み言②

目次

み言に学ぶ統一原理【後編】

緒論について

第一節 蕩減復帰原理

蕩減復帰

救援摂理は復帰摂理

神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。体をまとうためであり、愛を完成するためでした。このようなみ旨の中でアダムとエバを造り、アダムとエバが完成して1つになれる愛の時代になれば、神様が臨在して完全に人類の愛の父母となり、霊的な世界においては、実体をもって臨むことができる道が開かれます。そして、実体世界においては、アダムとエバが神様の形状的実体をもった父母として君臨するようになるのです。そのように、実体を通して子女を繁殖し、それを通して霊界と連結させることがアダムとエバを造った目的でした。

そうすることによって、神様の愛を中心として人類の真の父母となり、実体の父母として生きて霊界に行けば、父母の位置が顕現されるようになっていたのです。このようなことを望まれた神様は、創造理想であるこの基準に向かって成就させようとしたのですが、堕落によってこれが完全に壊されてしまいました。

神様は絶対者でいらっしゃるがゆえに、志したものを成就しなければならず、成し遂げようとされたみ旨を必ず成就しなければならない方でいらっしゃるがゆえに、これを再び収拾し、再生工場で修理して、本然の神様の愛を受けることができ、堕落していなかったとき以上の基準にアダムを再整備しなければならず、エバを再び造り上げなければなりません。そして、復帰された父母として連結させ、子女を取り戻さなければならない立場です。そのような立場に立っているので、救援摂理というものが始まったのです。(1981・5・14)

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堕落とは何でしょうか。原理で言えば、無原理圏内に落ちたことを意味します。原理とは何の関係もなくなったのです。無原理圏に落ちた人間は、何の価値もない土の塊と同じです。無原理圏とは、神様が創造を始める前の状態を意味するのです。このような状態に落ちた人間に、神様が創造されたその過程を再び適用しなければ、人間を創造理想の実体として再現することはできません。(1973・7・29)

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堕落した人間は体を壊したのと同じです。体が壊れたので医者が必要です。それで救援摂理です。病気で死にかかっている人が病院に行って治れば、「救われた」と言います。ですから、病気になる前に戻らなければなりません。それを端的に言えば、神様の救援摂理は復帰摂理だということです。

復帰摂理をするには、大ざっぱな計算で復帰するのではありません。ブループリント(青写真)がなければなりません。本来人間はこうでなければならない、というプログラムがなければならないのです。創造の原則がなければならないというのです。ですから、復帰摂理は再創造摂理です。(1990・6・27)

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神様は、どのようにしてでも本来計画された真の愛の理想を回復されなければなりません。神様の救援摂理のために宗教を立てられ、善の版図を広げてきました。神様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する総責任を担って来られる方です。したがって、メシヤは真の父母として来られなければなりません。真の父母の使命は、人類を真の愛で重生させ、真の人に回復させて真の夫婦、真の父母になるようにすることです。(1995・8・22)

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私たちは、サタンから生まれた堕落した人間なので、サタンの愛から出発しました。それで、神様の愛と真の父母を中心とした愛の因縁をもつことができなかったので、真の父母の息子、娘になることができなかったというのです。結局、メシヤとは何でしょうか。真の父母です。

それでは、なぜ真の父母の愛を必要とするのですか。私が真の父母の愛を通して再び生まれなければ、生命が出発することができないからです。生命は、愛によって出発するのです。ところが、私たちは、堕落した生命から出発したので、これを否定して真の父母の愛と因縁を結ぼうとするので、真の父母の愛を求めるのです。それで、メシヤが必要なのです。(1973・3・4)

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神様の目から見れば、堕落した世界は霊的死の世界です。神様は、死の世界を生命の世界へと蕩減復帰しようというみ旨をもっていらっしゃいます。復帰とは救援の異なる表現です。本来の理想的な状態を喪失したときには、これを復帰しなければなりません。健康な人が病気にかかれば、医者が来て、再び本来の健康な状態へと回復させてあげなければなりません。同じように、神様が意図された本来の創造理想が喪失してしまったので、神様は、この堕落した世界を原罪のない本来の状態へと復帰させなければならないのです。

