっていなかったのです。それができないことによって、イエス様は霊的救援だけを成しました。イエス様の本来の使命は、霊肉共に救援することでしたが、これを完結できなかったために再び来なければなりません。(1965・12・7)

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神様が4000年間苦労されたのは、エデンの園で失ってしまったみ言を代わりに立てるためであり、み言の実体である第二のアダムであるイエス様を立てるためでした。そして、み言と実体を備えたのちに神様の永遠の愛を中心として、人間たちと愛の因縁を結ぼうとされたのです。ところが、永遠の真の愛の因縁を中心として神様とイエス様は一つになれましたが、人間たちは、神様と永遠の愛の因縁を結べませんでした。

神様の愛は必ずみ言を中心として現れます。神様のみ言であり、神様の実体であるイエス様は現れましたが、み言だけが残り、実体のイエス様は逝ってしまいました。それで、み言だけを中心として生きなければならない、悲しい世界に私たちは生きるようになったのです。

ですから、み言を通して人間たちが最後に願うこととは何でしょうか。再びイエス様を迎えることです。み言だけを所有していてはいけません。実体を迎えなければならないのです。(1958・2・2)

十字架に対する預言の両面

聖書は両面の預言がなされています。なぜかというと、堕落した人間は、行ったり来たりするからです。神様と一つになっていた人が、背を向けてサタンと組んで神様を滅ぼし、サタンと組んでいた人が、神様のところに帰ってサタンを滅ぼすというのです。

旧約聖書のイザヤ書9章、11章、60章、この3章を見ると、救世主が栄光の主として堂々と来るとありますが、イザヤ書53章では苦難を受けると預言されています。しかし、イスラエル民族がイエス様を信じて迎えることができずにイザヤ書53章のようになったので、信じることによって成されるべきことが成されず、それが延長して再臨の時に来て成就するようになったのです。

新約聖書も、旧約聖書と同じように、メシヤが来ることに対する預言は、蕩減復帰の原則によって両面でなされています。ヨハネの黙示録1章7節を見ると、再臨するメシヤについて、「見よ、彼は、雲に乗ってこられる」といっています。しかし、テサロニケ人への第一の手紙5章2節を見れば、「主の日は盗人が夜くるように来る」と預言されています。雲に乗ってくるのに、盗人のように来ることができますか。今日のキリスト教徒たちは、雲に乗ってくるということは信じ、盗人のように来るということは信じていません。ですから、私たちは知恵深い人にならなければなりません。(2002・5・21)

十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句

十字架の死は神の子の本来の使命ではなく、予定された路程が変更されたものでした。それは二次的な使命だったのです。それは変貌山上で決定されました。このことに関する記述がルカによる福音書9章30節と31節に見られます。「すると見よ。ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」。

イエス様の第一弟子のペテロが、イエス様から彼がエルサレムで苦しみを受け、十字架につけられるであろうということを知らされた時、ペテロは、マタイによる福音書16章22節に見られるように、激しく反対しました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。するとイエス様は彼に強く迫ってこう言われたのです。「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16・23)。

クリスチャンは、イエス様が十字架上で死ぬために来られた証拠として、この出来事をよく引用します。多くの人がこのように言います。「イエス様の言われたことを聞きなさい。彼は死ぬために来られたと言われた。だから、彼はペテロをとがめ、彼をサタンと呼んだのだ。なぜなら、ペテロはイエス様が十字架につくことに反対したからだ」。

しかし、現在、その解釈は一つの核心的な点を見落としています。イエス様は、神様がその御計画を変更され、イエス様の使命を変えられたことを知ったのちに、ペテロをとがめたのです。イスラエルがイエス様を拒んだので、神様は、地上天国実現というイエス様の本来の使命を果たすには民の協力が必要である以上、もはやイエス様がそれを続けられないことを知っていらっしゃったのです。

それで、イエス様の伝道の終わりの時点になって神様は、彼に霊的救いという限られた目標のみを達成するように願いました。したがってイエス様は、この二次的目標達成のための準備をしていました。しかし、哀れなペテロは、イエス様の使命がこのように変更されたことについて何も知らなかったのです。

