動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=nNPfJxIPxrE
目次
3行要約
- 2000年代初頭、現役の組員だったヨッちゃん氏は親分の依頼で覚醒剤の下見のため単身で北朝鮮へ渡航。北京経由で平壌に到着した直後、出迎えた4人に車へ乗せられ、通訳から「これから逮捕します」と告げられた。
- 連行されたのは政府系とみられる5階建ての建物。裁判も外部との接触も一切ないまま、ベッドと風呂・テレビのある一室で24時間4人の監視付きという状態が6年続いた。食事は粥とキムチ、テレビは毎日同じ映像の繰り返しで、正気を保つのに苦労したと語る。
- 北朝鮮側が重く見たのは覚醒剤の件よりも、彼の逮捕によって万景峰号の入港が約1年止まったこと。解放は突然で、3日前から待遇が変わり、北京経由で帰国。新潟空港では報道陣と警察が待ち構えており、その後ヤクザを引退した。
詳細要約
1. 発端――親分から託された「アイス」の下見
- 依頼の経緯
- およそ23年前、2000年代初頭の話。当時40代で現役の組員だったヨッちゃん氏に、親分から「ちょっと行ってくれ」と北朝鮮行きを頼まれた。
- 話の出どころは関西方面のルートとみられるが、詳細は本人にもはっきりしていないという。
- 行く者がいなかったため回ってきた依頼で、「親分の顔もあるし、嫌だとは言えない」状況だった。
- 「1人で行かせてくれ」と申し出た理由
- 複数人で行けば、捕まったときに話が食い違って面倒になる。だから自分1人で行く、と親分に伝えたと振り返る。
- 任務は覚醒剤(「アイス」)の品質確認で、質が良ければ10kgをキムチの箱に詰めて持ち帰れという指示だった。
- 資金は本人ではなく、朝鮮総連関係とされる別の人物が万景峰号で運ぶ段取りで、打ち合わせは新宿で済ませていた。
2. 渡航ルートと、到着直後の逮捕
- 当時も直行ルートはなく、北京で乗り継いで平壌へ向かった。特別な事前準備はせず、親分から渡された300万円ほどを持っての渡航だった。
- 日本のパスポートで入国審査を通過。審査そのものは他国の空港と変わらず厳しくはなかったという。
- 空港を出ると、同じ服装の男性4人が待っていた。車に乗るよう促され、乗車直後に通訳から「これから逮捕します」と告げられる。
- 本人はまだ何も受け取っておらず、物も出ていない段階。「はめられた」「出来レースのようだった」と感じ、その時点で覚悟を決めたと語る。
- 容疑は薬物の件と、万景峰号で持ち帰ろうとした件。渡航の目的そのものが事前に伝わっていたことになる。
3. 6年間の監禁生活の実態
- 施設と部屋
- 連れて行かれたのは5階建ての建物の一室。全員が同じ服とバッジを着けており、政府関係の施設という印象だったという。
- 鉄格子はなく、ベッド、ソファ、テレビ、トイレと風呂のある「ビジネスホテルのような部屋」。ただし24時間、4人の監視が室内に付いていた。
- 着替えを拒み、身体検査と荷物検査の際に40万円ほどを渡したところ、結果的にベッド付きの部屋を与えられたと本人は見ている。
- 半年ほど経った頃、トイレ脇のケースの中に隠しカメラを発見。抗議すると外されたという。
- 1日の過ごし方
- 食事は粥のようなものとキムチ、焼き魚のようなおかずが2品ほど。肉は出なかった。
- 食堂へは警備付きで移動でき、敷地内の道を2〜3周する散歩が運動代わり。周囲は木で囲まれ、外の様子は見えないようになっていた。
- 2か月に1回ほど、自分の金でタバコ・酒・パンなどの買い出しに出ることは許された。
- 警備員とは言葉が通じず会話はなし。通訳が同席したのは最初の1年ほどで、以降はたまに来る程度だった。
- テレビは夕方5時から夜9時までで、内容は毎日同じ。北朝鮮の選手が勝った場面ばかりが繰り返し流れていたという。
- 退屈のあまり、醤油とソースを戦わせるような遊びで気を紛らわせていた時期もあり、5年目あたりで「おかしくなった」と自覚したと明かす。
- 裁判も外部接触もなし
- 取り調べは通訳付きで行われ、調書のようなものも作られたが、裁判は一度もなかった。
- 弁護士とも総連関係者とも面会させてもらえず、自分がどういう状況にあるのか最後まで分からなかったという。
- 唯一の例外が、北京駐在の日本政府関係者による面会。生活状況や食事、扱いについて確認されたが、今後の見通しについての説明はなかった。
- 施設に収容されていたのは本人だけで、他の被収容者と顔を合わせることはなかった。
4. 万景峰号の停止と「お前のせいだ」
- 彼の逮捕をきっかけに万景峰号の入港が止まり、およそ1年間、新潟に入れない状態が続いた。
- 北朝鮮側はこれを「政治的な妨害」と位置づけ、覚醒剤の件よりもはるかに強い調子で責任を追及してきたという。
- 万景峰号が入港していたのは新潟、青森ほか数港。本人は新潟のルートに関わっていた。
5. 隣の建物に住む日本人
- 収容から3年ほど経った頃、通訳から「この建物の隣の隣に日本人が住んでいる」と聞かされた。
- 立派なマンションで、誰が住んでいるかは教えられなかったが、「もしかしたら横田めぐみさんがいるのではないか」という話をちらりと耳にしたという。
- それ以上の情報は与えられず、匂わせるだけで終わった。帰国時の事情聴取でもこの件は口にしなかったと語る。再び連れ戻される恐れを感じたためだという。
6. 突然の解放と帰国
- 解放の3日前から待遇が一変。菓子やパンが出るようになり、部屋も良くなった。
- 日本人と思われる人物が撮影に訪れ、「こういう情報があったので来ました」とだけ告げて写真を撮っていった。
- 理由の説明もないまま「平壌空港へ行く」と言われ、施設の人間と幹部に送られて出国。所持品とパスポートは返却された。持参した300万円は1万円ほどしか残っていなかった。
- 北京では日本政府の担当者が待っており、航空券代5万円を借りて帰国。脚と体を痛めており、状態は良くなかった。
- 空港には全チャンネルの報道陣と警察官が待ち構え、別室で所持品検査と「日本人と会わなかったか」という聴取を受けた。
- 事務所はすでになく、本部まで送ってもらって組と連絡を取り、若い衆が迎えに来た。親分とはこのとき会えなかった。
- 体もボロボロで「もうダメだ」と判断し、板橋区役所に相談。北朝鮮から帰国した本人だと分かって話が通り、そこからヤクザを引退して現在に至る。
7. 本人が振り返る「なぜはめられたのか」
- 後悔しているかと問われ、「生きて帰ってこられたのだからそれだけでいい」と答えている。
- 自身の見立ては、船で運ばれてくる資金こそが北朝鮮側の狙いだったというもの。泳がせておいて、金を持ってきた人間を捕らえて金だけ取る構図が見えたと語る。
- 自分については使い道を決めかねたまま置かれ、精神的に限界が見え始めたところで解放されたのではないか、と推測する。
- ただし「正確なところが分かるはずはない」と、あくまで本人の推測であることも認めている。
※本記事は番組の内容を要約して紹介したものです。証言は出演者本人の記憶と見解に基づくものであり、第三者によって裏付けられた事実として確認されたものではありません。