これを成就するために、神様はメシヤを送られます。しかし、メシヤが来る前に、神様は、特別に選んだ人々を通してメシヤを迎える準備をさせます。これを聖書では、ます。

野生のオリーブの木の果樹園として表現しています。野生のオリーブの木の果樹園は、堕落した領域の中で神様が以前と同じように指示し、統制できる特定の区域を象徴しています。これが準備されたのちにメシヤが来ます。メシヤは、神様の果樹園から野生のオリーブの木をすべて刈り取り、ここに命の真の枝を接ぎ木します。このようにすることによって、野生のオリーブの木はすべて真のオリーブの木になります。そのようにして人間は、本来の状態へと復帰されるのです。

今日の信仰者たちは、正に神様の果樹園にいる野生のオリーブの木です。しかし、最も篤実な信仰者であっても、神様の真の血統をまだ受けることができないでいるので、依然としてメシヤを求めなければなりません。メシヤは、人類の真の父母としてこの世に来て、本来のアダムとエバの位置に人間を復帰させてあげなければなりません。したがって、神様の真の血統と連結されるためには、メシヤであられる真の父母と一つになって真の愛を受けなければなりません。このようにすることによって、すべての人は神様の真の息子、娘となることができます。このような方法でメシヤは人類を救援してくださるのです。

メシヤは真の父母の立場から、悪い種から育った木を根こそぎ抜き取ってサタンを屈服させなければなりません。そのようにして、メシヤは真の愛の中で人類を神様と一つになるように連結し、すべての人を神様の真の息子、娘にしなければなりません。このような方法で、地上天国が建設され、人類はついに本当の自由を享有できるようになるのです。(1990・4・9)

堕落した人間の立場

私たち人間の始祖が堕落することにより、人間は善と悪の中間位置に置かれるようになりました。ですから、善の人になることもでき、悪の人になることもできるのです。一歩右側に行けば善の人になることができるのであり、一歩左側に行けば悪の人になることができます。このように相反した二人の主人から、相反した二つの目的に支配されているのが私たち一人一人です。(1971・2・13)

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「私」という存在について見てみると、私自体も私一人を中心として、思いどおりにできる自分になることができずにいます。自分自らの一念で年頭には「1年間、このようにしなければならない」と誓いますが、願うその志は成し遂げられず、願わないことをより多くするようになるのを、私たちは日常生活で見るようになります。それで1年が過ぎ去ってから回想してみれば、その1年の中には後悔する時が多いことを感じるようになります。

私が願う所へ行かないで、願わない所へ行くようになるのはなぜでしょうか。それは、私が願う所へ行くように引っ張ってくれる力よりも、願わない所に引っ張るより強い力があるためです。すなわち、「私」という個体は、善と悪の中間位置に置かれているのです。善と悪の中間の立場に立っているというのです。ですから、私の個体は、善の支配も受けるのであり、悪の支配も受けるのです。この2つの分岐線が皆さんの個体を中心として連結されています。(1971・2・13)

蕩減復帰とは

蕩減復帰とは何を意味するのですか。何であっても、その本然の位置と状態を喪失したとき、それらを本来の位置と状態に復帰するには、必ずそこに必要なある条件を立てなければならないということを意味するのです。このような条件を立てることを蕩減といいます。しかし、一般社会では、蕩減という言葉をそのように重要視していません。言葉はありますが、その内容をよく知らずにいるからです。天と地、神様と私たち人間だけならば、このような蕩減という言葉は必要ないはずです。私たちの最初の先祖を堕落させたサタンがいるから必要なのです。(2002・8・10)

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復帰しようとすれば蕩減が必要です。蕩減とは何でしょうか。「蕩」という字は、溶かして削って、小さくするという意味です。ですから、様々な損害を被ることによって罪を削って、小さくするのが蕩減だということです。(2002・8・15)

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蕩減というものは、あることに対して、犠牲の条件を代わりに立てて越えていくことです。10の損害を被れば、何らかの条件を立てて10以上の利益をもたらして、初めて蕩減になるのです。(1970・3・14)

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蕩減は何によって成立するのでしょうか。祭物によって蕩減という結果が成就するのです。皆さんは蕩減復帰という言葉はよく語りますが、祭物という認識からは離れています。祭物がなければ蕩減復帰が成立しません。蕩減にならないのです。ですから、蕩減は祭物を通してしなければならないのですが、これは必ず裂かれなければなりません。(1971・8・30)