イエス様は、ペテロの慰めと聞こえる言葉が、その時には既に神様のみ意と何の関係もなく、むしろ妨げとなったので、彼を「サタン」と呼んだのです。ペテロは無知蒙味から語ったのです。しかし、イエス様は、この二次的使命を失敗することは決してできませんでした。なぜなら、もし失敗すれば、彼が来たことが全く無に帰してしまうからでした。(1974・9・18)

エリヤの再臨と洗礼ヨハネ

エリヤの再臨を中心とするユダヤ人たちの心的動向

四千年間もよく信じてきたイスラエル民族とユダヤ教徒たちが、どうしてイエス様をメシヤとして侍らなかったのでしょうか。これを調べてみましょう。

イエス様は新時代の主人として来ました。一段階高い時代の主人として来たのです。そうだとすれば、昔のものをもって語ってよいでしょうか。旧約のみ言を語ってよいでしょうか。イエス様が、「ああ、旧約聖書いわく、あなたたちがどうでこうで……」このようにしていて神様のみ旨が成就しますか。旧約のみ旨は成就しますが、新約のみ旨は成就しないのです。

イエス様が「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」(ルカ24・44)、このように言ったのですが、それを誰が信じますか。「アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである」(ヨハネ8・58)と言うのですが、その話を信じますか。その時代のイエス様は、気が狂った人のようになってしまったというのです。ここにいる信仰の篤い牧師たちが、その当時のパリサイ人のような立場にいたら、イエス様を信じることができたでしょうか。

その時のイスラエル民族とユダヤ教の信徒たちは、メシヤがどのように来ると思っていたかというと、雲に乗ってくると思っていました。今も同じです。今の時代の人々も同じです。聖書のダニエル書第7章13節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて……」とあります。その時も雲に乗ってくると思っていたのです。雲に乗ってくると思っていたのに、雲に乗ってこなかったということです。

その時代においても、主は肉身をもって来られるのではないと、反対しました。聖書がそのようになっています。

それだけでなく、聖書のマラキ書第4章5節から6節を見ると、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」とあります。まずエリヤが来ると言ったのです。

エリヤはイエス様が来る約900年前に火の車に乗って昇天した預言者です。エリヤが来ましたか。旧約聖書を信じるユダヤ教徒たちは、天に昇っていったエリヤがまだ来ていないので、肉身をもって来たイエス様を今もメシヤではないと言っています。このような扱いをしているのです。今でも異端扱いです。

ユダヤ教徒とイスラエル人は「エリヤが来ていない」と言うのですが、イエス様は「エリヤは来た」と言うのです。それを誰が信じるでしょうか。「おい、こいつ。雲に乗っていったエリヤがまだ来ていないのに、お前がメシヤなのか。誰がエリヤなのか。お前がメシヤになるために詐欺を働いているのではないか」、このように言いました。

ヨハネによる福音書第1章21節を見てください。どのようになっていますか。エルサレムにいるパリサイ人と律法学者が人を送って洗礼ヨハネに尋ねたとき、どのようになりましたか。「彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』。『では、あの預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた」。洗礼ヨハネは否定してしまったのです。イエス様はエリヤだと言うのですが、張本人に聞いてみると、違うと言うのです。(1972・10・11)

ユダヤ民族の行く道

マタイによる福音書第17章10節以下を見てください。イエス様の弟子たちが伝道に出掛けたとき、律法学者とパリサイ人たちがエリヤについて尋ねたのですが、弟子たちは無学なので分からないのです。そして、弟子たちがイエス様のところに来て尋ねました。「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。その時、イエス様は、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」と言いました。その時に弟子たちは、洗礼ヨハネがエリヤだということを悟ったのです(マタイ17・10~13)。

その次に、マタイによる福音書第11章14節を見てください。「もしあなたがたが受け入れることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」。洗礼ヨハネだとイエス様ははっきりと言ったというのです。これはレバレンド・ムーンの言葉ではありません。聖書の言葉です。

さあ、イエス様は、洗礼ヨハネがエリヤだと言いましたが、洗礼ヨハネは「自分はエリヤではない」と言ったので、その時代の人たちは誰の言葉を信じるでしょうか。イエス様の言葉を信じるでしょうか、洗礼ヨハネの言葉を信じるでしょうか。洗礼ヨハネの言葉を信じるようになっていたのです。その時の洗礼ヨハネは、預言者として評判になっていました。