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蕩減復帰の過程では、絶対に神様も後援しないし、教会も後援しないので、1人でしなければなりません。助けてあげたら蕩減になりません。どうしてですか。人間の責任分担という原則があるので、その原則において、助けては蕩減にならないからです。それを助けることができたならば、人間が堕落するとき、神様が干渉して堕落しないようにしたでしょう。人間の責任分担があるからできなかったのです。(1983・3・1)

蕩減条件

私たち堕落した人間は、善を追求するにおいて、善を追求してその道に従っていくといっても、誰もがその目的を達成できるようにはなっていないのです。善の主体であられる神様がいらっしゃり、ここに相反した悪の主体であるサタンがいるので、神様とサタンの間で、神様とサタンが認める条件を立てなければ、方向転換して善の立場を求めていくことができません。

言い換えれば、今日の立場からより良い善の立場に出ていくためには、それに相応するある代価を払わなければならないのです。そうでなければ、より良い善の立場に到達できません。ですから、それに相応する内容の蕩減条件を神様が提示するか、人間が提示するかしなければならないというのが原則です。(1971・9・5)

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今までこの歴史を誰が動かしてきましたか。サタンが動かしてきました。ですからサタンを分別しなければなりません。サタンを取り除かなければ、神様は入ってこられないのです。神様の領土ではなくサタンの領土なので、堕落した圏内から蕩減条件を立ててサタンを分別しなければならないのです。追放し得る蕩減条件を立てなければ、神様の領域が拡大され神様が活動できる基盤を築くことができません。(1987・2・4)

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サタンをどのように分別させるのでしょうか。蕩減条件を立てることができる立場に立ったアダムの、代わりの存在にならなければなりません。ですから本然の基準において責任分担を完成した資格者となったアダムの位置で、真の愛を中心としてサタンと対決し、サタン側で愛するよりも天の側でもっと愛したという条件を立てることによって分別が行われるのです。ここに蕩減条件が成立することを知らなければなりません。


サタンは環境を支配しているので、中傷、謀略をして、どんな手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。しかし、その環境を克服して、どんなことがあっても神様に代わってアダムが失った責任分担を取り戻せば間違いありません。それは永遠のものです。そして、神様を愛することにおいて、誰が何と言っても絶対に間違いないと言える基準を立てなければ蕩減ができないというのです。(1987・2・4)

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アダムが責任分担を果たすことができなかったので、責任分担を果たすにおいて、私たちが誰かの協助を受けてはその使命を完遂できない立場にいます。最後の決定は私たち自身がするのです。言い換えれば、善の人になるのか、悪の人になるのか、ということを決定するのは、神様がしてくださるのではなく、私たち自身がしなければならないのです。(1970・3・14)

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人間が堕落することによって、どんな結果が現れたのでしょうか。人間世界から神様が追放され、天使世界が追放され、万物世界を失って、その次には個人基準、家庭基準、氏族、民族、国家、世界基準をすべて失ってしまいました。その責任は誰にあるのでしょうか。その責任は神様にあるのでもありません。天使世界にあるのでもありません。万物にあるのでもありません。人間にあるのです。このような結果が現れたのは人間の責任です。ですから人間は、自分たちが責任をもって復帰路程を歩んでいくべき運命に置かれているのです。(1978・10・22)

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蕩減条件は、神様がお立てになるのではなく、人間が立てなければなりません。病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲みたくなくても飲まなければならないのです。「良薬口に苦し」です。苦いものが本当の薬になるのです。蕩減条件を立てるのは、苦い薬を飲むように難しいことです。しかし、蕩減条件を立てなければ復帰できません。(1977・4・18)

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蕩減というものは、必ず反対に払っていかなければなりません。救援摂理は蕩減復帰です。そして、蕩減復帰の路程は再創造摂理です。そのまま上がっていくことはできません。落ちたのなら、落ちたとおりに上がっていかなければならないのです。それが道理であり、公式です。ブループリント(青写真、設計図)によって工場で生産されたものが故障すれば、再びブループリントを通して製作されなければならないのと同じです。(1995・10・29)

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蕩減条件というものは、私たちにとっては有り難い恩賜です。95パーセントは神様の責任であり、5パーセントは人間の責任です。これをまるで公式のように考えるかもしれませんが、私たちがこのような条件的な蕩減をするということは、とても悲しいことです。その条件的な蕩減を条件的な蕩減ではない基準まで引き上げるためには、その背後で神様の苦労が介在されなければならないのです。なぜなら、私たちが堕落した先祖の子孫として生まれたからです。(1970・3・14)

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一人で暮らす善良な寡婦が、亡くなった夫の負債を払わなければならない立場にいるとき、周りの人がすべて同情するようになります。そして、そのうわさが債権者にも届き、同じように同情して、「大勢の人たちが願うとおりに私がしてあげなければならない」と考え、負債の一部だけを返済することで全額を支払ったとみなしてくれることがあるのです。このような立場に立つとき、蕩減されたといいます。小さい条件的なお金で多くのお金を支払ったものとして扱うようになるとき、それを蕩減条件金というのです。(1994・11・10)

蕩減条件と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

蕩減復帰するには、反対にしなければなりません。それで絶対信仰が出てきたのです。人類の先祖が不信して堕落したので、これを踏み越えていかなければなりません。私たちの先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければならないので、絶対信仰をしなければなりません。絶対信仰の限界とはどこでしょうか。死んでも行くということです。(1983・4・10)

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蕩減は、何を中心としてするのでしょうか。蕩減の内容とは何でしょうか。サタンをより愛するのか、神様をより愛するのかという愛の問題です。すべてのことが愛の問題です。ですから蕩減するには、神様を絶対に信奉しなければなりません。サタンは神様を信奉せずに背信したというのです。途中で神様を背信しました。ですから、 まず蕩減の道を行くに当たって、信仰や行動が絶対的でなければなりません。(1990・10・14)

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サタンを防御するには、神様を誰よりも愛さなければなりません。この世界の誰よりも愛して、宇宙を誰よりも愛さなければなりません。自分よりも愛さなければなりません。自分は堕落した人間なので、自分より愛さなければならないのです。サタンは神様より自分を愛し、世界より自分を愛しました。それがサタンです。(1986・10・8)

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今までの道人たちは、何を中心に生活してきましたか。イエス様もかわいそうな人です。人間的に見れば何の主張もない人です。夜も昼も神様のみ旨だけをもって、自分の思いはないのです。神様のみ旨の前に絶対服従でした。なぜ絶対服従したのでしょうか。絶対的な主体がいるにもかかわらず、もう一つの主体圏を成したのがサタンなので、そのサタンを取り除くためにそうしたのです。 今日の人間は、サタン圏の中に隷属しています。サタン圏内に隷属している人間を脱出させるためには、サタンが一番嫌がる道を行かなければならないのです。それで宗教は、良心を中心に絶対服従しなさいと言うのです。(1972・5・29)

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絶対的に服従することは、滅亡することではありません。服従したらどうなりますか。一つになります。一つになったらどうなるのでしょうか。悪は反発するのです。 完全に一つになっているので、悪は反発します。それで悪を取り除くことができるというのです。これが原則です。(1972・5・29)

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神様は宇宙を創造されるとき、絶対信仰をもって造られました。さらに、神様は私たち人間を愛の絶対的パートナーとして造られました。絶対従順とは、自分自身までもすべてなくして完全投入することを言います。このように投入しては忘れ、投入しては忘れ、最後には自分という概念まですべてなくなるゼロ・ポイントになるのです。

愛を否定されてももっと愛し、投入してももっと投入してこそ、怨讐を真の愛で自然屈伏させる位置まで進むようになるのです。神様がそのような道を歩んでこられ、天地父母がそのような道を歩んできたのです。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことを続ける人が中心者となり、全体の相続者となり、孝子の中の孝子となります。(2000・1・11)

メシヤのための基台

信仰基台

私たちは、神様や創造本然の理想と関係を結ぶことができない人間になってしまいました。私たちが、再びその位置に戻るためには、神様を中心として再びつくり出される信仰と実体と心情の内的な因縁を経なければなりません。

それでは、なぜ私たちに信仰が必要なのでしょうか。「取って食べるな」という神様のみ言を守らずにみ言を失ってしまったからです。不信によってみ言を失ってしまったので、私たちは、再び信仰の基台を立てなければならないのです。信仰の基台というのは、何のための基台でしょうか。私たちの実体がその上にしっかりと立つことができるようにするためのものです。(1973・7・29)

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アダムが失ったものとは何でしょうか。最初は信仰を失い、その次は実体を失って、 その次に愛を失いました。この三つです。これを取り戻そうというのです。ところで、 この愛というものはメシヤが来てこそ取り戻すことができます。メシヤによって愛の道が開かれるので、まずメシヤと一つになってこそ、神様の愛の中で生まれた私の実体と、神様の愛の中にある信仰が決定するのです。ですから、「復帰」と言えば、常に信仰復帰、実体復帰、愛復帰という観念をきちんと入れておかなければなりません。