それでは、洗礼ヨハネはどのような人でしょうか。彼は間違いなくエリヤです。ルカによる福音書にもエリヤの霊と力をもってやって来たとあるのです(ルカ1・17)。天から来ると思っていたのに肉身をもって来られたイエス様は(洗礼ヨハネを)間違いなくエリヤだと言いました。神様はこのように摂理したというのです。(1973・10・11)

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ヨハネによる福音書第1章19節以下を見ると、人々が洗礼ヨハネに、「あなたは来られる主ですか、そうでなければエリヤですか、あるいは預言者の中の一人ですか」と尋ねました。ところが、すべて違うと否定してしまいました。

なぜそのように言ったのでしょうか。それは、イエス様の話の正否を確かめるためにやって来て尋ねたからです。その時、その時代において、イエス様は間違いなくコーナーに追い込まれ、行く道のない悲惨な立場にいることを知っていたので、洗礼ヨハネはそれを人間的な立場で考え、同じような境遇になることを避けるためにそのように答えたと考えざるを得ないのです。その時のユダヤ教徒たちは、洗礼ヨハネを預言者と考え、イエス様は何でもない者と考えていました。ですから、洗礼ヨハネの言葉を信じるでしょうか、イエス様の言葉を信じるでしょうか。それは間違いなく洗礼ヨハネの言葉を信じるようになっていました。この事件が歴史的な事件であることを否定できません。(1974・9・18)

洗礼ヨハネの不信

神様は、この地上に洗礼ヨハネを立て、天のみ旨を成就できる新しい道を築くようにしました。メシヤを迎え得る基盤を築くようにするために、あらかじめ洗礼ヨハネを送ったのですが、その洗礼ヨハネがイエス様を不信したのです。そのために、イスラエル民族を選民として祝福され、4000年間導いてきたその歴史を代表し、時代的な責任を担当して現れようとする民と、選ばれた者の行く所がなくなってしまいました。(1959・1・25)

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洗礼ヨハネは、歴史時代の4000年の人類史を終結できる摂理の前に、祭司長の責任を代表する立場に立っていたことが分かりませんでした。洗礼ヨハネ自身が30有余年の生涯を通してあらゆる困難な生活をしながら、修道の生活をしてきましたが、その深い心情の中で、自分がそのような立場に立っていることを、自覚して生きることが難しかったのです。ヨルダン川でイエス様に洗礼を施してあげたあと、その事件をその一日の特別な事件として感じたかもしれませんが、歴史がひっくり返る重大な時点であったことを、洗礼ヨハネ自身がよく分からなかったというのです。(1971・12・21)

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洗礼ヨハネも、イエス様が自分の弟だということを分かっていました。それでそのように非法的に生まれ、マリヤのおなかを通して生まれた息子がメシヤになることはできないと考えたのです。ヨルダン川で神様が「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と伝えましたが、信じられませんでした。自分の弟です。弟を兄のように侍ることができなかったのです。(1993・10・17)

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洗礼ヨハネが一番弟子になり、洗礼ヨハネの弟子がイエス様の12弟子になり、70門徒になるべきだったのですが、洗礼ヨハネが不信してすべて台無しにしてしまったのです。そして、その時代の最も悲惨な漁夫、不信される卑しい立場に立ったペテロやヨハネが使徒になりました。漁夫たちが使徒になったのです。4000年間、神様が精誠を尽くして準備した土台が、漁夫たちを使徒にするためのものだったのかというのです。(1973・7・23)

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イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをしてイエス様を信じさせ、救われるように導く責任を果たすべきでした。しかし、不幸にも、ザカリヤも、エリサベツも、洗礼ヨハネも、イエス様を神様の息子として証しただけであって、侍った実績は一つもありませんでした。尊敬される祭司長であるザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つようになったので、かえってイエス様の行く道をより難しくしたのであり、民たちがイエス様についていけないようにしてしまったのです。(1997・3・13)

洗礼者ヨハネがエリヤになった理由

ヤコブの家庭で12人の兄弟が一つになりませんでした。レアとラケルが闘ったのです。レアが欲心をもって自分の召使に生ませた4人の兄弟を合わせて、10人の兄弟が北朝イスラエルになり、ラケルのヨセフとベニヤミンの支派を中心として南朝ユダになりました。家庭的に一つにならなかったので、これが民族的に分かれていくのです。

それでイエス様の時代になってエリヤを送り、これを一つにしなければなりません。

本来は、エリヤを中心として、氏族時代で一つにしようとしたのです。バアル神とアシラ神に仕える850人の預言者を火で燃やし、生きている神様を中心としてすべて糾合しようとしたのですが、自分たちの預言者と神々を殺された人たちがエリヤを捕らえて殺そうとしました。するとエリヤは逃げ出して、「ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」(列王紀上19・14)と神様に言ったとき、神様が「わたしはイスラエルのうちに7000人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」(列王紀上19・18)と言われました。

神様の立場では、カインとアベルが一つにならなければならないのです。これが氏族的に成し遂げられなかったので、イエス様の時代、すなわち国家時代において、エリヤの代身者として召命されたのが洗礼ヨハネなのです。(1993・11・14)

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洗礼ヨハネの分派を中心として、イエス様と一つになっていれば、70人門徒、120人門徒は問題ありません。7000人いれば、家庭編成や氏族編成は問題ないというのです。その当時、洗礼ヨハネは、いなごと野蜜を食べながら修道生活を行う預言者として知られていて、メシヤではないかとうわさされるほどの立場にいたその人が、「私、洗礼ヨハネは、来られるメシヤを証するためのエリヤ的存在である」と証していれば、誰が反対したでしょうか。(1994・11・20)

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イエス様がアダム的立場で現れたので、そのアダムの前に堕落した世界から復帰されたアダムとして責任を果たすべき人が洗礼ヨハネでした。すなわち、洗礼ヨハネは、失ってしまったアダムが取り戻されたことを象徴する立場だと見るのです。それではイエス様は何でしょうか。完成したアダムとして探し出された息子です。ですから、この天の本然のアダムと復帰されたアダムが一つにならなければなりません。新しく出てきた完成したアダムと復帰されたアダムが一つになることによって、堕落していたアダムの子孫たちがすべてここに連結され、洗礼ヨハネと共に、イエス様と共に一つになってその道に従い、天に入っていけるのです。(1977・1・1)

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僕の歴史的代表者を完結すると同時に、養子的な新しい出発の起源を備えるべき代表者が洗礼ヨハネです。歴史的な世界人類を代表し、全体国家を代表する一人の天側の代表者がいなければならないのですが、その人が洗礼ヨハネなのです。ですから、このような立場で統一教会では、「洗礼ヨハネは復帰されたアダム型である」と言うのです。復帰されたことはされたのですが、堕落していないアダムではありません。

堕落していないアダムは神様の直系の子女ですが、復帰されたアダムは血統的過程が神様と異なる立場で復帰されてきたアダム的基準の人です。それは何かというと養子の位置だということです。養子の位置であり、復帰されたアダムとして、息子の名をもてる位置に立ったのです。ですから、この洗礼ヨハネが立つ位置は、どのような位置でしょうか。天使長の立場であり、復帰された立場ではアダムの立場に立つのです。(1975・4・6)

聖書に対する我々の態度

キリスト教が400以上の分派に分かれるようになった原因は、どこにあるのでしょうか。イエス様に原因があるのではありません。聖書にあるのです。この聖書というものがどのようなものなのか、はっきりと知らなければなりません。なぜなら、この聖書は、この悪魔サタンが主管するその主権内に、天のみ旨を立てる諜報要員を送り込むのと同じことをしているからです。これが救援摂理です。

サタン世界で神様のみ旨を成し遂げようと工作する人がいれば、サタンが捕まえて命を奪うのです。ですから、神様は、選んだ人を送るときには、必ず象徴と比喩と暗号を通して直接的に指示を出してきたのです。ですから、聖書を文字どおりに解釈していては、神様のみ旨を滅ぼし、人類を滅ぼすという結果に直面する危険性があるというのです。(1974・11・28)