信仰を復帰するためには心と体が一つにならなければなりません。心と体が一つにならなければ、サタンを分立させる基台を立てることができません。私の心と体が一 つになれば、アダムが堕落していない本来の基準になっているためにサタンが離れていき、私と祭物が一つになることによって、本然の位置に立つことができるのです。(1973・3・4)

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信仰基台を立てるためには、数字が必要であり、摂理的中心者、つまりアダム側の人が必要であり、その次には条件物、この三つが必要です。一つは人、その次に、ノア時代の三層の船やアブラハム時代の三大祭物という条件物が必要であり、その次には数字が必要です。三日期間や四十日路程という、期間が必要なのです。いつでも祭物を捧げられるのではありません。自分が願うとおりにするのではなく、法が定めるとおりにしなければなりません。(1982・7・11)

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祭物を捧げるためには、必ず条件的な期間があります。そして、中心人物、選ばれた人物がいなければなりません。その次に、一定の期間内に捧げられなければ、祭物になることができません。一日遅れても、祭物になり得ないのです。期間を短縮するのはよいのですが、延長するのはいけません。短縮するのは完成の基準ですが、延長するのは未完成の基準なので、許されないのです。延長は許されません。延長すれば、 すべてのものがサタンのものになるのです。しかし、短縮すればサタンは讒訴できません。(1992・4・9)

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信仰基台が立てられたということは、神様を不信することによって堕落したのですが、条件的立場で神様が信じ得るアダムの立場、すなわち希望的なアダムの立場にもう一度立ったということです。このようになったのちには、サタンと闘って自然屈伏させて実体基台を立てなければなりません。(1971・2・6)

実体基台

メシヤには、一人では絶対に出会うことができません。カインとアベルが一つになって、初めて出会うことができるのです。堕落したために、私が二つになったのです。 私が二人になったのと同じです。ですから、二つになったものが一つにならなければなりません。堕落していない人にアベルとカインがいますか。アダムだけであり、アベルしかいません。しかし、アベルとカインの二人になったので、この二人が一つにならなければ本来のアダムの位置に行けないというのは絶対的です。(1973・3・4)

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私たちは堕落性をもっています。堕落性の四大項目は何ですか。驕慢と嫉妬、血気、 そして偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんもこれを脱がなければならないということです。これを脱ぐために、今まで断食をしたり様々なことをしてきたのです。これを脱ごうとすれば、復帰路程の審判時代においてどのようにしなければなりませんか。私自身がみ言で武装し、み言の実体にならなければなりません。(1960・9・4)

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皆さんは、真の愛で悪を屈服させて善を残し、悪が自動的に順応できる立場に立ってこそ、善の人になるのです。それを原理的に言えば実体基台の完成ということです。 (1972・6・6)

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実体基台はなぜ必要なのでしょうか。これが、いかなる讒訴の条件もない所で、神様の愛を受けることができ、その愛を成立させることができる基台だからです。 神様の愛を成立させることができる基台の上に立って、初めて神様と私たちが一つになるというのが原則なので、創造の偉業を成し遂げられた神様の立場と、創造された被造物との関係を、復帰の途上において再現しなければならないのが、神様と今日の復帰路程を経ていく私たちの立場です。(1973・7・29)

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堕落の影響は、個人だけでなく、家庭、社会、国家、世界、全宇宙に広がりました。
それで、楽園を失ってしまった人間が理想世界に行くためには、復帰の過程、すなわち再創造の過程を経なければなりません。しかし、人間は直接再創造の道に行くことができません。つまり、人間は堕落した経路を逆さまに上がっていき、蕩減路程を歩まなければならないのです。


アダムとエバ、天使長は、偽りの愛によって堕落して公的な路程を歩みませんでした。したがって、人間はサタンより神様をもっと愛し、罪悪を憎んで善を愛し、私的なものより公的なものをより優先しながら、心情を通じた回復の道を歩まなければならないのです。これは、決して架空の理論ではなく、実在的原理として、個々人が本心に従い、日常生活の肉的欲望の根源であるサタンを否定し、神様をこの上なく愛さなければならないことを意味しています。人間は、社会的次元で、家庭的、民族的、 国家的、世界的、宇宙的次元で、神様を中心とする犠牲、奉仕、真実と真の愛の実践を通して、貪欲、放縦、不信と偽りの愛など、悪の根拠を除去しなければなりません。
(1987・6・30)