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聖書は、神様が送った預言者たちの言葉であり、比喩と象徴で教えてあげたものなので、文字どおりに解釈するのではなく、神様に立ち返って、神様から解く道を探し求めなければなりません。そのようにしなければ、聖書を完全に解釈することはできません。

ですから聖書には、イエス様が終末になれば聖書を研究しなさいと言われたのではなく、頭に油を塗り、密室に入っていって祈りながら、天の近くに行くことを勧めたのです。(1974・11・12)

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聖書のみ言は神様の暗号なのですが、その暗号を解こうとすれば、天と通じなければなりません。天と通じなければ、暗号を解くことはできないのです。この世界でいくら有名な学者や、神学博士が大勢いても、その人たちが解くのではありません。その暗号を解ける人は一人しかいません。その人によって解かれたものが統一教会の原理です。(1974・5・19)

目次
  1. み言に学ぶ統一原理【前編】
  2. 総序について
    1. 人間の幸福と矛盾性
    2. 人間の無知と淫乱の弊害
    3. 宗教と科学
    4. 新しい真理の使命
    5. 「統一原理」とは
  3. 創造原理について
  4. 神の二性性相と被造世界
    1. 神の二性性相
    2. 神と被造世界との関係
  5. 万有原力と授受作用および四位基台
    1. 万有原力
    2. 授受作用
    3. 正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
  6. 創造目的
    1. 被造世界を創造された目的
    2. 神の喜びの為の善の対象
    3. 第一祝福 個性完成
    4. 第二祝福 子女繁殖
    5. 第三祝福 万物主管
  7. 創造本然の価値
    1. 創造本然の価値の決定とその価値の基準
    2. 創造本然の知情意と創造本然の真美善
    3. 愛と美
  8. 被造世界の創造過程とその成長期間
    1. 被造世界の創造過程
    2. 被造物の成長期間
  9. 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界
    1. 無形実体世界と有形実体世界
    2. 被造世界における人間の位置
    3. 肉身と霊人体との相対的関係
  10. 堕落論について
  11. 罪の根
    1. 生命の木と善悪を知る木
    2. 蛇の正体
    3. 天使の堕落と人間の堕落
    4. 善悪の実
    5. 罪の根
  12. 堕落の動機と経路
    1. 天使の創造とその使命および人間との関係
    2. 霊的堕落と肉的堕落
  13. 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
    1. 愛の力と原理の力から見た堕落
    2. 信仰の為の戒めを下さった目的
    3. 信仰の戒めが必要な期間
  14. 人間堕落の結果
    1. サタンと堕落人間
    2. 人間世界に対するサタンの活動
    3. 目的性から見た善と悪
    4. 善神の業と悪神の業
    5. 堕落性本性
  15. 自由と堕落
    1. 自由の原理的意義
    2. 自由と人間の堕落
  16. 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
    1. 創造原理の絶対性と完全無欠性のために
    2. 神のみ創造主であらせられるために
    3. 人間を万物の主管位に立たせるために
  17. 人類歴史の終末論について
    1. 神の創造目的完成と人間の堕落
  18. 救いの摂理
    1. 救いの摂理はすなわち復帰摂理である
    2. 復帰摂理の目的
    3. 人類歴史はすなわち復帰摂理歴史である
  19. 終末
    1. 終末の意義
    2. 終末の兆候に関する聖句
    3. 終末と現世
  20. 終末と新しいみ言と我々の姿勢
    1. 終末と新しい真理
    2. 終末に際して我々がとるべき態度
  21. メシアの降臨とその再臨の目的について
  22. 十字架による救いの摂理
    1. メシヤとして降臨されたイエスの目的
    2. 十字架の贖罪により救いの摂理は完成されただろうか
    3. イエスの十字架の死
    4. 十字架の贖罪による救いの限界とイエス再臨の目的
    5. 十字架に対する預言の両面
    6. 十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句
  23. エリヤの再臨と洗礼ヨハネ
    1. エリヤの再臨を中心とするユダヤ人たちの心的動向
    2. ユダヤ民族の行く道
    3. 洗礼ヨハネの不信
    4. 洗礼者ヨハネがエリヤになった理由
    5. 聖書に対する我々の態度