メシヤのための基台

復帰の路程は、蘇生、長成、完成、すなわち旧約時代、新約時代、成約時代を経ていきます。原理のみ言を見れば、信仰基台、その次に実体基台、その次にメシヤのための基台があります。そのメシヤのための基台とは、どのような基台を言うのでしょうか。相対的対象の価値を備えた心情の基台をいうのです。(1973・7・29)

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堕落した父母によって生まれた人間は、アベルとカインが一つになったとしても、これはまだ血統的には完全に清算されていないのです。サタンの血統を受け継いだことにより、血統的にはまだ清算されていないのです。血統的に清算するには、必ずメシヤが必要です。それで信仰基台、実体基台、メシヤのための基台が、堕落した人間には絶対に必要です。最後の問題は、どのようにメシヤのための基台をつくり、メシヤを通じて自分が血統転換を成すのかということなのです。(1972・5・7)

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原罪の清算はどのようにしなければならないのでしょうか。真の父母がある条件を中心として祝福してあげなければなりません。祝福式の時に聖酒を飲むのが原罪を清算する儀式です。このような絶対的な内容を中心として、天と地においてサタン世界を分立していくのです。原理がそのようになっています。ですから、信仰基台を中心として実体基台を通過し、メシヤのための基台を立てなければなりません。(1970・8・16)

復帰摂理歴史と「私」

縦的な歴史を横的に蕩減復帰する「私」

今いる私たち個々人の存在というものは、私たちの過去二十年、三十年だけの結果ではありません。人類始祖アダムとエバからつながっているのです。川で例えれば、 急流や、広々とした川のゆるやかでとうとうとした流れ、滝、カーブなど、様々な状態や様相があります。そのような流れの一場面に当たるのが、今の私たち一人一人の存在です。(1975・7・13)

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私たちは、復帰途上の縦的な歴史を横的に蕩減しなければならない責任があります。アダム一人が成し遂げるべき基準を成し遂げられなかったので、再び家庭的アダム、氏族的アダム、民族的アダム、国家的アダム、世界的アダムが出てきて蕩減復帰をしなければなりません。私たちは、縦的な蕩減条件を横的に立てていくにおいて、個人的な闘いで勝利し、家庭的な闘いで勝利し、氏族的、民族的、国家的、世界的な闘いでも勝利しなければなりません。(1964・9・18)

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六千年に千年を合わせた七千年を、七年で蕩減するのです。これが公式なので、堕落した人間は、誰もが七年路程を経ていかなければなりません。この期間を越えれば、 どのようなことでも収拾が可能になります。その七年が、縦的な歴史を横的に蕩減するにおいてかかる期間です。この公式的な路程は、子女として誰もがみな歩んでいかなければなりません。(1967・11・20)

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現在の皆さんは歴史的結実体ですが、歴史的な氏族を中心とする結実体です。皆さんは、善の先祖たちがいて、その先祖たちの功績によって先生と出会ったのです。皆さん自身が先生に出会いたいと思ったから出会ったのでもなく、皆さん自身が優れているから出会ったのでもありません。皆さんが誰を通して生まれたとしても、その先祖が功績ある歴史の一分野と関係があるのです。


皆さんの目も、皆さんの目ではありません。誰であっても、その顔を見れば、彼の母親に似ていたり、彼の父親に似ていたり、彼の祖父に似ていたり、彼らの姿の一部分くらいは似ているのです。それをすべて分析してみれば、皆さんの数千代の先祖の血統がすべて宿っているのです。どの細胞でも、すべてそのようになっています。(1971・8・13)

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私たちは、どのような存在でしょうか。今日の私が生まれるまでに、神様が六千年間の世界的な闘いを経て苦労されたことを知らなければなりません。このような神様の苦労によって探し出された自分です。ですから、皆さんは、皆さんを育ててくださった神様の恩恵を忘却してはいけません。また、神様の苦労を身代わりした祭物だということを自ら感じられなければならないのです。


そして、皆さんを探し立てるための苦難の道、厳しく困難な闘いの道を経てこられ、 語ることのできない神様の怨恨と嘆息があったことと、数千、数万の先祖たちの血の犠牲があったという事実を知らなければなりません。それだけでなく、私たちを救ってあげるために苦労された神様の愛の心情を感じることができる息子、娘にならなければなりません。(1957・6・23)

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皆さんは、自分の心と体と万物を収拾しなければなりません。自分の心の中に神様の愛が臨在できなければならず、体はこの地でイエス様が実践していたようにしなければなりません。イエス様と聖霊が二千年間役事していた内容を実践しなければならないというのです。このような立場で先生は、世界的な使命を果たし、皆さんは氏族的な使命を果たさなければなりません。全体が行くことのできる道を先生が築いておきましたが、これからは皆さんが収拾していかなければなりません。(1968・11・10)

復帰原理を学ぶ目的

復帰原理を通して、私たちは何をするのでしょうか。悲しい歴史過程を終結するために精誠を尽くし、蕩減条件を立てなければなりません。そして、アダム家庭でアダムを失ってしまった神様の、その悲しみに同参しなければならず、カインが最後の結実を結ばなければならないにもかかわらず、アベルを殺害することによって神様に釘を打ちつけたその悲しみを忘れさせ、ノアが百二十年間苦労して忠誠を尽くしたにもかかわらず、一時に破壊されたその悲しみを忘れるようにしなければなりません。

また、アブラハム、イサク、ヤコブの三代にわたって苦労した心情的な内容を知らなければなりません。そして、モーセからイエス様まで、二千年間続いてきた神様の悲しみに同参できなければならないのです。そのようにするために、神様の心情を皆さんに植えつけてあげるためのものが復帰原理です。(1967・1・29)

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復帰原理を学んで、復帰それ自体を知ることが問題ではありません。復帰原理を動かし、摂理してきた神様がどのような方なのか、ということを知るのが目的です。そして、神様がある悲しみを抱いて、こうして私のために苦労したという事実をはっきりと知り、私よりもはるかに偉大で尊い方が私のためにこのように苦労したという事実が、あまりに途方もないことだと感じるようになるとき、それ自体が私にとって力の母体になり得るというのです。(1967・4・10)

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アダムが堕落によって神様を悲しませた事実、カインがアベルに従順でなかった罪、ノアを中心とする摂理においてのハムの失敗、アブラハムを中心とする曲折の歴史、モーセを中心とする悲しみの歴史、イエス様を中心とする恨の歴史、このような憤懣(ふんまん)やる方ない歴史と、皆さん自身の立場まで蕩減しなければなりません。

アダムの悲しかったことと、アベルの悲しかったこと、ノアとハムの悲しかったこと、アブラハムやモーセの悲しかったことを代わりに蕩減し、神様が希望として御覧になることができるようにしなければなりません。これが皆さんの責任です。アダムやアベル、ノア、アブラハム、モーセ、またイエス様の事情と心情を体恤し、「お父様、 私は、彼らのような立場にはなりません。洗礼ヨハネやイエス様のような境遇にはなりません。神様を悲しませる群れにはなりません」と言わなければならないのです。 今まで先祖たちができなかった忠誠で、神様の前に希望をお返ししてさしあげようという覚悟がなければなりません。


それだけでなく、「神様、アダムに与えたいと思われたものが何だったのでしょうか。 祝福の因縁を残してくださいますように」と言うことができなければなりません。ノア、アブラハム、モーセなどの使命者たちが結びたいと思っていた心情の因縁を結ばなければなりません。歴史的な先祖たちが相続できなかった心情を相続しなければならないのです。(1962・4・19)

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ヤコブ路程はモーセ路程の典型であり、モーセ路程はイエス路程の典型であり、イエス路程は再臨主が行かなければならない典型路程です。それでは、再臨主路程は誰が模範として行かなければならない路程ですか。正に皆さんが行かなければならない路程です。再臨主が来る時まで、個人的なヤコブ路程は象徴的であり、民族的なモーセ路程は形象的であり、世界的なイエス路程は実体的です。


しかし、再臨主が実体的に蕩減するならば、皆さんは形象的に蕩減しなければならず、皆さんの子孫たちは象徴的に蕩減しなければなりません。そのようにして一周回って越えるのです。象徵的、形象的、実体的に越えて再び実体的、形象的、象徴的に戻る時、初めて世界は平和の世界に戻っていくのです。原理がそのようになっているというのです。(1969・2・2)

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